2017年12月03日

アドヴェント第T主日礼拝説教 『地の果てから、歌え』

2017年12月3日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

イザヤ書42章8〜13節
わたしは主、これがわたしの名。
わたしは栄光をほかの神に渡さず
わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
見よ、初めのことは成就した。
新しいことをわたしは告げよう。
それが芽生えてくる前に
わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え。
海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの
島々とそこに住む者よ。
荒れ野とその町々よ。ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。
セラに住む者よ、喜び歌え。山々の頂から叫び声をあげよ。
主に栄光を帰し
主の栄誉を島々に告げ知らせよ。
主は、勇士のように出で立ち
戦士のように熱情を奮い起こし
叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。


 主を賛美する歌をどんな時に歌われますか。きっと「神様から恵みを受け取った時」とかではないでしょうか。しかしイスラエルの人々はこの時、国は焦土となり、故郷から遠くバビロンの地に捕囚とされていたのです。それもです、人々は神様との関係の中を生きて来た「神の民」なのです。だから、「自分たちの罪のゆえに、我々は神に見捨てられたんだ」という絶望の中にも居たのです。それを10節で、「地の果て」と言い表していたのです。

 その「地の果てから」なのです。イザヤは「歌え」と呼びかけるのです。神様からの恵みが一杯あったから感謝の歌が溢れるだろというんじゃない。これは、楽しいから歌うというこの世の常識からは絶対に生まれない呼び掛けなのです。10節、「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え」。今ある現実から逃げるのじゃなくて、その現実にまみれて、ドン詰まりと思える状況の中に踏ん張って、「さあ歌え、お前の歌を聞かれる方がおられるから、主に向かって歌え、この世の常識からは生まれない歌を絞り出すのだ」と告げられたのです。それは「叫び声」です。今ある現実を両足で踏みしめて、父なる神に向かって吠えるように叫ぶ。慟哭するように歌うのです。その歌は「それでも主よ、なお私はあなたの栄誉を歌います。恵みがあったから歌うのではない、あなたが我らの神であられるゆえに栄誉を叫びます、主に栄光あれと」、と歌われる歌なのです。それこそがまさに「新しい歌」であるのではないですか。

 そしてこの特別の賛美は、賛美をする群れの中に座る時に、兄弟姉妹の歌声に支えられてなされることでもあるでしょう。イスラエルの民は礼拝の民でした。私どもも、主を賛美する礼拝に座っていることは、何にも増して幸いなことです。地の果ての喘ぎを抱えつつ、なお絞り出して歌える場所は「主を仰ぐ礼拝の場」だけだからです。そこでは一人で頑張らなくていい。信仰の群れでいるということは、その中の一人が「地の果て」と思える苦しみを抱えていても、礼拝で共に主に向かって歌う兄姉の歌声が、その一人を包み込む。そして、そのような群れの中にいるならです、たとえ今は絶望の中にあっても、いつか主の御業が起こされることを待っていることさえ出来るのです。それをイザヤは、こう告げていたのです、13節「主は勇士のように出で立ち、・・敵を圧倒される」と。神ご自身が、立ち上がって闘って下さる。本当に神は、私のために、私を苦しめるあらゆるものと対決して下さいます。そのために御子は天から降って来られたのですから。
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