2016年10月02日

説教 『わたしは遣わす』

2016年10月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書10章16〜23節
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

 16節、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と。羊というのは12人の弟子たちのことです。信じて歩むことにおいて弱々しくて危うい存在である彼らが、「羊なんだ」とおっしゃるのです。それも、その遣わされる先には、弟子たちを襲って伝道なんかさせない狼に遭うと知っておられるのです。それにしても、です。なぜ派遣されるのか、それはたった一言の故でした。イエス様が「わたしはあなたがたを遣わす」とおっしゃった、その鶴の一声の故だったのです。

 この、「わたしは」という語の前に、私どもの聖書では訳されていませんが、聖書の元々には、「見よ」という言葉が入っています。英語聖書の欽定訳では、ちゃんと「Behold(見よ)」と訳している。標準訳でも「Listen(聞け)」となっている。つまり「目と耳をこじ開けて注意せよ」ということです。それも、です。ギリシャ語では、主語は大抵省くのに、ここでは「わたしは」という一語を書き込んでいる。つまりわざわざ書いたのです。それは強調したいということではないですか。「他の誰でもない、この私が」と語気を強めているということです。つまり弟子たちを前にして、イエス様は、「さあお前たちよ、聞け、さあ顔を上げて私を見よ、他でもない私が、あなたがたを遣わすのだよ」と言われたということなんです。「あなたたちを遣わすけれど、それは大変な事が待っている。でもこの私が願うんだ。この私の思いを、あなたたちは胸に刻んで、出掛けてくれるか」と言われたということなんです。

 イエス様は人の思いに比べようもなく、この世に遣わす弟子たちを心配したでしょう。それは、どんな風に苦労を負うか、全てご存じだったからです。狼の中の羊になると、分かっておられたからですよね、でもキリスト者は必ずこの世のど真ん中に送り出されて行かねばならないから、隠遁生活をするわけにはいかないから、そういう弟子たちに向けて「さあ聞け、私を見よ。あなたのことをずっと見守り、ベッタリ支えて来たこの私が、あなたがたをこの世に送り出すのだ。さあ行かねばならぬ道へ、あなたも踏み出してくれるか」と言われたのだということなのです。きっと歩き出した弟子たちは、一歩一歩と歩む時の中で、イエス様のこの言葉が心のうちに響き続けたと思えてなりません、「さあ聞け、このわたしがあなたを遣わすんだから」と。その御言葉がいつも力強く胸に響いて、彼らの歩みを支えたのだと思えてなりません。

 さあ私どももここから、それぞれの生活の中に出て行こうではないですか。それは主イエスが、「わたしは遣わす」と押し出して下さる場所なのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:30| 主日説教要約