2023年03月31日

『日々の聖句』2023年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年3月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 (詩139・23)
神様に、私の心を探って「何を願い、何を思い、何を悩んでいるか」を調べ尽くして欲しいと申し出るなんて。自分の心の中は、自分が一番よく分かっていると思っていたのに。
でも、本当に辛いことは、自分でも心に蓋をしてしまっている。本当に悩むことは、自分でも忘れるようにしている。でも、主こそが、私よりも私を知っていて下さるお方。ハッとした。そしてなんだか慰められた。


●2(木)
天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。    (詩19・2)
壮大なスケールで、神の栄光をたたえた詩人。叫び出したいほどの喜びが伝わって来る。主なる神との豊かな交わりに生きているからだろう。
ボクには、こんなに爆発しそうな神賛美があるだろうか。もしないのなら、自分のことばかりを見詰めているからかも。自分の願望、現実、そして自分の罪・・・。結局、自分しか見詰めていないのなら、神の恵みは見えて来ない。主にこそ振り返らねば。


●3(金)
わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。  (創28・15)
神が「約束を果たすまで決して見捨てない」と言って下さる。その「約束」が気になって、聖書を開いた。それは、ヤコブが自分の罪のゆえに、兄の復讐を恐れて荒野に逃亡していた時のこと。「あなたを守り、必ず祝福の地に連れ帰る」との約束だった。
過ちを犯した者なのに、それでもなお愛することを止められない主。罪人なのに・・・。ああ、その主のお心は、ボクにも向けられているんだ。


●4(土)
それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。   (箴3・9)
智恵の書である『箴言』は、主へのささげものを求める。それは、まず先に主から与えられているものがあると伝える中での言葉だ。それも「豊かに持っている中から」と言われている。だから、献げ物はお返しなのだ。
献金のことを、少し誤解していたかも。自分が持っている物が減ってしまう気がしていた。でも献金は、主に与えられている物の豊かさを想う時なんだ。献金も、感謝だ!


●5(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●6(月)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。 (イザ31・5)
新バビロン帝国が攻めて来る。そのとき人々は恐れて、大国エジプトと同盟を結んで守ってもらおうとした。そういう人々にイザヤが「人間に頼るな、主があなた方を守られる方だから」と伝えたのだ。
神様が人々を守る姿は、親鳥が翼を広げて雛を包む姿。その翼は、ボクの上にも広げられている。人に頼らず、まず神に委ねる、ボクはそういう雛鳥でありたいな。


●7(火)
耳を閉ざさず、この声を聞き、わたしを助け、救い出してください。    (哀3・56)
詩人は、激しい恐れの淵から叫んでいる。神に向かって叫んでいる。それは、主の御名を呼ぶ自分の声に耳を閉ざさないで下さいという叫びだった。聞いていただけたら必ず救って下さるという確信を漂わせて。
彼は、ただ主だけを信頼している。私たちも、恐れと苦しみの日、本気でどこに顔を向けるかが大事だ。人の助けか、自分の経験か、それとも力の限り主を求めるか、だ。


●8(水)
主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。   (ミカ7・19)
南北王国時代に、預言者ミカが主によって幻を見せられて預言した。それは、民の腐敗に対する審判の言葉に満ちていた。
しかしその中にあって、今日の言葉が告げられていたのだ。人々が罪に傾くのを必死になって抑えようとしているのは、父なる神なのだ。罪を一掃しようと熱心になられているのは神様なのだ。ここに、主の慈しみの何たるかを見た気がした。


●9(木)
主を畏れることは知恵の初め。   (箴1・7)
『箴言』には、これと同じような御言葉に溢れている。人間にとって「知恵ある者」となるには、主なる神を畏れ敬って生きることが土台なのだと、口を酸っぱくして言うのだ。
畏敬するならば、当然、そのお方の言葉を聞いて従うだろう。新約においては「キリストに聴従すること」だ。聖書全巻は、この事において一貫していた。聴従は、知恵ある者の初めの姿、また行きつく姿なり。


●10(金)
我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。    (ホセ6・3)
北イスラエル滅亡のとき、預言者ホセアが立てられた。背信のゆえの審きを伝えるために。しかしそれだけではなかった。王国の回復についても告げられたのだ、「偽りの悔い改めを捨てて、主に立ち帰れ」と。
倒れても、また立ち上がれる道が、神様のほうから示していただける。背きの者なれども御父の愛は消えない。こんなに強くて熱い愛を見たことがあるか。否、ただ主のみだ。


●11(土)
残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。   (イザ10・21)
旧約で「残りの者」というのは、鍵言葉だ。神への背きによって人々は審きを受ける。しかしそこで悔い改めた者が残る。そして、その真に悔いた者たちは少数だけれども、神に立ち帰り祝福の基となるというのだ。
残りの者は、人間にとっての希望というよりも、神様にとっての期待なのだ。「少しは私に立ち帰ってくれるだろ、祝福を与え続けたいから」と。
神のお心に、応答して生きたい!


