2016年04月24日

復活節第4主日説教『うたえ』(熊本地震を覚えて)

2016年4月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編98編1〜3節
賛歌。
新しい歌を主に向かって歌え。
主は驚くべき御業を成し遂げられた。
右の御手、聖なる御腕によって
 主は救いの御業を果たされた。
主は救いを示し
恵みの御業を諸国の民の目に現し
イスラエルの家に対する
 慈しみとまことを御心に留められた。
地の果てまですべての人は
 わたしたちの神の救いの御業を見た。

 今日は「うたえ」と名付けられた主日です。熊本地震で不安が続く中で、神様から歌えと言われています。それは、「たとえ苦しみに喘ぐ声が満ちている現実があろうとも、その只中で声高らかに歌ってご覧」と呼び掛けられているということです。

 ここで「歌え」と告げられている歌は、一節を見ますと、「新しい歌を」となっていました。この新しさは、「誰一人として今まで、想像もしなかったこと。だから新しいとしか言いようがないことなのだ」という意味です。それも、「神様が、イスラエルの人々に慈しみを注がれた。そこに新しい歌が生まれた」と言われているのです。でも、私はそこまで至った時ハタと立ち止まってしまったのです。私どもはイスラエルの民がどんな人々であったのか、知っているからです。彼らは元々、見るべき価値もない小さな一部族でした。それも、単に数や能力において貧弱だったというだけではありません。彼らは、ことごとく自己中心に歩んで、ことごとく神を裏切った。それが彼らの歴史だったのです。つまり彼らは「自分達は、神様に慈しみを頂けるような者たちではないんだ」と分かったということです。

 私どもは、良い人には神様は慈しみ深くあられ、悪い者には恵みを取り上げられると思ってしまいます。それはひょっとしたら、そういう人間関係を通って来たからかもしれません。だからその経験を、神様との間にも当てはめてしまって、神様も同じように私どもにされるに違いないと、思ったり考えたりするのだと思います。でも、なのです。今朝私どもは、この詩編を通して、「神様だけは、そんなイスラエルの民なのに、こんな人々なのに、慈しみの心は無くなりしなかったのだ」と聞くのです。

 皆さん、私どもの常識の外から、遠くから聞こえる「新しい歌」があるのです、「あなたがたとえどんな風に生きようとも、たとえ躓き、たとえ背き、たとえ傲慢さに捕らわれて生きようとも、私はあなたを愛する、あなたが世界中でたった一人になったと思う日が来ようとも、私だけはあなたの傍に、あなたを愛する神として共にいるから」と。これこそが、この世にはない「新しさ」なのではないですか。

 今朝私どもは、終わりが見えない震災の不安の中で、この御言葉を聞くことへ導かれました。それは、神様が私どもの今の現実に語り掛ける言葉として与えて下さったと思えてなりません。私どもは信じます、「神が、慈しみとまこととを心に留め、ただ神の御意志に於いて、かの地の全ての人々の現実の中に分け入って下さる」と。その、神が注がれる慈しみを信じて、慈しみの主の恵みを讃えて、歌おうではないですか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:30| 主日説教要約