2016年09月25日

説教 『和解の言葉をゆだねられ』

2016年9月25日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 5章19〜21節
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

 パウロは、その「和解」について語り始めます。これは、「入れ替える。交替する」という意味の言葉です。つまり、単に「赦される」ということで終わる話ではない。償うべきことを、約束を破られてしまって辛い思いをしている側が引き受けるということなんです。罰する側が、罰せられる側とそっくり入れ替わるということなんです。エーっと思われませんか。その入れ替わりが、神様と私の間に実現した「和解」だというのです。

 でもパウロはここで、それだけでは語り終えませんでした。19節「その和解の言葉を、わたしたちにゆだねられたのです」と。そこで、具体的に誰に伝えようかと顔を思い浮かべてみて、ハタと立ち止まってしまったのです。例えば、身近にいる人の顔を思い浮かべてみて下さい。その人にこう話し出さないといけないんです。償いを入れ替わってもらえる話の前提に、償わなければならない罪の話をしないといけなくて、だから「息子よ(妻よ)、ちょっと自分のことを振り返ってみて…。そうしたらあなたには、罪があるでしょ」とね。その一言でちょっと険悪なムードになる。「そんなこと、あんたにだけは言われたくない」と言われてしまいそうになる。そして「こんな話とてもできない」と、尻込みしてしまうのかも知れません。

 考えてみれば、私どもは口を開けば、人に「あなたはココが間違っている。そこも過ちだ」と指摘ばかりしているように思います。だからです。私どもが隣人に「神の和解」の話しをしたくって、その初めに「あなたには、罪があるでしょ」と語り出す入口で、「また批判されるのか」と身構えられてしまうんじゃないのでしょうか。でも、もしもなのです。

 嘲りと非難を受け、それでも僕になって隣人を赦し続けた主ように、私どもも人を赦して赦して赦し尽くせたら。またもし、イエス様が、町の人みんなが避けようとも「あなたの友でありたい」と人に近付いて一緒に食事をされたように、世間がどう思おうと、心から隣人を愛して愛して、ただ愛することしかしない者になれたなら。そこで私どもの周りの世界は、変わるはずなのです。愛することしかしない私、赦すしかしない私どもの視線の中で「あなたの罪は何?」と話し出せたら、です。それ聞いた人はきっとその先に、赦される事、愛される言葉が、いつもの言葉として響いて来ることを期待するのではないですか。そういう中でなら語れる、「罪も過ちも、あなたの償いを代わって下さる救い主がおられる。だから大丈夫、後はお任せすればいい」と。そこに「和解の言葉」は伝えられているのだと思います。私どもは、そのことに用いられるのです。祈りつつ過ごしたいではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:30| 主日説教要約