●12(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●13(月)
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。   (ゼファ3・15)
北王国は既に亡び、南ユダ王国の滅亡も間近となっていた。そこに預言者ゼファニアが「神の声を聞かず、主に信頼しなかった都は災いだ」と告げた。しかし不思議なことに、裁きの宣告と共に、最後に「都エルサレミよ、喜び踊れ」と加えたのだ。罪の贖いの宣告だった。
罪を赦す神。そのために悩み苦しまれたのは神。その御父の愛が、私にも及んでいる、この罪人にも。


●14(火)
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。 (詩22・25)
「貧しい人の苦しみ」って、どういうこと? 単にお金が無いというのではないかも知れない。当時、富める人は神の祝福を得ているからと考えられていた。そうであるなら、貧しい人は祝福から遠くにいる人なのかも。
それでも主は、そこに起こる苦しみも悲しみにも、心を砕いて下さる。まるで罪人のために死なれた主イエスのように。天地創造の時から、変わらない主のお心に触れた思いがした。


●15(水)
聖なる方を知ることは分別の初め。   (箴9・10)
知恵の書である『箴言』。その知恵の中の知恵が、主を知ることなのだ。私たちにとっては、神を知り、神の言葉を知ることだ。そのことが、人生をどう歩むのか、善と悪をわきまえることに直結する。
ボクはこれまで、どんな知恵を土台として来たか。今からでも遅くない、聖なる主の言葉をすべての土台に据え直すんだ。義しく豊かに生きるため。幸せを手にするために。


●16(木)
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。    (エレ9・23)
ん? なんだか知恵の書『箴言』の中にある言葉のような・・・。でもこれは単なる信仰的知恵じゃない。彼は南ユダ王国の民の背信の只中で語っている。神を捨てる民に向けて、必死に叫ぶ、「主を誇れ、主を知れ」と。
それはそのままボクにも届けられている。主の言葉を預かって語るエレミヤが、時を超えてこのボクにも。ボクが、生活の中で自分を誇ることがあるから。主を忘れる時があるから。


●17(金)
天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。   (イザ1・2)
南ユダ王国に、主なる神が語り掛けた。それはご自分の愛する民に向けての言葉。しかしそれは、祝福の言葉ではなかった。背きに対する激しくも厳しい審判の宣言であった。
審判を前に、「我々は何ということをしたのか」と、我に返れば良かったのに。しかし民は悔い改めなかった。
主の怒りの言葉に耳を傾ける。それは、むしろ好機。立ち帰る最後の転換点なんだ。逃すまいぞ。


●18(土)
わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。   (イザ46・13)
主の恵みの業が届けられる。それも「もはや遠くない」時に、「遅れることなく」とも言われている。
今日、御言葉がボクの心にそのままダイレクトにやって来た。そして心の奥にまで染み込んだ。
御言葉を聞いただけで、まだ実現してもいないけど、もうボクの心は、ホッとしている。これが「信じる」ってことかな。そして、「信頼する」ということの実りだね。


●19(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●20(月)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。    (エレ26・2)
人々にとって安易な道しか語らない偽預言者たちがいた。人々もその甘言を選んで、悪の道を歩いていた。そういう人々に向けて、主が預言者エレミヤを通して言われたのだ。神の言葉を人間の都合で減らすな、耳に痛くても、それが真実な言葉だから、と。
ボクも御言葉を自分都合で「これは無理」と減らすことがある。その心を見て、主は一喝されるのだ。


●21(火・祝日)
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。(創15・13)
神がアブラハムに語る言葉は、このあとアブラハム子のイサク、その子ヤコブ、その子ヨセフ、その後に起こるエジプトでの寄留生活の出来事となる。さらに、その奴隷生活からの脱出(出エジプト)の予告も。
「あ、そうか」と思った。人にとっては苦しみの奴隷生活。でも「神が先を見ていて下さること」なのだ。主が先立っていて下さるんだ。ふと今日、苦難の見方が変わった気がした。


●22(水)
多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。   (ゼカ2・15)
捕囚期に、主の言葉を伝えたゼカリヤ。都への帰還の希望と、彼らを略奪した国々への審判の後に、諸国は、主なる神が生きておられると知ることになると伝えるのだ。そこに起こるのは、全世界の人々が、「主こそ神」と礼拝し出すということだ。
なんて壮大な祝福。まるでエデンの園の回復の姿のようだ。この争い多き世界は、本当は、そんな神の熱望の実現へと向かっているんだ!


