2017年09月25日

説教 『喜びと貧しさがあふれ出て』

2017年9月24日の礼拝

相模原教会牧師 辻川篤

コリントの信徒への手紙二 8章1〜7節

兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。


ここには、並べて書かれるはずのない言葉が並んでいます。「激しい試練を受けている」と「満ち満ちた喜び」と「極度の貧しさ」と「惜しまず施した」です。この人々は、厳しい迫害で極貧の生活となっていたようです。しかしその貧しさの中で、彼らは喜びにあふれ出し、施す側に加わったのです。それも3節には「力以上に自ら進んで」とありました。彼らは、出しても良いというラインを超えて、自分が痛いと思うところまで、隣人に与えてしまったのです。パウロがその姿を見て驚いてしまうほどのことがに起こっていたのです。


何故なんだろうと、何日も思い巡らしていました。すると、先ほどの「聖なる者たちを助けるための慈善の業」とある「助ける」という言葉が、「給仕する」とか「もてなす」という意味だということに目が留まったのです。彼らは身を切って献げているのに、上に立つのではなく給仕する側に立ったのです。つまり僕になって、下に立ったのです。そう知った時に、彼らの姿はまぎれもなく十字架の主のお姿と一緒だと気付かされたのです。イエス様が捨てられたのは、いのちだけではありません。あらゆる尊厳も剥ぎ取られました。貧しさの極みがそこにあった。そうやって人に仕える僕となられたのです。「人々は、十字架のイエス様と、同じ所に立とうとしたんじゃないだろうか。そうだ、彼らはキリストに倣いたかったんだ」と気付いたのです。


そう気付かされた時に、改めて今朝の聖書の始まりに「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と語り出されていたことが、貧しさの中にいる人々が尽くす側に立ったことに、繋がるように思えたのです。貧しい人々が喜びにあふれて相手に尽くせた姿が「神の恵みそのものだったのかも知れない」と思ったからです。私どもは大抵、「神様からの恵みがありますように」と言う時、その人に神様が何かを益々加えて与えて下さることを考えます。だから、自分の持っているものが減ってしまうと、それは恵みなんかじゃないと考えやすい。でも聖書は告げるのです。マケドニアの信仰者たちは、何かを戴くことが恵みじゃなくて、それを遥かに上回って、何もかも与えることが出来ることが恵みなんだと生きたのだと。それは、キリストのように生きる姿となることで、それが最も高価な恵みなんだということなのです。


彼らは、キリストに似る姿の中で、輝いていられたのです。信仰は、激しい試練の中にあっても、貧しさに溢れてもなお喜びに満ち満ちて生きて、与えられるよりも与える側に立って生きることが出来るんです。キリストのように生きる者へと変えていただけるのです。それが、神の恵みであるのです。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:55| 主日説教要約