2017年11月05日

召天者記念日礼拝説教 『この身にイエスの命が現れるため』

2017年11月5日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二4章7〜11節
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。


 私どもはそれぞれの日生まれて、地上の命をスタートさせました。でもそれは、死に向かってのカウントダウンが始まった日でもあります。全ての人が「汝、死すべき者であることを覚えよ」という時間の中を生きているのです。しかし、です。それでもキリスト者なら、人間は神様ご自身が「命の息」をフッと吹き入れて下さったから、命が灯がともって生き始めたんだと知らされています。それは、神様にとっては“特別な宝”ということではないですか。ならば事実としての死が来るということと、神様に愛されている私の人生だということと、どういうことになるのですか。そんな死の現実に思いを馳せる召天者記念日に、教会で読まれた聖書個所が、今朝の箇所なのです。

 さてその10節には、「イエスの命がこの体に現れるため」とあり、11節にも同じように「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」と、繰り返して告げられています。繰り返すのは、大事なことだからですよね。私どもが神様からそれぞれの人生を預けられたのは、自分の人生を、死を忘れたようにして謳歌するためではありません。でも死に取りつかれてしまって恐れさせるためにでもありません。神様は、「イエスの命」というものがあって、それが「あなたに現われるためだ」とおっしゃるのです。つまり、「死ぬはずの身だけれども、でもそのあなたに、新しい命が現れる。あなたの存在は、イエスの命が現れる存在なんだ」ということなのです。つまり「死の向こう側に、あなたの人生はまだ続いている。あなたはさらに先の目的地に向かって歩み続ける存在なんだ。そうだ、イエスの命があなたを死の向こう側へと歩み行かせる。体の死は、単なる通過駅の一つにしかなくなってしまっているんだ」ということなのです。

 改めてイエス様を見たら「イエスの命」というのは、この世が想像できるような、魂だけが風になって吹き渡っているような命ではないと分かります。それが聖書の告げて来た、イエス様の復活の出来事であるのではないですか。「イエスの命」とは、「復活の命」です。確かに人間は脆い「土の器」の体で生きているでしょう。それでも、その中に「イエスの命」を入れて戴けたならです。死の向こう側が一気に開くのです。それは、信仰の先達者の背中を見たら分かるのではないですか。本気で「死が終着駅などではない」と信じて生きた者は、死を前にして「こんなに急に来るとは思ってもみなかったけど」と言いつつも、ハッハッハーと生きたのです。そこにご復活のイエスの命が、明らかに現れているのではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:04| 主日説教要約