●23(木)
すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。(代上29・14)
ダビデ王が、第一神殿建築に向けて、全会衆に寄贈品を求めた。宝物庫は溢れるほどに満たされたのだ。そのとき主に祈った言葉がこれだ。
彼は「主よ、こんなに集めました」とか「こんなに一生懸命しました」とは言わなかった。すごいな、と思う。きっとボクなら、「少しは自分を褒めてあげよう」なんて思っているかも。
これからは全ての奉仕をした後、ボクもこのダビデの祈りを祈りたい。


●24(金)
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。    (エゼ36・26)
自らの背信によって、イスラエル全家は壊滅、離散した。その人々に向けて、主なる神は語り掛けられるのだ。神の民として育んだあなたを惜しむ、と。そのゆえに、主御自身が人々を救い出す計画を立てられるのだ。人々に、神のみを求める心を与えること、また主の言葉に従う霊を与えるということを。
私の心も、御手によって入れ替えていただきたい。主をのみ慕う心に。


●25(土)
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。  (ゼファ3・17)
南ユダ王国の末期。主の裁きと、その後の恵みを語る預言者ゼファニヤが立てられた。今朝の言葉は、イスラエルの回復時の希望の宣告だ。
喜びの日の到来時、そのただ中に居てくださる主は、その前にある償いの日々にもずっとただ中にあって、一緒に歩んでいて下さったということ。まさに神こそが、共に泣き、共に喜ぶお方なんだ。その方が、今日のボクとも、共に居てくださる。


●26(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●27(月)
主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。    (エレ17・14)
捕囚の中で、エレミヤは周りから「お前の神は助けてもくれない力の無い神だ」と揶揄され続けた。現実は周りの人が言う通りなのだ。そういう中で彼は、この言葉を言った。正に、信仰の告白だ!
「あなたがなさろうとする時、御心は必ずなる」と完全に委ねている。順風満帆の時でなく、苦難の中で、信仰は明らかになる。その有る無しまで。


●28(火)
よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。   (ルツ2・10)
未亡人となった異邦人ルツが、実家にも帰らずに姑と一緒に見知らぬ土地ベツレヘム(姑の故郷)について来た。姑に仕えるためだ。そのルツを見て、夫の一族であるボアズが優しく声を掛けたのだ。このルツから生まれる子孫に、ダビデ王が登場する。
自分で考える安心安寧を選択せず、見知らぬ土地に出発したルツに、アブラハムの姿が重なる。自分の計画の外に、大きな祝福が待っている!


●29(水)
呼び求めるわたしに近づき、恐れるなと言ってください。 (哀3・57)
歌人は、深い淵の底から、主に叫び声を上げている。万策尽きて、ただ御名を呼ぶばかりの者になっている。すがれるのは、もうここしかないと、声もかれるほどに。
しかし叫び続けるのは、「このお方は、必ず見捨てない」と心の奥に信頼の塊があるから。もしかしたら主に頼る生き方に、諦めという言葉は無いかも。もしかしたら神に頼るって、強い生き方なのかも知れない。


●30(木)
わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。  (詩44・7)
誰でも敵と戦う前、武器を揃える。戦場の場合でなくても、相手をやっつける言葉を一晩中考え、やり込める証拠を整える。または計画実現のための資金や仲間集めをしようとする。それなのにこの詩人は・・・。
主なる神が戦われると、信じている。それを本気で依り頼めるのは、信仰の有る無しだ。敵との戦いの前に、自分の信仰を問う戦いがある! そしてそれが、何よりも大切なんだ。


●31(金)
わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。   (士10・10)
まだ王がいない士師の時代。人々は周辺国の神々も拝み出した。主の怒りは燃え上がり、その国々を、イスラエルの敵として攻めさせた。苦境の中で、ようやく自分たちの罪に気付いた人々が言った言葉がこれだ。
改めて、主が厭う罪とは何かが分かる。それは刑罰に関わる話じゃなく、主をのみ信頼しないこと。ボクの生活の中にも、その瞬間が、あまたある。ボクも主を嘆かせる罪人だ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:22| 『日々の聖句』

