2017年12月10日

説教 『手で引き上げる』

2017年12月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書12章9〜14節
イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。


 自分の羊が穴に落ちたら、すぐに駆けつけて引っ張り上げるということは、人々にとって普通の行動だったでしょう。でも一つだけ例外があって、「安息日には、あらゆる仕事をしてはない」という掟でした。そこにです。ファリサイ派の人々がイエス様のところに片手の萎えた人を連れて来て、「安息日に、この人の病気を治しても良いか」と問うて来たのです。「もしもイエスが、ここで安息日規定を破ったら、処罰できるぞ」と、罠を仕掛けたのです。でも言ってみればこの罠は子供だって見破れる、あからさまな罠です。イエス様はこう答えられれば十分だったはずなんです、「命に別状はなかったら、日没まで待ちましょう。安息日が終わってすぐに癒してあげるから」と。

 それなのにイエス様は、そんな小さな知恵さえも働かされずに、「手で引き上げてやらない者などいない。必ず引き上げるはずだ」と告げて、男を癒されたのです。罠を前にして、主はまるで、愚か者になられた!。でもなぜイエス様は、愚かになられたのか…。「わざわざ罠の中に、意識的に踏み込まれた」としか思えないではないですか。それはきっと罠に掛かることと刺し違えても、なさりたいことがあったからです。私どもは、この後イエス様が十字架に掛けられ殺されてしまう事になると知っています。ファリサイ派の「イエスを殺してしまおう」という相談は、ここで始まって実現してしまうことへと動き出すのです。そのことを主は知っておられた、しかしそれでもなお、そのきっかけとなる最初の言葉をここで告げられたのです、穴に落ちた羊、手の萎えた人を、11節「手で引き上げる」と。

 「手で」とは、「しっかりと抱きかかえる」という意味の言葉です。イエス様は、「私は羊のいる穴に降って行く、そこで私は羊を、この手で抱きしめる」とおっしゃったということです。そして「それが私だ、それが私・イエスという者である」と示されたということなのです。天に居られる神様なのだから、人間に向かって「頑張って上って来い」と言えば良いじゃないですか。それなのにイエス様は、地上に降って来られたのです。地上の穴の底にいる私どもと一緒に立たれるために。それがイエス様の降誕だったのではありませんか。
真実生ける神のなさり方は、人間が想像できるような合理的な姿ではありませんでした。「手で引き上げる」、その一言は、イエス様の覚悟された言葉であられたのだと思えてなりません。その主イエスが、私どもにも宣言される、「あなたも私の宝の一人。そのあなたが穴に落ちたら、いや確かに罪の穴に落ちる、でも必ず、私はあなたを、私の手で引き上げるから」と。
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