2023年05月31日

『日々の聖句』2023年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年5月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。」  (エレ23・3)
南ユダ王国は滅ぼされ、民は離散した。しかし、彼らは昔、神が選び、「我が民となる」とされた民なのだ。その想いを、神が貫かれる。背きの民だけれども、にもかかわらず残った人々を再び都へと呼び戻すから、と語り掛けられたのだ。
背きの者に向けて、「私が愛する思いは消えないから」というメッセージは、そのまま今朝、放蕩息子のボクにも届いた。嬉しかった。


●2(火)
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。 (サム上2・7)
これは「ハンナの祈り」の中の一言。赤ちゃんが与えられずに悲しみの中にあったハンナに、主が息子サムエルを授けた。その子を神殿に連れて来た時、賛美して祈ったのだ。
悲しみを知っている人は、主の恵みが、つぶさに分かる。「この幸いは偶然でもラッキーでもない。主が与えて下さった」と。「全ては主の御手の中だ」と分かる。それは貧しくされた時にも先を望み見て平安を得る根源。


●3(水・祝日)
食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。   (申8・10)
モーセが荒野の四十年の旅を振り返りつつ、十戒を賜った日のことを語った。そこで、その神からの戒めを守って歩むなら幸いを得ると告げたのが、今朝の御言葉だ。それは、現実的な衣食住も満たす恵みなのだと。
しかし私たちは知っている。満たされても、なおそこで満足できない民の歴史を。そして思う。それはボクの姿でもあると。主をたたえない根源に、ボクの中にある強欲がある。


●4(木・祝日)
わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。 (イザ6・5)
「汚れた唇」って何だろう。
思い巡らしていて思いついたのは、隣人を悪く言う自分の口のこと。自分が義しいと主張して、悪い噂を広める口のこと。兄弟姉妹をおとしめる言葉が出て来る唇のこと・・・。
いや、唇でなく、その唇を持っている自分自身のこと。心根に罪が渦巻いている自分自身のことだ。赦されることが必要な私の存在そのもののことなんだ。


●5(金・祝日)
「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」   (エレ31・10)
帝国が攻めて来る、バビロン捕囚の日が迫っている。その人々に向けて「神の懲らしめをちゃんと受けよ、怖がらずに。悔い改め日々を過ごせるために」と告げたエレミヤ。しかしそれだけでなく、その日々の向こうにある恵みの約束も告げたのだ、「主が守るから。回復の日が来るから」と。
主の御手の中にある懲らしめならば、それは未来への道。ならば逃げるな、むしろ首を洗って前に出よう。


●6(土)
あなたが黙しておられるなら、わたしは墓に下る者とされてしまいます。嘆き祈るわたしの声を聞いてください。  (詩28・1-2)
これは、ダビデが歌った歌として読むように促されている詩編。彼は、愛息子アブサロムによって命を狙われた。息子の反逆に、どれほど苦しみ悲しんだことだろう。その中でこの詩が生まれたのだとしたら・・・。
詩が彼の肉声のように聞こえて来る。困難の中で祈り続けていても、神が沈黙しているように思える時、絶望の淵に立たされる。まさに祈りへの神の応答は、「命綱」なのだから。


●7(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●8(月)
わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。  (創24・48)
イサクのお嫁をイスラエルの民族の中から選ぶために、父アブラハムの僕が旅に出発した。その旅先で祈っている時、後にイサクの妻となるリベカと偶然出会えたのだ。
否! 偶然ではない。僕がその時言ったのが「主が導いてくださいました」という信仰の言葉だった。
ボクも祈っていたら分かる。全ての出来事は、偶然じゃない。あれもこれも主の御手がそこにあったと。


●9(火)
むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。   (サム上12・21)
「むなしいもの」って何だろうと思って、聖書を開いたら、アレコレの個別の話ではなかった。むなしいものとは、主なる神ではない全ての物や、事や、人であった。
自分の周りにある「むなしいもの」を考えてみた。お金に頼ることもある、人脈に頼ることもある。・・・でも、主以外に頼ってしまう最も厄介なものがあった。自分自身であり、驕りだ。それこそが主の厭うものだ。