2023年03月26日

2023年3月26日の礼拝

◇主日早天礼拝説教「受難節のゴールに向かって、生きよ」、ローマの信徒への手紙6章15〜23節、辻川篤牧師。讃美歌276。
◇主日礼拝説教「聖霊を欺いた」、使徒言行録5章1〜11節、藤森誠伝道師。讃美歌250。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ

2023年03月19日

『日々の聖句』2023年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年4月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。   (イザ24・5)
大地が人に「汚された」、と聖書は告げる。地球や環境のことが、聖書に扱われているんだ。「信心や善悪のことなら馴染むけど」と思いつつ、ちょっと意外に感じて、すぐに「当然かも」と思い直した。だって、世界を造られたのは、神御自身なんだから。それも、全てを見て「良し」と言われたほどに愛されたのだから。
それなのに、人の罪が、自然も汚すのだ。環境問題は、信仰問題だ。


●2(日・棕櫚の主日)
礼拝説教
(棕櫚の主日)

主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●3(月)
秘密をばらす者、中傷し歩く者、軽々しく唇を開く者とは、交わるな。  (箴20・19)
「そんな人と関わるのは嫌だね」と思いながら・・・。そう思っている自分が、人の秘密を漏らしている者かも。陰で、嫌いな人の悪口を言っている者かも。正義は当然自分にあるという口調で、直接会って、手紙やメールまで使って。
ああ、私の中に、神が忌み嫌う者の姿がある。先ずその自分に気付いて、悔い改めて、金輪際交わらないように縁を切らねば。


●4(火)
少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。  (サム上2・26)
主なる神に喜ばれる者になったら、隣人にも喜ばれる人になれているということかな。いや、隣人に喜ばれる人が、神に喜んでもらえる者ということか? でも、そんな卵が先か鶏が先かという話じゃない。御言葉に聴従して生きるなら、神にも人にも喜ばれる者となって〈いる〉ということなんだから。だから、「すくすく育ち」というのは、身体の話だけじゃなくて、霊的な話なんだよね。


●5(水)
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」  (創12・1)
アブラハムが、神様から祝福へと呼び出される。しかしそれは、未踏の地への旅立ちだった。自分を自分で支える地縁・血縁の全てを捨てて出発することへの呼び出しだった。
ボクも神様の祝福を求めている。でもそれを戴く場所へと呼び出された時、アブラハムのように応えられるだろうか。神様のなさり方に、応答できるだろうか。御心に従いたいと言っていながら、従わないボクがいる。


●6(木・洗足の木曜日)
わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。(イザ55・8)
イザヤが背信の民に「神に立ち帰るなら豊かに赦して下さる」と主の御旨を伝えたのがこの御言葉だ。
人と人なら、裏切り者を赦したりしないだろう。再び愛したりしない。償い切らせて、なお縁を切ろうとするだろう。でも父なる神は違うのだ。
ボクはそれを知っている。十字架の上の御子のお姿に、神の御子が死なれた姿に、そこに神の思いが露わとなったことを。


●7(金・受難日)
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。  (詩37・24)
きっと誰もが人生の中で、行き詰まり、倒れ伏してしまう時を経験するだろう。誰からも、どこからも助けがなく、見放されているように思える日がある。
でも今朝、御言葉は、「たとえ倒れても、あなたをとらえる御手は去りはしない」と告げるのだ。あなたが倒れ込んだ、その足元で、主があなたを支えていると。どんな時も、決して見放されはしない、と。


●8(土)
賢者はふさわしい時ということを心得ている。何事にもふさわしい時があるものだ。  (コヘ8・5-6)
改めて「賢者」ってどういう人のことかなと考えさせられた。知恵や知識が豊かとかじゃない。経験の豊富さとか、弁が立つ人とかでもない。
空気が読めて、状況判断できる人とかでもない。ん? ちょっとこれには近いのかも。なぜなら、「ふさわしい時を読む人」のことだから。
でも、その「時」は誰が教えてくれるのかな? ボクは、もう知っているな。それは、あのお方、イエス様だ。


●9(日・復活祭 イースター)
礼拝説教
イースター(復活祭)

