み言葉のパンで生きる365日
2023年3月
【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(水)
神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 (詩139・23)
神様に、私の心を探って「何を願い、何を思い、何を悩んでいるか」を調べ尽くして欲しいと申し出るなんて。自分の心の中は、自分が一番よく分かっていると思っていたのに。
でも、本当に辛いことは、自分でも心に蓋をしてしまっている。本当に悩むことは、自分でも忘れるようにしている。でも、主こそが、私よりも私を知っていて下さるお方。ハッとした。そしてなんだか慰められた。
●2(木)
天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。 (詩19・2)
壮大なスケールで、神の栄光をたたえた詩人。叫び出したいほどの喜びが伝わって来る。主なる神との豊かな交わりに生きているからだろう。
ボクには、こんなに爆発しそうな神賛美があるだろうか。もしないのなら、自分のことばかりを見詰めているからかも。自分の願望、現実、そして自分の罪・・・。結局、自分しか見詰めていないのなら、神の恵みは見えて来ない。主にこそ振り返らねば。
●3(金)
わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。 (創28・15)
神が「約束を果たすまで決して見捨てない」と言って下さる。その「約束」が気になって、聖書を開いた。それは、ヤコブが自分の罪のゆえに、兄の復讐を恐れて荒野に逃亡していた時のこと。「あなたを守り、必ず祝福の地に連れ帰る」との約束だった。
過ちを犯した者なのに、それでもなお愛することを止められない主。罪人なのに・・・。ああ、その主のお心は、ボクにも向けられているんだ。
●4(土)
それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。 (箴3・9)
智恵の書である『箴言』は、主へのささげものを求める。それは、まず先に主から与えられているものがあると伝える中での言葉だ。それも「豊かに持っている中から」と言われている。だから、献げ物はお返しなのだ。
献金のことを、少し誤解していたかも。自分が持っている物が減ってしまう気がしていた。でも献金は、主に与えられている物の豊かさを想う時なんだ。献金も、感謝だ!
●5(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 辻川篤 牧師
●6(月)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。 (イザ31・5)
新バビロン帝国が攻めて来る。そのとき人々は恐れて、大国エジプトと同盟を結んで守ってもらおうとした。そういう人々にイザヤが「人間に頼るな、主があなた方を守られる方だから」と伝えたのだ。
神様が人々を守る姿は、親鳥が翼を広げて雛を包む姿。その翼は、ボクの上にも広げられている。人に頼らず、まず神に委ねる、ボクはそういう雛鳥でありたいな。
●7(火)
耳を閉ざさず、この声を聞き、わたしを助け、救い出してください。 (哀3・56)
詩人は、激しい恐れの淵から叫んでいる。神に向かって叫んでいる。それは、主の御名を呼ぶ自分の声に耳を閉ざさないで下さいという叫びだった。聞いていただけたら必ず救って下さるという確信を漂わせて。
彼は、ただ主だけを信頼している。私たちも、恐れと苦しみの日、本気でどこに顔を向けるかが大事だ。人の助けか、自分の経験か、それとも力の限り主を求めるか、だ。
●8(水)
主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。 (ミカ7・19)
南北王国時代に、預言者ミカが主によって幻を見せられて預言した。それは、民の腐敗に対する審判の言葉に満ちていた。
しかしその中にあって、今日の言葉が告げられていたのだ。人々が罪に傾くのを必死になって抑えようとしているのは、父なる神なのだ。罪を一掃しようと熱心になられているのは神様なのだ。ここに、主の慈しみの何たるかを見た気がした。
●9(木)
主を畏れることは知恵の初め。 (箴1・7)
『箴言』には、これと同じような御言葉に溢れている。人間にとって「知恵ある者」となるには、主なる神を畏れ敬って生きることが土台なのだと、口を酸っぱくして言うのだ。
畏敬するならば、当然、そのお方の言葉を聞いて従うだろう。新約においては「キリストに聴従すること」だ。聖書全巻は、この事において一貫していた。聴従は、知恵ある者の初めの姿、また行きつく姿なり。
●10(金)
我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。 (ホセ6・3)
北イスラエル滅亡のとき、預言者ホセアが立てられた。背信のゆえの審きを伝えるために。しかしそれだけではなかった。王国の回復についても告げられたのだ、「偽りの悔い改めを捨てて、主に立ち帰れ」と。
倒れても、また立ち上がれる道が、神様のほうから示していただける。背きの者なれども御父の愛は消えない。こんなに強くて熱い愛を見たことがあるか。否、ただ主のみだ。
●11(土)
残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。 (イザ10・21)
旧約で「残りの者」というのは、鍵言葉だ。神への背きによって人々は審きを受ける。しかしそこで悔い改めた者が残る。そして、その真に悔いた者たちは少数だけれども、神に立ち帰り祝福の基となるというのだ。
残りの者は、人間にとっての希望というよりも、神様にとっての期待なのだ。「少しは私に立ち帰ってくれるだろ、祝福を与え続けたいから」と。
神のお心に、応答して生きたい!