●10(水)
心の中で兄弟を憎んではならない。   (レビ19・17)
これは神聖法集の中の言葉。つまり、神に喜ばれる民として相応しく生きるための道標なのだ。それはまた、キリスト者として相応しく生きるための法と言い換えても良い。
でも、信仰生活の中で、ふと隣人への不平が起こる。それが口から出た日には、目も当てられない。それでも自分が義しいと思っている。ああ、神様から見られたら、目も当てられない者、それはボクなのかも。


●11(木)
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。  (イザ35・10)
まだバビロン捕囚は起こっていない。これからやって来る大きな苦難。しかしそこで預言者イザヤは、更に向こうにある希望を告げたのだ。それは自分が思い描く期待などではない。神が与える未来であった。
これは「苦あれば楽あり」などという程度の楽観視ではない。神の計画なのだ。苦しみのある人生だから、ボクも神の御旨を聞いて歩みたい。神が描く未来に行くために。


●12(金)
あなたたちも寄留者も主の前には区別はない。    (民15・15)
これは神を礼拝するときの掟。それなのに、驚いた。「礼拝する神の民」とされているイスラエルの人々に向けてだけでなく、ここでは異邦人の寄留者も含まれているのだから。
そうか! 思い出した。出エジプトは、異邦人も一緒に逃げたのだった。その一人ひとりも神の守りの中に入れられたのだ。そして、ボクもその中に入れられている一人だ。異邦人なのに、恵みの中に数えられている。


●13(土)
「あなたの足から履物を脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」 (ヨシュ5・15)
ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、エリコの平野に到着した。でもそこで彼の前に、主の軍の将軍が現れて言った言葉がこれだ。
私たちにとっては、相模原の地にある礼拝堂が、その「聖なる所」だ。ふと、そこに入る時、土足で上がり込んでいないだろうかと思った。下履きというのでなく、心が土足だということ。自己中心の泥がこびりついた履物を脱いで、祈りの場に入らねば。


●14(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●15(月)
泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。     (詩30・6)
心に沁みて届く御言葉だ。「自分にも、悲しみと辛さに、泣きながら夜を過ごすことがある」と分かる人には、なおさらだろう。でも、この詩人と同じように、信じるなら「悲しみで終わらない」とも分かる。「喜びの朝が待っている」と、悲しみの夜の只中で言えるんだ。
信仰って、本当にありがたいな。苦しみの無い人生はないから、改めてそう思う。


●16(火)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた。  (創39・23)
「ヨセフはいいナー。神様に全てをうまくいくように計ってもらえたなんて。素敵な生活を送ったんだろうな」と思って聖書を見たら・・・。
彼はエジプトで侍従長の家の使用人となっていた。そこで主人の妻に誘惑されて、断ったら謀られて、監獄に入れられてしまう。踏んだり蹴ったりなことばかり。そうか! 主が共におられて守られるというのは、災難苦難が無くなることじゃないんだ。乗り越える力を得ることなんだ。


●17(水)
あなたに背いたことをわたしは知っています。      (詩51・5)
この詩は、「ダビデが部下の妻バド・シェバと通じたとき預言者ナタンがダビデのもとにやって来たとき」という但し書きが添えられた。
姦淫の罪、部下を裏切る罪、戦いに送って殺した殺人の罪。彼はそれを知った。その時、神の前に出る。裁かれることを承知で。それは、神以外に罪を拭って下さる方はいないと知っていたから。裁きこそが恵みへの道。そこにだけ、赦しがあるから。


●18(木)
神に僅かに劣るものとして人を造られた。   (詩8・6)
詩人は「人間とは、一体何者だというのか。神が顧みて下さるなんて、そんな特別扱いが許されるなんて」と自問する。そしてハッと気づいたようにして、今朝の言葉を歌ったのだ。
「神に僅かに劣る」というのは、神の座に近いという傲慢じゃない。神様に直接目をかけられ、だから生きとし生ける物の中で唯一神様のお心が分かる者ということ。そこには自惚れでなく、賛美しか起こらない。


