2017年09月18日

説教 『隠れていることはあり得ない』

2017年9月17日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎

テモテへの手紙一 5章24〜25節
ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。同じように、良い行いも明白です。そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。


 テモテへの勧めは、教会全体の人たち、やもめ、指導者に対するものへと進みます。「叱る」は「責める、非難する」を意味する強い言葉で、そうではなく、「諭す」(熱心に勧める、忠告する、穏やかに助言する、慰める)よう求められています。老人だけでなく、すべての人々を牧会者は神の家族の一員と捉え、接するようパウロは勧めます。そこで必要なのが、教会とは何かの再確認です(三章一五節)。

 @教会は「生ける神」のもので、人のものでない、A教会は「真理の柱であり、土台」である。そこで説かれる「真理」とは、一.受肉、二.救いの業はキリストにおいて為された、三.教会は聖霊の存在によって特徴づけられる、四.教会は礼拝のために聖別されている、五.賜物がそれぞれに与えられており、それは他者のために用いる。賜物を用いる働きの一つにやもめの世話があります。実際的な世話をする賜物を持つ奉仕者が居る一方で、「本当のやもめ」を見分けるのは牧会者の務めで、「潔白」(誠実、真剣、思慮深さ)が求められます。これは長老などの指導者たちへの正しい対応のためにも必要です。神の問いかけに敏感であるためです。

 ここでも、教会とは何かをしっかりと理解しておくべきでしょう。「教会のための教会、自己目的としての教会から世のための教会」であること、また「教会のこの世性とキリスト教性とを束ねる中心にキリストの現実がある」ことを忘れてはなりません。その教会でのキリスト者の交わりはイエス・キリストを通しての、イエスにある(in)交わりです。この交わりを理想化し、現実の教会の姿に失望する人は少なくないかもしれません。教会でも「よく指導している長老」とそうでない者がいたようです。牧者は―すべての人に当てはまるのですが―隠れた部分での生活(祈りや黙想)に励みながらも、自身の力の限界を自覚し、隠されたものすべてを明らかにされる神を畏れ、信頼し、待望すべきなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 12:56| 主日説教要約