2017年11月26日

説教 『(幹事職に与えられている主の恵みと支え)キリストに仕える者』

2017年11月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙一 4章1〜5節
こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。


 教会の「幹事職」というのは、「教会も人が集まる所だから、まとめ役がいた方がいいだろう」と人間的に考えてつくられたものでは、一切ありません。教会が、主の御心に応えて生きたいと祈った末に生まれた「奉仕職」なのです。

 そういう信仰者の姿が、先ほど読まれた1節の「キリストに仕える者」であります。この「仕える者」という言葉は、「船の一番下で漕ぐ者」という意味がある言葉です。パウロの時代の船は帆船でした。その中でもガレー船は、船の下に左右からオールが出ていて、風のない時にそれを漕いで前進させるのです。その漕ぎ手が「仕える者」という言葉です。その先頭にはオールを漕ぐタイミングを合わせるために大太鼓を打ち鳴らす頭がいる。頭は誰よりも漕ぎ手一人ひとりを見詰めています。タイミングが一人でも合わないと、オールとオールがぶつかるからです。漕ぎ手たちも、そうやって見詰められていることを知っているから、頭を信じて、ただオールを持つ手に力を入れることに集中して、自分にある限りの力を出し切れるのです。漕ぎ手は「頭であるイエス様を信じて、あなたにお仕えしたい」…その思いで一杯であればいいのです。

 さてそのように生きる「キリストに仕える者」なら、知っていることがある。それは「なぜ、頭なるイエス様を信じることが出来るのか」、そのことです。それは、頭なるイエス様のほうが、何よりも先に私どもを、無条件に信じて下さったからではないですか。このパウロという男が何者であったのかをご存知でしょう。彼は鼻持ちならない自信家で、最初はキリスト者を見つけたら片っ端から縛り上げていた、ユダヤ当局側の手先だったのではないですか。主イエスの敵であった彼なのです。それなのに、人間の目から見たら「最も相応しくない」パウロを、主だけが信じて下さったのです。そのイエス様が私どもも、まず先に信じて下さるのです。そのことに私どもも応えたいと生きればいいのです。

 頭なるイエス様が「あなたが必要だから」と招かれます。その招きに応えて一生懸命オールを漕いだならです。その後に「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」(5節)です。「おほめにあずかります」とは「誉とされる」という意味の言葉です。教会に仕えて生きた者たちは、主と相まみえる日に「私を信じて力一杯漕いでくれたね。そのあなたは、我が誉れなり」と言って頂けるのです。今、次年度の幹事候補者が推薦され始めています。この貴い奉仕のために推薦を引き受けようとする兄弟姉妹のために、教会員一同、一心に祈ろうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:53| 主日説教要約