●19(金)
まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。 (エゼ34・11)
神の民と言われたイスラエルの民。でも自らの背信のゆえに国は滅び、人々は異邦の地に離散した。南王国の人々は、バビロンへ捕囚となる・・・。
しかし神は、人々を見捨てたのではなかった。それは人々が神を求め続けたからではない、神が人々を求め続けたからだ。「探し出す」、「世話をするから」と言って下さるのだ。
今朝、その言葉だけで癒された。神の想いに触れたから。


●20(土)
行って、エルサレムの人々に呼びかけ、耳を傾けさせよ。主はこう言われる。   (エレ2・2)
エレミヤは、神様からの言葉を、都エルサレムにいる背信の民に、あまねく伝えねばならない。その中身は、神の怒りと、神の嘆きの言葉だった。
耳にして厳しい「自分の罪」の告発は、実は、正しい道に方向転換させてくれる最後の警告だ。そしてそれは、恵みに至る唯一の入り口なんだ。顔を背けてはならない。自分と関係ないと思ってはならない。恵みへの道を、そこで失ってしまうから。


●21(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●22(月)
あなたたちがわたしに助けを求めて叫んだとき、わたしは彼らの手からあなたたちを救ったではないか。しかしあなたたちはわたしを捨て・・・(士10・12〜13)
ああ、激しい神の嘆きの言葉。「懸命に愛を注いだのに、あなたたちは私から離れて行った。他の人(異邦人の神々)を慕って行った・・・」と嘆いておられる。イスラエルの民はなんて薄情な背信者たちなんだろうと思って、ハッとした。
ボクも、神様のお心も御言葉も棚上げして、〈自分の遣り方〉という〈神〉を慕って行く時がある。我こそ、神の嘆きの子なり。


●23(火)
だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら・・・こたえてください。    (王上8・38〜39)
とうとう神殿が完成した。そのときのソロモン王の祈りの中の言葉がこれだ。そして「心に痛み」とは、飢えや、病に苦しむこと、災難が降りかかること、敵に襲われることだった。
王は自分の繁栄を求めない。健康も、財産も。彼の願いは民の平安。そして、民と神との間の強い結びつきだった。彼は、良き執り成し手なのだ。ボクもこんな信仰者でいたい。また、兄弟姉妹で互いにこう祈り合いたい。


●24(水)
あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。   (ルツ1・16)
えっ? あなたのものは全部私のものって言ってるみたい。一見、強欲だな。でもこれって何のことだろう。
聖書を見て分かった。夫に先立たれたルツが、姑の故郷に一緒に行こうとする時、自分の民族や家族と別れる決意だ。自分の民族神も捨て、主なる神を私の神とする告白だ。
強欲どころか全てを捨てる決意。それは一見、貧しくなるけど、豊かさに至る道だと、ボクは知っている。


●25(木)
わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。      (詩6・7)
詩人の一言一言が胸に沁み入る。嘆きの強さ、悲しみの深さが伝わって来るから。これは、ダビデの詩として読むなら、詩人の思いが良く伝わって来るとも言われている詩。彼は、愛息子の謀反で命を狙われた王。本当に切なくて辛かっただろうなぁ。
私たちも涙の枯れない夜がある。辛くて胸をかきむしる日々もある。その訴えをどこにもって行くべきか。そうだ、詩人と同じように、神にだ。


●26(金)
イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。    (出3・9)
エジプトで奴隷となっていた民の大脱出が起こる。その出来事の出発点が、ここなのだ。神が、人々の叫び声を聞かれたということだった。
神の救いの御業が、私たちにも起こる。それは、私たちが苦しみにあえいで叫ぶ時だ。打ちひしがれている姿を、神がご覧になった時だ。ボクの苦難に心を痛めて下さる。そのお方が私の神、私の主。なんと畏れ多きこと、そして嬉しいことだろうか。