●12(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●13(月)
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。 (ゼファ3・15)
北王国は既に亡び、南ユダ王国の滅亡も間近となっていた。そこに預言者ゼファニアが「神の声を聞かず、主に信頼しなかった都は災いだ」と告げた。しかし不思議なことに、裁きの宣告と共に、最後に「都エルサレミよ、喜び踊れ」と加えたのだ。罪の贖いの宣告だった。
罪を赦す神。そのために悩み苦しまれたのは神。その御父の愛が、私にも及んでいる、この罪人にも。
●14(火)
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。 (詩22・25)
「貧しい人の苦しみ」って、どういうこと? 単にお金が無いというのではないかも知れない。当時、富める人は神の祝福を得ているからと考えられていた。そうであるなら、貧しい人は祝福から遠くにいる人なのかも。
それでも主は、そこに起こる苦しみも悲しみにも、心を砕いて下さる。まるで罪人のために死なれた主イエスのように。天地創造の時から、変わらない主のお心に触れた思いがした。
●15(水)
聖なる方を知ることは分別の初め。 (箴9・10)
知恵の書である『箴言』。その知恵の中の知恵が、主を知ることなのだ。私たちにとっては、神を知り、神の言葉を知ることだ。そのことが、人生をどう歩むのか、善と悪をわきまえることに直結する。
ボクはこれまで、どんな知恵を土台として来たか。今からでも遅くない、聖なる主の言葉をすべての土台に据え直すんだ。義しく豊かに生きるため。幸せを手にするために。
●16(木)
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。 (エレ9・23)
ん? なんだか知恵の書『箴言』の中にある言葉のような・・・。でもこれは単なる信仰的知恵じゃない。彼は南ユダ王国の民の背信の只中で語っている。神を捨てる民に向けて、必死に叫ぶ、「主を誇れ、主を知れ」と。
それはそのままボクにも届けられている。主の言葉を預かって語るエレミヤが、時を超えてこのボクにも。ボクが、生活の中で自分を誇ることがあるから。主を忘れる時があるから。
●17(金)
天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。 (イザ1・2)
南ユダ王国に、主なる神が語り掛けた。それはご自分の愛する民に向けての言葉。しかしそれは、祝福の言葉ではなかった。背きに対する激しくも厳しい審判の宣言であった。
審判を前に、「我々は何ということをしたのか」と、我に返れば良かったのに。しかし民は悔い改めなかった。
主の怒りの言葉に耳を傾ける。それは、むしろ好機。立ち帰る最後の転換点なんだ。逃すまいぞ。
●18(土)
わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。 (イザ46・13)
主の恵みの業が届けられる。それも「もはや遠くない」時に、「遅れることなく」とも言われている。
今日、御言葉がボクの心にそのままダイレクトにやって来た。そして心の奥にまで染み込んだ。
御言葉を聞いただけで、まだ実現してもいないけど、もうボクの心は、ホッとしている。これが「信じる」ってことかな。そして、「信頼する」ということの実りだね。
●19(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●20(月)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。 (エレ26・2)
人々にとって安易な道しか語らない偽預言者たちがいた。人々もその甘言を選んで、悪の道を歩いていた。そういう人々に向けて、主が預言者エレミヤを通して言われたのだ。神の言葉を人間の都合で減らすな、耳に痛くても、それが真実な言葉だから、と。
ボクも御言葉を自分都合で「これは無理」と減らすことがある。その心を見て、主は一喝されるのだ。
●21(火・祝日)
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。(創15・13)
神がアブラハムに語る言葉は、このあとアブラハム子のイサク、その子ヤコブ、その子ヨセフ、その後に起こるエジプトでの寄留生活の出来事となる。さらに、その奴隷生活からの脱出(出エジプト)の予告も。
「あ、そうか」と思った。人にとっては苦しみの奴隷生活。でも「神が先を見ていて下さること」なのだ。主が先立っていて下さるんだ。ふと今日、苦難の見方が変わった気がした。
●22(水)
多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。 (ゼカ2・15)
捕囚期に、主の言葉を伝えたゼカリヤ。都への帰還の希望と、彼らを略奪した国々への審判の後に、諸国は、主なる神が生きておられると知ることになると伝えるのだ。そこに起こるのは、全世界の人々が、「主こそ神」と礼拝し出すということだ。
なんて壮大な祝福。まるでエデンの園の回復の姿のようだ。この争い多き世界は、本当は、そんな神の熱望の実現へと向かっているんだ!
