2023年01月21日

『日々の聖句』2023年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2023年2月

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 (ヨナ4・4)
「ニネベの都は滅びる」と、神の裁きを伝えた預言者ヨナ。それを聞いた人々が悔い改めたのをご覧になった主が、災いをやめられたのだ。自分がほら吹きになったと思ったヨナが不満を現わしたことに、主が言われた言葉がこれだ。
何でも自分の考えとおりにいかないと、すぐに不満に思う。どこまで人は、自己中心なのか。その姿が、ボクの中にも巣食っているんだ。


●2(木)
わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではないと主は言われる。ただ、お前の犯した罪を認めよ。(エレ3・12〜13)
なんて慈しみ深い神様のお言葉!
これは神に背いたイスラエルへの語り掛けだと思うと、その優しさがリアルに伝わって来る気がする。しかし、だ。最後の一言にビクリとした。「お前の犯した罪を認めよ」と。
神の目にちゃんと罪が数え上げられている。それを見ない振りをしていたのはボクだけかも。悔い改めは、慈しみを受ける唯一の入り口。この狭き門を通る以外、恵み無し、だ。


●3(金)
あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。  (ヨシュ1・9)
モーセの後継者として民を率いることになったヨシュア。「絶対無理」と思う大役だ。その彼に、主が語り掛けたのが、この御言葉だった。
モーセの時も同じだった。たじろぐ者に語り掛けるのは、いつもこの約束だ。アブラハムにも、ヤコブにも、エレミヤにも同じだった。そして私たちにも。イエス様こそ「神は我らと共にいる」というお方。この約束が、立ち上がって進める原動力なんだ。


●4(土)
主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。  (サム上17・47)
少年ダビデが、敵の大男ゴリアトの前に立った時、この言葉を告げた。主が戦われるから、自分の手で戦う必要はない、ということ。それが、剣も槍も要らずに勝利する道なんだ。
ならばボクも、自分の戦いが「主の御心か否か」を知ることが、勝敗の別れ道となる。でもそれって、どうやって分かるのだろう。あ、だから祈らねばならないんだ。何が何でも、その祈りを身につけなきゃ!


●5(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●6(月)
ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。(創19・16)
ソドムとゴモラの町が、悪に満ちた。それを嘆かれた主が、裁きによって滅ぼすことを決められる。そこに住むロトの家族に逃げる猶予を与えて。でもロトは、裁きの言葉を実感できず、グズグズしている。その彼を天の使いが救い出すのだ。
結局、自分主義に留まるロト。その姿は、御言葉を真摯に聞けないボクに似ている。焦っているのは、神のほうだとも分からずに。


●7(火)
主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 (詩16・7)
詩編の中にある「信頼の歌」と呼ばれるものだ。しかしこの詩は「神よ、守ってください」と、苦難の中からの叫びから始められていた。つまりこの詩人は、困窮の中にいるのだ。にもかかわらず、いやむしろその中にあって、彼は神への信頼を固くして歌っていたのだ。平穏な中での、安易な信仰告白ではないんだ。
ボクも、この信仰に生きてゆきたい。困難のない日々は無いのだから。


●8(水)
主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。 (詩41・4)
「その人」って誰のことだろう・・・。詳しいことは分からないが、一つのことだけは分かってる。この祈りは、隣人のための祈りということ。自分を助けて欲しいという「自分のため祈り」じゃない。隣人を自分のことのように愛している人の祈りだ。
執り成しの祈りは、必ず主に聞き届けていただける。ならば、もし世界中の人が執り成し合えば、もっと素敵な世になるのだろうに・・・。


●9(木)
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。    (創2・24)
まだアダムが独りでいた時、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と、エバを造り、彼に出会わせた。
「一体となる」というのは、ニカワで張り合わすという意味だ。そういう助け手が、人には必要なんだ。助けられて助けるという関係が、必要なんだ。「助けて!」と叫ぶことも必要なんだ。人が独りで生きるのは良くないと、神様がご存じでいて下さる。


●10(金)
「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」  (出3・6)
神の山ホレブで、モーセに現れた主が、ご自分のことを指して言われた。
イスラエルの民の一員にとって、この言葉は特別な意味を持っていた。「あなたは祝福の基となる」と父祖アブラハムを選び分けた主が、あなたの神でもあると言われたのだから。それは「あなたも、その永遠の約束の相手なのだよ」と言われたということ。
その言葉は、そのまま洗礼を受けたボクにも語り掛けられている。



●11(土・祝日)
ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。  (創28・17)
兄エサウを騙し、復讐を恐れて荒野に逃亡したヤコブ。石を枕にして寝ていた時、天からの階段を上り下りする天使たちの夢を見た。その夢から覚めた時の言葉がこれだ。
自分の罪の結果の惨めさの中にいた彼が、どん底の場所で神との交わりの場があったと気付く。ボクも同じだった。どん底だと思っていた日に、ボクに語り掛ける主の言葉に触れた。神の臨在を感じた時だった。


●12(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師



●13(月)
主があなたと共におられることがよく分かったからです。(創26・28)
井戸を巡って、イサクがペリシテ人から危害を加えられた。その時イサクは、争わずに新しい井戸を掘りあてる。その井戸も奪われても、次の井戸を掘りあてるイサク。祝福され続けるイサクを見たペリシテ人が、これを言ったのだ。奪い返そうとしなかったイサクは、主の臨在に生きた。それを見た異邦人も主の臨在を知った。ボクもそのようにありたい。こう生きたい。