●27(土)
正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。   (アモ5・24)
南北王国の滅亡前のこと。民に向けて預言者アモスが告げた神の言葉だ。神殿礼拝で、形ばかりの献げ物や賛美の歌よりも、心からの礼拝をせよと告げる。それは具体的には何か。それを今朝の御言葉が示した。
神に対しては、正義を尽くすこと。隣人に対しては、恵みの業を注ぐこと。あ、これはイエス様が言われた『黄金律』と重なる気がする。そうだ、神の願いはずっと同じなんだ!


●28(日)
 (聖霊降臨祭・ペンテコステ)
早天祈祷会 永盛理香子 姉

礼拝説教 
主   日  藤森誠 伝道師



●29(月)
それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。   (士2・18)
「それは」とは何だったのか。人々を導くヨシュアが亡くなり、民は主から離れた。その結果、略奪者に苦しめられる。その時、民の呻きを聞いた神が、再び民を導く者を立てて下さったことだった。
罪人であっても、神に憐れみを乞うて良いんだ。主は哀れに思って、心を動かして下さるから。それが、旧約時代から変わらない神の真実。その中にボクも飛び込もう。


●30(火)
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光りの露。    (イザ26・19)
イザヤは、国が亡びた先にある神の恵みの御業に顔を向ける。人々の背きのゆえに捕囚となるが、その先を見ているのだ。いや、祈りの中で見させられている。「あなた(神)の送られる露(恵み)は光の露」と。
なぜ滅亡へと転がり落ちるのが目の前にある現実なのに、その向こうの希望が見えるのだろう。きっと祈りの生活は、神との生きた対話の時間だから。祈りが見る未来があるのだ。


●31(水)
わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。   (エレ11・20)
人々はエレミヤに「神の言葉を伝えるな」と脅した。自分達の背信を指摘され、悔い改めを迫られるのを嫌ったからだ。彼は窮地に立たされた。
そのとき彼は、人々に言い返したのでも争ったのでもない。自分の正義を主張したのでもない。神のもとに駆け込んだのだ。つまり祈った。そこが解決の唯一の場と分かっていたから。
ボクも窮地に立つ日がある。その時「主よ、打ち明けます」と祈ろう。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:23| 『日々の聖句』

2023年05月28日

『日々の聖句』2023年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年6月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。   (イザ11・9)
スゴイ! 全地が「主こそ神」と称える日が来るなんて。「大地」ということだから、全ての国々が争いをやめ、鳥も動物も木々さえも、お一人の主なる神を仰ぐ日が来るのだ。
これは、捕囚の中で語られた預言だ。単に、自分が救い出されることを願う個人主義じゃない。全てのものが一緒に主を仰ぐんだ。やっぱりスゴイ! ボクも自分のことだけでなく、隣人との間で、この信仰に立ちたい。


●2(金)
あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。 (イザ30・20)
捕囚の民に救いの日の到来を、預言者イザヤが告げた。「もはや隠れておられることなく」ということは、人々にとっての日々は、神が沈黙され、自分たちを見捨てて遠くに行ってしまわれたと思えた日々だったからだろう。
「神が共に居て下さらない」と思える日々が、ボクにとっても一番辛いって分かる。「神が共に居て下さる」、ここに一番の平安があることも。


●3(土)
白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。   (レビ19・32)
これは、神聖法集の中の一つだ。神に喜ばれる者として生きる者への道標としての言葉を、神がモーセに語り聞かせた。
単なる倫理的な「敬老」の教えなどではない。「お年寄りを大切にしよう」という儒教的道徳の話でもない。年長者を尊ぶことは、神の掟だ。だから軽んじるということは、神を畏れないということに直結している。主に仕えるように、年長者を尊ぼう。


