2015年04月26日

説教 『ただ、一言。そうすれば』

2015年4月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

マタイによる福音書8章5〜13節
さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。


 このとき百人隊長には、悩みがあったようです。それは、六節「わたしの僕が中風で、家に寝込んでひどく苦しんでいます」ということでありました。何とかしてあげたい。そういう思いを抱えて、イエス様の所へ駆け寄って来たのです。

 しかし百人隊長は異邦人です。それが意味することは、神の救いの外にいる人だということです。ですから当然群衆は、彼に怪訝な目を向けたでしょう「お前がここにいるのは、場違いだ」と。彼もヒシヒシとその空気を感じていた。人間って、そういう批判の空気にさらされたら、心も萎えてしまいませんか。または逆切れして「文句があるのか」と、すごむのかも知れない。でもこの百人隊長は、群衆への反応は一つも無かったのです。ふと思いました。批判される空気の中で、もしも心萎えたり、逆切れするのだとしたら、それは周りの人の顔色や空気に捕らわれているということです。周りの人だけしか見ていないんです。しかしこの百人隊長が見ていたものは、周りの人間ではなかったのです。彼が見ていたのは、主イエスだけでした。

 その彼に、この出来事の頂点と言ってもよい言葉が出たのです。それが八節「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば」でした。そしてその言葉をイエス様も、「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と、信仰の言葉として受け取って下さったのです。

 私どもも、心配事とか悩みとかをいっぱい抱えて生活をしています。だからイエス様のところに駆け込んで、すがるのです。でもそこで百人隊長はいきなり「癒して下さい、苦しみを取り去って下さい」と言ったのではないのです。彼は、「しもべが中風なんです、苦しんでいるんです」と、抱えている苦しみをイエス様に申し上げたら、それらの苦しみや悩みは全て、そのときにイエス様の御心の中に移されたと信じて、あとは何もかも主の御心に委ねた。成就の時も、成就の為され方も、全てをイエス様に手放したのです。

 人はそれぞれに辛さがあって、悩みがあって、苦しみがある。他人から見たら「そんなこと何でもないじゃないか。気の持ち様だよ」と言われてしまいそうなことでも、人は自分の辛さを、辛いと背負うんです。それを自分だけで抱えて生きるなら、それは出口の見えない苦しみとなるでしょう。でも今朝、聖書は告げるのです。あなたの生活の中で、たとえタドタドしくとも、「主よ、ただ、ひと言。そうすればあなたの御心は、私にも成りますでしょう」と祈るなら、そこに神が働き始められるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:30| 主日説教要約