●23(木)
すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。(代上29・14)
ダビデ王が、第一神殿建築に向けて、全会衆に寄贈品を求めた。宝物庫は溢れるほどに満たされたのだ。そのとき主に祈った言葉がこれだ。
彼は「主よ、こんなに集めました」とか「こんなに一生懸命しました」とは言わなかった。すごいな、と思う。きっとボクなら、「少しは自分を褒めてあげよう」なんて思っているかも。
これからは全ての奉仕をした後、ボクもこのダビデの祈りを祈りたい。
●24(金)
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。 (エゼ36・26)
自らの背信によって、イスラエル全家は壊滅、離散した。その人々に向けて、主なる神は語り掛けられるのだ。神の民として育んだあなたを惜しむ、と。そのゆえに、主御自身が人々を救い出す計画を立てられるのだ。人々に、神のみを求める心を与えること、また主の言葉に従う霊を与えるということを。
私の心も、御手によって入れ替えていただきたい。主をのみ慕う心に。
●25(土)
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。 (ゼファ3・17)
南ユダ王国の末期。主の裁きと、その後の恵みを語る預言者ゼファニヤが立てられた。今朝の言葉は、イスラエルの回復時の希望の宣告だ。
喜びの日の到来時、そのただ中に居てくださる主は、その前にある償いの日々にもずっとただ中にあって、一緒に歩んでいて下さったということ。まさに神こそが、共に泣き、共に喜ぶお方なんだ。その方が、今日のボクとも、共に居てくださる。
●26(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 藤森誠 伝道師
●27(月)
主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。 (エレ17・14)
捕囚の中で、エレミヤは周りから「お前の神は助けてもくれない力の無い神だ」と揶揄され続けた。現実は周りの人が言う通りなのだ。そういう中で彼は、この言葉を言った。正に、信仰の告白だ!
「あなたがなさろうとする時、御心は必ずなる」と完全に委ねている。順風満帆の時でなく、苦難の中で、信仰は明らかになる。その有る無しまで。
●28(火)
よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。 (ルツ2・10)
未亡人となった異邦人ルツが、実家にも帰らずに姑と一緒に見知らぬ土地ベツレヘム(姑の故郷)について来た。姑に仕えるためだ。そのルツを見て、夫の一族であるボアズが優しく声を掛けたのだ。このルツから生まれる子孫に、ダビデ王が登場する。
自分で考える安心安寧を選択せず、見知らぬ土地に出発したルツに、アブラハムの姿が重なる。自分の計画の外に、大きな祝福が待っている!
●29(水)
呼び求めるわたしに近づき、恐れるなと言ってください。 (哀3・57)
歌人は、深い淵の底から、主に叫び声を上げている。万策尽きて、ただ御名を呼ぶばかりの者になっている。すがれるのは、もうここしかないと、声もかれるほどに。
しかし叫び続けるのは、「このお方は、必ず見捨てない」と心の奥に信頼の塊があるから。もしかしたら主に頼る生き方に、諦めという言葉は無いかも。もしかしたら神に頼るって、強い生き方なのかも知れない。
●30(木)
わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。 (詩44・7)
誰でも敵と戦う前、武器を揃える。戦場の場合でなくても、相手をやっつける言葉を一晩中考え、やり込める証拠を整える。または計画実現のための資金や仲間集めをしようとする。それなのにこの詩人は・・・。
主なる神が戦われると、信じている。それを本気で依り頼めるのは、信仰の有る無しだ。敵との戦いの前に、自分の信仰を問う戦いがある! そしてそれが、何よりも大切なんだ。
●31(金)
わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。 (士10・10)
まだ王がいない士師の時代。人々は周辺国の神々も拝み出した。主の怒りは燃え上がり、その国々を、イスラエルの敵として攻めさせた。苦境の中で、ようやく自分たちの罪に気付いた人々が言った言葉がこれだ。
改めて、主が厭う罪とは何かが分かる。それは刑罰に関わる話じゃなく、主をのみ信頼しないこと。ボクの生活の中にも、その瞬間が、あまたある。ボクも主を嘆かせる罪人だ。