2017年5月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
相模原教会牧師 辻川篤
詩編10編12〜15節
立ち上がってください、主よ。
神よ、御手を上げてください。
貧しい人を忘れないでください。
なぜ、逆らう者は神を侮り
罰などはない、と心に思うのでしょう。
あなたは必ず御覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。
不運な人はあなたにすべてをおまかせします。
あなたはみなしごをお助けになります。
逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き
彼の反逆を余すところなく罰してください。
詩人の嘆きは、深いものがありました。詩の冒頭には、「主よ、なぜ遠くに離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」と嘆いて、さらに前半の締め括りでも「神はわたしをお忘れになった」と嘆いている。彼は、自分を見ていて欲しい神が、自分から離れたということを嘆いているんです。人はひょっとしたら、「私のことを見て欲しい」と願っていて、それも「このままの私を、このままに見て欲しい」と願っていて、それが満たされない時、本当に苦しむのではないでしょうか。
しかしなのです。状況が好転したとか、問題が解決したとか何もないのも関わらず、突然、彼の思いの中に光が差し込んで来たようになる。それが、14節、「あなたは(神様は)必ずご覧になる」です。この「ご覧になる」という言葉は、「分かる」とか「理解する」という意味の言葉です。だから、全てを理解するほどに、神様がご自分の事として受け止めて下さるということです。さらに、神様がそのようにご覧下さるものは何なのか、それを詩人は続けて「御手に労苦と悩みをゆだねる人を」と語るのです。
詩人は気付いたのです、「神様は、労苦と悩みの人を、必ずご覧になって下さる神であられるのだ」ということを。何か優れている部分を見て、それを褒めて下さるとか、何かできることを見て喜んで下さるとか、そういう神ではないのです。何も自分の良い所を数えることが出来ないで、むしろ辛さに押しつぶされてオロオロして、八方塞で座り込んでしまって、弱々しく震えている。そんな自分を抱えて、「こんな私ですけど」と言いながら、悲しみながら、それでも神様に向かって「私の手を掴んで欲しい」とすがる者を、神は必ず、「分かっている。ちゃんと見ているよ」と放っておかれない、そういう神だと、彼は思い出したのです。
この詩人は「神は必ずご覧になっている」というところに立ち帰れた時、不思議な安心がやって来ました。それは、「私が、神を見ていなきゃ」という焦りから解放されたからです。それは、私が神を見ているかどうかに全く関係なく、神が私を見詰めていて下さるということを信じたということです。私が神を見詰めることが福音じゃなくて、神が私を見詰めていて下さることが福音なんです。私どもの方が神を捉えられなくなっても、見えなくなっても、神様の方が私どもを、必ずご覧になっていて下さるんです。私どもはその御手の中にいるんです。神の御手の中で、信仰生活を、不安も苦しみも、喜びも重ねつつ過ごして行くのです。「必ず神様がご覧になっている」、そのことを繰り返し思い出させていただいて、安心して自分の生涯を歩み切ればいいんです。