●4(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主  日  辻川篤 牧師



●5(月)
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。   (詩10・1)
詩人の嘆きは、苦難そのものが辛いと言っているのではない。命を脅かされるほどの病や敵に襲われても、それ自体は嘆きではない。只一つのこと、主が共にいて下さらないということを悲しんでいるのだ。
それは逆に、どんな苦難の中にあっても、主が傍におられるなら生きてゆけるということ。そういうリアルな信頼なのだ。ボクも、そういう信仰者でありたいな。


●6(火)
彼らは言葉をもって人を罪に定め、町の門で弁護する者を罠にかけ、正しい者を不当に押しのける。   (イザ29・21)
一読して「何てケシカラン奴らだ」と思った。でも一呼吸おいて「あれ、他人事なんだろうか」と思う。そして、今朝の御言葉に自分を重ねつつ振り返って思う、「これは、あの人、この人のことじゃなくて、自分の姿だ」と。きっと人はボクを見て「何てケシカラン」と思っているのだろう。きっと神様も。今日が、その姿を止める転換点。自分の情けない姿に気付けた人が、救いの入り口に立てるから。


●7(水)
あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。   (詩10・14)
神が、労苦にある人を見つけて、助けの御手を伸ばして下さる。なんて有難く、嬉しいことだろう。それを私たちはいつも願っているのだから。
あ、でも大切な一言に気付いた。「御手に労苦と悩みをゆだねる人」とある中の「ゆだねる」だ。助けは、本気で神に委ねる人にだけ注がれる。自分が「アレコレして欲しい」と願う人じゃない。解決の方法も時も委ねる人だけだ。同じようで、全く違う。


●8(木)
あなたは、自ら降り、わたしを強い者としてくださる。    (詩18・36)
神様の救いは、高い天から、助けのロープを垂らされ「さあ、ここまで登っておいで」というのではない。神ご自身が、倒れ伏す者の下へと降って来られるのだ。それも、私たちが再び力を得て、自分で立ち上がれる「強い者」として下さるために。
まるで、最前線にまで駆け寄ってくれる救助隊のようだ。その助けを呼ぶためには、これだけで良い、「主よ、私はココです」と。


●9(金)
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」  (イザ7・11)
南ユダ王国に敵の攻撃が迫っていた。その時アハズ王も民も心配で激しく動揺した。その王に、主なる神が言われた言葉がこれだ。
敵となるもの(人も困窮も)が迫る時、自分が持ってるあらゆる手段によって解決しようとする。でもそこで動揺が止まらず、かえって不安が募る。一番大切なことを忘れているから。主を求めることだ。ふと、「ボクもこの愚かな民と同じだ」と思った。


●10(土)
神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした。    (ダニ1・9)
侵略国バビロンに連行された少年ダニエル。そこで宮廷に仕えさせられるため駆り出された。そのとき神様が、バビロンの侍従長の心に働きかけられたのだ。神の方法は、人間の想像を超えている。敵の心さえも手中にして用いられるのだ。
それなのにボクは自分の中で考えて「ア〜して欲しい、コ〜して助けて」と願ってる。今日こそ「御心を成して下さい」という祈りに変わらなきゃ!


●11(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●12(月)
我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。     (ホセ6・3)
南北に分裂してなお続く背信。その前途に国の滅亡が待っている。そこに立ってホセアは語り続けた。
日々人が追い求めていたのは、自分の満足、自分の計画、自分の栄誉。しかしホセアは「主を知ることを求めよ。主の計画、主の望まれること、主の喜びだ」と。
これはボクの生活に告げられた御言葉だ。正に今日という全ての瞬間を、この言葉に重ねて歩めと。


●13(火)
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。   (創22・6)
神が、愛息子イサクを、焼き尽くす献げ物とせよと告げられた。それは息子の命を自らの手で取ること。そのための火と刃物を手にして、彼はその場に向かう。何を考え、何を思っていたのか・・・。決して、力強い足取りではなかっただろう。でも進む、「主の言葉だから」と。黙々と。
ボクも行こう、先は分からずとも、トボトボとでも。そこが行く道だから。そこに、御業が起こされるから。


