2017年09月03日

説教 『わたしのもとに来なさい』

2017年9月3日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書11章28〜30節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 誰もが「疲れた者、重荷を負う者は」と呼びかけられたら、「ああ、それは私のことだ」と、心の琴線に触れるのではないでしょうか。そこに加えて「あなたがたを休ませてあげよう」という言葉が聞こえて来たら、ホッとするのだと思うのです。

 でも原文では「疲れた者、重荷を負う者は」と、始まりません。「私に来なさい。我に来たれ」という命令から、この御言葉は始まるんです。そしてそのあとに、呼びかけられる者は誰なのかということが続いて、「疲れている者だよ」という順序なんです。つまり主イエスが「わたしのもとに来なさい」と宣言されたこと、そこが一番大切なことであるということです。

 そう呼びかけられるイエス様が、どういう歩みをされる「私」で在られたのか知っています。イエス様は、降誕される地上の歩みの初めから、最も暗い所に立たれたのではないですか。皆さん、イエス様の知らない苦しみはありません。私どもの涙はイエス様も流された涙なんです。そしてそんな御生涯の最後も、見捨てられた罪人として十字架に掛けられて死なれるのですよね。それらは、全て私どものためだった。そのイエス様が「私のところに来たら、あなたにも休みがあるから」と招かれたのです。今朝の御言葉から響いて来る慰めは、そうやって私どもとの関わりを結んで下さるイエス様が、「さあ私のもとに」とおっしゃったことに、慰めの源泉があるのだと思うのです。

 しかし、です。少し前の箇所を振り返ってみたら、イエス様がどれだけ熱心にお教えになられても、奇跡をなさっても、誰もイエス様のところに来なかったことが書かれています。その直後にイエス様が再び「わたしのもとに来なさい」と言われている。ですからイエス様のところに行くとは、単に傍で見ているだけじゃ駄目なんです。イエス様は、「聞いているだけ、見ているだけじゃなくて、私に結び付け」と叫んでおられるんです。それが29節、「わたしの軛を負いなさい」という一言になったのだと思います。私どもも教会に来て、今朝も礼拝堂に座っています。しかしその私どもが、ただイエス様の傍で傍観者として「今日も良い話を聞いたな」と言っているだけでは、福音は始まらない。イエス様が一歩、歩かれたら、首根っこを結び付けられたイエス様と足取りに合わせて私どもも一歩、歩みを進めるのか、それとも私は私と生きるのか、です。

 生き生きとした休みを戴く。それには、決心が必要とされています。「イエス様のもとに行く」ということです。逆にその一つの小さな決心だけで、全ての安心を戴けて、私どもの重荷は軽くして頂けるのです。その決意が、私どもの人生を変えるのです。
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