早天祈祷会 津川優司 兄
主   日  藤森誠 伝道師



●10(月)
主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。   (創4・4-5)
最初の兄弟の物語。兄のカインも弟のアベルも献げ物をしたのだけれど・・・。神は弟の物だけを受け取られた。その神の御旨は人間には分からない。しかし兄カインは、思い通りに行かないから、嫉妬して激しく怒ったのだ。愛されていることは変わっていないのに・・・。
ふと放蕩息子の兄の怒りを思い出した。人はどこまでも自分中心なのかも。最初の兄弟からずっと。


●11(火)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。   (詩84・11)
詩人は、「神の庭で過ごす一日」を、この上もなく幸いな時だと謳っている。栄華を極める王宮で過ごすよりも、大きな恵みだと言うのだ。
そんな主の庭って、どこだろう。天の国のことかな? それなら地上に生きるボクには、少しだけ遠い場所。あ、もしかしたら、あそこだ。あそこが主の庭だ。それは、主の神殿、礼拝堂だ。ボクもいつも、「礼拝は千日にもまさる恵み」と過ごしたい。


●12(水)
わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。   (ゼカ2・14)
捕囚の地でゼカリヤが、主の言葉を人々に告げた。それは、見捨てられたように見えるイスラエルの民に、しかし「あなたと一緒にいるよ」という主の約束の言葉だった。
きっとこの言葉は、人々にとって慰めと希望の言葉として聞こえただろう。ボクも、それがちょっと分かる気がする。打ちひしがれた日に、一緒にいてくれた一人の友の存在が嬉しかったから。ただ居てくれるだけで・・・


●13(木)
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。     (箴1・23)
主の霊を戴くには、それを受け取る器を、自分の中に準備しなくちゃならないのかな。でもそれは、自力で自分の心の中を綺麗にする、というようなことじゃないらしい。
それは「懲らしめを受け入れる」という場所を持つことだと告げられていた。首を洗って御前に出るんだなぁ。なんか恐いな。でも、本当に私の御父だと信頼したら、御前に出られる。委ねられる。信仰の問題なのだ。


●14(金)
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。   (詩4・9)
なんて素敵な安らぎの時間なんだろう。私も、いつもこんな風に過ごしたいと思う。でも、これはどういう場面なのだろうかと思って聖書を開いたら、詩人は苦難の底から主を呼び求めていた。さらに、「おののいて罪を離れ・・・主に寄り頼む人に御顔を向けて下さる」と告げられていた。
安らぎの時間は、主に立ち帰り、主に信頼する所にある。ボクも御父のもとに帰ろう、平安を求める故に。


●15(土)
モーセは主に言った。「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」     (出4・10)
主が、イスラエルの民をエジプトから脱出させるための指導者としてモーセを選んだ。その時彼は、「口下手だし、人の前に立つのは苦手だし、無理です」と、主に対して拒んだのだ。
「御心に楯突くなんて、なんて不遜で不敬虔な」と思って、ハッとした。やりたい奉仕しかしない、やりたくない苦手な奉仕はしない。そんな姿は、ボクに似ていると気付いたから。恥ずかしくなった。主に対して。


●16(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●17(月)
むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」  (エレ7・23)
「むしろ」って何を指してるの?
聖書を開いたら、人々は律法を遵守して献げ物をしているけど、心が伴っていないことを主が見抜いてこれを言われたのだ。
神様が喜ばれることが何なのか、ハッキリ分かる。それは、ボクも御言葉に聞き従うことだ。それも心から喜びつつ。あっ、今、主の御声が聞こえる気がする「分かったのなら、そのようにしなさい」と。


●18(火)
獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。   (サム上17・37)
少年ダビデは、大男の戦士ゴリアトに対峙した。戦いのために持っているのは、投げ石だけ・・・。そのとき少年ダビデが言った言葉がコレだ。
単に「いま神を信頼している」ということだけじゃない。ダビデの信仰は、「かつて、あの日を守って下さった神」という現実味だ。信仰は、信仰体験も大切なのかも。、神の御業を数える体験の積み重ねだ。そこに育つ確信が、未来への信頼の基ともなる。


●19(水)
すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。   (ゼカ2・17)
「黙せ」と言われているから、神様は怒っておられるのかと思ったら、「主は・・・立ち上がられる」からだと告げられていた。どういうこと?と聖書を開いたら、都への帰還の喜びの知らせだった。
「黙るように」とは、「もう嘆くな。悲しみの日々は終わるから」ということなんだ。嘆きを終わらせるのは、単純な問題解決じゃなく、神様から未来の希望を得ることにあるんだ。