●14(水)
はしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。   (ルツ2・13)
異邦人で未亡人のルツが、姑と一緒にベツレヘムに来た。未亡人に仕事などない。その日の食べ物にも窮した二人に、親戚のボアズが優しい言葉をかけた。人は口から入る食べ物で生きる。でも、それよりも生きる力となる食べ物は、心に触れる言葉だ。相手を分かってあげる言葉、相手に添って居られる言葉だ。それって、分かる気がする・・・。そんな言葉で周りが満ちていったら、良いのにな。


●15(木)
彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主はあなたのただ中におられ、大いなる畏るべき神だからである。    (申7・21)
この「彼ら」とは? イスラエルの民よりも強大な諸国のことだった。
その諸国というのは、私たちにとっては身に降りかかる難題でもある。「そんなのとても無理です」と思える困難でもある。ボクもそれらを前にしたらうろたえるかも。いや、うろたえてばかりの人生だった。でも、主が言われるのだ「私があなたの中に居るから、心配いらない」と。大いなる方が私の内に居ます。もう大丈夫だ!


●16(金)
涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。     (詩42・2)
川底が見えるまで涸れた谷を、水を求めて鳴きながら鹿が一匹よろめき歩いている。その姿が、苦難の日に神の御名を呼び求めて、しかしそこで答えのない渇きに嘆く詩人の姿と重なるのだ。「主よ、あなたはどこにおられるのですか」と泣いている。
いや詩人の姿じゃない。私たちの姿。何度祈っても、神の応答が聞こえない日々の姿。その泣き声は、私たちの叫び。ただ主に頼る者の叫び。


●17(土)
ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブはまだ実を結んでいない。しかし、今日この日から、わたしは祝福を与える。   (ハガ2・19)
これらの実は「豊かさ」のしるし。つまり「実を結んでいない」とは、人々は未だ、悔い改めて神の前に立ち帰り豊かな信仰に生き始めていないと告げられる。でも、そこでなお預言者ハガイは「しかし」と言う。神は、それでも今日からその人々に祝福を与える、と。これを聞いたのは捕囚の民。どんなに嬉しかっただろう。
祝福が、悔い改めが条件となっていない。主の一方的憐れみ。感謝だ。


●18(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●19(月)
しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。     (マラ3・20)
徹底的な神の裁きが告げられる。その直後にだった、「しかし」と今朝の御言葉が語られたのだ。
神を畏れ敬うことは、心の問題じゃないんだ。また単なる信仰生活の目標でもない。これは、永遠の滅びか義の太陽が昇るか、死ぬか生きるかの分かれ道の話。自分の存在を掛けるべきことなんだ。
さあ今日、舵を切ろう。義の太陽が昇る世界の方へ。


●20(火)
彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。  (申15・10)
「彼は」って誰のこと? 聖書を見たら、「貧しい同胞」のことだった。つまり隣人のことだ。
神様は、私たちが人に与えるために豊かにして下さるのだ。貯め込んで、自分のために使うためじゃない。
何だか財産について、新しく目が開かれた気がする。思いっきり手を開いて、握りしめず、感謝して手渡そう。一旦ボクに与えられたお金を。御心に従うために。


●21(水)
「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して、主を賛美し、感謝した。     (エズ3・11)
バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民は、ついにペルシャのキュロス王によって解放された。そうやって都に帰還できた人々は、先ず礼拝したのだ。廃墟の神殿に、祭壇だけ築いて、それでも喜びの礼拝をした。
ボクも苦難に遭う日がある。でもそれを通り抜けた時、ボクは何をしているだろう。単純に喜んでいるだけで良いのか。いや、まず礼拝なのだ。その恵みは、神から来たのだから。


●22(木)
まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。   (創28・16)
ヤコブは、兄エサウの報復を恐れて荒野に逃げた。そのとき夢で、天からの階段を昇り降りする御使いを見て、気付いて言った言葉がこれだ。
「こんな所に主はいない」と思えるような、人生の荒野がある。しかしそこでこそ気付けるのだ。主が共におられるというのは、ボクがどこに居ようとも真実なのだと。だからこそ誰もが、苦難の中で神にすがれる。臨在は、信じる前に既にある真実だから。


●23(金)
しかし、神に従う人は信仰によって生きる。   (ハバ2・4)
新バビロン帝国が攻めてくる中、預言者ハバククが主に問う「彼らは力によって支配するために剣を抜いているが、それで良いのか」と。それに対して主が答えたのがこの御言葉だ。単に「神に従おうと思う人は信仰に生きる人だね」という程度の話じゃない。死を前にして、お前は自分の力に頼るのか、信仰にのみ頼るのかを問う。いずれかを選ぶ命がけの選択だ。
今日ボクは、どっちに立つのだ!


●24(土)
御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。  (詩86・11)
神を神として畏れ敬うことは、自分の信仰心から出て来るものだと思っていた。
でも、この詩人は真実を知っている。神への畏敬は、本当は人間の心の中には一かけらも無いということを。神を愛する想いも、本来の人間には、無いのだということも。人は皆、神に背く者・罪人というのが本性だから。
ボクも祈ろう、毎朝祈ろう「御名をあがめさせたまえ」と。

●25(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●26(月)
水くみ場で水を分ける者らの声にのせて、主の救いを語り告げよ。   (士5・11)
背信の民に、女預言者デボラが立てられた。彼女によってカナンの王は倒れ、人々に平和が戻る。その時にデボラが歌った歌がこれだ。
普通なら自分の業を後世に語り継ごうとするのに、彼女は自分の功績に関心が無い。全ては主の御手からと分かっている人は、主の御業を語り告ぐ。恵みが分からない時、勘違いして自分を誇る。ボクは、そんな愚か者になるまいゾ。


●27(火)
「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」   (出3・5)
モーセが神の山ホレブに上って行った時、主が声を掛けた「神の領域に踏み込むな」と。もしかしたら、ボクも警告される時があるのかも・・・。
神の領域に、土足で踏み込むことがあるからだ。それは、御心として下さる神の計画の場があるのに、自分の計画・やり方でしか進みたくないと自分中心に歩く時だ。土足で御心の場を汚している。その時、自分中心という履物を脱げと警告の声が響く。


●28(水)
彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。  (ミカ5・6)
「彼ら」とは誰か。神の審判によって砕かれる民の中にあって「残された人々」のことだった。旧約の中で、この「残された人々」というのは、鍵言葉だ。その「小さな芽」から、神の祝福は再び拡がるのだから。
主の目に適うのは、人の力に頼らず、神に望みを置く人。民の中では弱い人々のグループだが、憐れみを受けて生き残る。ボクはどちらに立つのか。自分の強さか神の憐れみか。


●29(木)
あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。   (民14・41)
モーセの忠告も聞かず、人々は自分の思いだけで、自分の計画を立てて戦いに出た。その先で剣に倒れた。
人はどうして勝手なことをするんだろう。そんな風に思っていてハッとした。ボクも祈らないで事を始める時がある。現実の課題だから自分で決めて当然と思っているから。本当は現実の課題だから祈らなきゃならないのに。「成功するはずはない」という道に、迷い込まないために。


●30(金)
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。    (詩20・8)
武器を持つよりも、祈りの方が強いんだと、ボクは本気で考えているだろうか。真剣に信じているだろうか。いつも自分で知恵を絞って策を練って、自分の武器というものを優先して、その後で「守って下さい」と祈っていたりしないだろうか。
この詩人のように、本気で信仰に生きていきたい。祈りの力を知る信仰者になりたい。神の御業は、そこでのみ見られるのだから。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:32| 『日々の聖句』

2023年5月28日の礼拝

この日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。
聖霊降臨祭記念礼拝説教「聖霊を与えてくださる」、ルカによる福音書11章1〜13節、藤森誠伝道師。讃美歌183<主のみたま降りまし>聖歌隊、498、2編236<聖なるかな>ハンドベルクワイア。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