●20(木)
わたしは初めであり、終わりである。   (イザ44・6)
「これは、新約のヨハネ黙示録の御言葉」と思うけど、旧約の預言者イザヤを通して神が告げられた御言葉だ。神様がご自身を顕す時、古来も未来も、同じ言葉になるんだなぁ。
これを、捕囚の民が聞いたのだ。自分達の初めから、そしてこれから先もずっと主なる神がともに居てくださる。その宣言は、何よりもの励ましになっただろう。そしてその励ましは、今を生きるボクにも届くのだ。


●21(金)
あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ、あなたの背信が、あなたを責めている。(エレ2・19)
自分の罪が、自分への懲らしめになるの? 私の背信が、私を責めるの? どういうことだろう・・・。聖書を見て分かった。
神からの報いを負うことになるからだ。罪も背信も、何もなかったかのようには終われないんだ。
今朝の御言葉が、ボクが過ちを犯す前のブレーキになってくれたら。そのために、大切な一言として、これを心に納めておこう。自分を守るため。


●22(土)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。     (詩23・1)
「あ、これはボクの好きなやつ」と、私の心が叫んだ。
多くの兄弟姉妹も「何十年もこの御言葉に支えられて来た。私の愛唱聖句です」とおっしゃると思う。この詩編二三編がそれほど愛されるのは、詩人が困窮の中に在りながらも、そこから告白された言葉の力強さによるのかも知れない。
ボクはこの先、棺の中にまで携えて行こう、この御言葉を。


●23(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●24(月)
彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。   (申3・22)
モーセが後継者ヨシュアに命じる、「ヨルダン川を渡って、民が受け継ぐ土地へ進め」と。それは、神の御旨。しかしその御計画には困難があった。敵がいたのだから。
今朝、御言葉は告げる。神の計画なら、神が戦って下さると。ならばボクの心配は、「どんな困難があるか」ではなく、「ちゃんと御旨を聞き取れるか」だ。祈りに依らないでは、一歩も進めないゾ。


●25(火)
苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。  (ヨナ2・3)
ヨナが、神の命令から逃亡した先で嵐に遭い、海に放り出されて死ぬ直前。神が遣わした魚に呑まれて助かる。自業自得なのに、それでも背いたヨナを助ける主。そこでやっと彼は悔い改められたのだ。そして神に顔を上げられた。
真の悔い改めって、神の恵みの中で起こるんだ。単に自分だけで悔いて懺悔する自分の業じゃない。そこはもう、慈しみの御手の中!


●26(水)
今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。   (ヨシュ23・8)
モーセから引き継いで、民を安住の地に導き入れたヨシュア。彼も老人となり、地上を去らんとする時、告別の辞を語った。その遺言の中心は、やはりこの言葉となったのだ。
その言葉は、私たちに向けての遺言でもある。この先、人生の航海を進むための揺るぎなき羅針盤としての言葉でもある。いざ、この針の示す方へと舵を切ろう。今日一日を迷わずに過ごせるために。


●27(木)
憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。   (箴10・12)
「いさかい」の原因が示されている。それは自分の心の中に巣くっている「憎しみ」だ。または、隣人の心の奥にある「憎しみ」。でも、その悲しみの原因となる「いさかい」を除く方法も示されていた。それが、「憎しみ」に替えて愛すること。まず自分から相手を愛すること。相手が憎しみをもって自分を見ていても、愛すること。これ以外の解決はない。もしも世界がこれに気付けば、平和が生まれるのに。


●28(金)
主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。     (出16・8)
エジプトを脱出した民が、「食べ物が無くて死ぬ」と不平を言った。それに対してモーセが「神はその不平を聞いて、裁きではなく恵みを下さる。日毎にマナで満腹になる」と。しかしそこに加えたのだ「神に不平を言うお前たちは、ナニサマなのだ」と。
グサッと来た「一体ナニサマなのか」と言われたことに。でももっとグサッと来た。不相応な不平にさえ恵みで応えて下さる神様の御心に。


●29(土・祝日)
主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。     (詩33・9)
主なる神の御心こそが、代々にわたって実現されてゆく。そうであるならば、私たちがすべき祈りは、「あのことをして下さい、こうして下さい」と願うことじゃなくて、「あなたの御旨を悟らせて下さい。御心にお従いしますから」ということだ。でも、分かっているのに、現実生活に戻るとすっかり忘れている・・・。あっ、「人の愚かさ」の正体見つけたり。この忘却への無頓着さにあり!


●30(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師
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