●14(火)
見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。(エゼ37・5)
捕囚の民に、エゼキエルが主の言葉を伝えた。人々が罪によって枯れた骨のようになっている。そこで「我々の望みはうせ、もう亡びる」と言っている。しかし、「見よ」と語り掛けたのだ。「お前たちは生き返る」と。
心も身体も疲れ切ったと思う日、罪と過ちに悔いて打ちひしがれる日がある。その日にもう「助けて」と祈るまい。「聖霊を下さい」祈ろう。主の霊を受けるなら、生き返れるから。


●15(水)
わたしに立ち帰れ、と万軍の主は言われる。そうすれば、わたしもあなたたちのもとに立ち帰る、と万軍の主は言われる。  (ゼカ1・3)
バビロン捕囚の中にある人々に、預言者ゼカリヤが主の言葉を伝えた。それは、都への帰還の幻だ。嬉しいニュース。でもそれを手にするには、一つのことが必要だった。それが、「主に立ち帰る」ということだった。
改めて思う「神に立ち帰るって、どうすることなのだろう」と。私も恵みが欲しいから、これは真剣な問い。立ち帰るって、実際はどうすることなのか知りたい。祈って主に聞かねば。


●16(木)
復讐してはならない。  (レビ19・18)
主がモーセに仰せになった律法の中の「神聖法集」にある一つだ。神の民として、聖であるための掟だ。
そもそも直前で、「隣人に恨みを抱くな」とさえある。恨むことは、聖であることをけがすことなんだ。ボクも心に留めよう。また直後では、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあった。復讐しないことは、愛すること。ボクも心に留めよう。ボクも、聖であるべき神の子供だから。


●17(金)
主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。    (ヨエ2・23)
南ユダ王国の滅亡を伝える預言者ヨエル。背信の民に下す審判は、必ず実現するぞ、と告げるのだ。しかし、その文脈の中にあって、この御言葉も語られたのだ。主に立ち帰って、断食し、悔い改めるならば・・・と。
主は、罪人が御自分のもとに立ち戻って来るのを待っておられるんだ。放蕩息子の父のように。ああ、それが私の天の父。そして背信者がボクだ。けだし、御父の元に帰らばや!


●18(土)
(ファラオは言った)「主とは一体何者なのか。…わたしは主など知らない」    (出5・2)
モーセがファラオのもとに行って「主の命令です。イスラエルの民全員を出国させよ」と交渉を始めた時、ファラオが言った言葉だ。主の言葉と言われても、一向に聞こうとしないファラオ。そして「主なる神など知らないから」とうそぶいた。アッと思った。御言葉に従わない時のボクは、このファラオと同じことを言っていると気付いたから。「神なんて知らない」と言っている彼と同じなんだ、と。


●19(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●20(月)
あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る。  (ヨシュ1・11)
モーセの死後、イスラエルの民はヨルダン川を渡ろうとする。その直前、後継者ヨシュアが民の役人たちに告げた言葉がこれだ。
渡河の目的は、永住の地を得ること。その未来を実現させるのが「主が得させようとしておられる」という一点なのだ。つまり未来は、主の手から、民に渡される。
ならば、御言葉に従って出発するなら、そこにこそ未来がある。


●21(火)
サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(サム上3・10)
神殿に仕えていた少年サムエル。夜寝ていると、自分を呼ぶ声がする。祭司エリに聞くと、「主が呼んでおられるのだよ」と教えられた。そして4度目に呼ばれた時・・・。
主なる神は私たちにも呼び掛けられる。礼拝を通して、また御言葉によって。その呼び掛けに「はい、私に何をさせたいのですか」と応答する時に、主の御心の御業が動き出すのだ。私の応答を、神は待っておられる。


●22(水)
主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。・・・わたしはこれらを造ったことを後悔する。」    (創6・7)
ノアの大洪水が起こった原因譚が、地上に悪が満ちたということだった。そのとき地上を目にして主が嘆かれたのが、この言葉となった。
主なる神が、愛する思いを込めて人を造られたのに・・・。人々のしていることを見た時、嘆いて「後悔する」とさえ言わせてしまうなんて。この時の人々の姿と、ボクも同じことをしている。それは主を後悔させていること。ボクが日々しでかす罪のゆえに。


●23(木・祝日)
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。   (創2・9)
憧れの「何不自由ない生活」がそこにあった。それがエデンの園。好ましいものに囲まれて過ごせる場所だった。それを準備されたのは、父なる神なのだ。どんなにアダムは御父に愛されていたのだろうかと思う。まるで過保護とも思えるほどに・・・。それなのに彼は、このエデンの園を出なければならなくなる。自らの背きのゆえに。
人間って、どこまで愚かなんだろう。恵みを自分で捨てるんだから。


●24(金)
「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。」  (王上1・29)
老いたダビデが、後を継ぐ者を任命するために、ソロモンの母バト・シェバを呼んで語り掛けた。任命の根拠は、ソロモンの能力によらず、血筋によらない。ただ「生きておられる主」の御業によるということだった。
大きな決断をする時、ボクは何を根拠にして決めるだろうか。「主は生きておられる」と信じて、祈ることから始めているだろうか。それも本気で、臨在の主に聴いているだろうか。


●25(土)
わたしがあなたと共にいて、救い出すと、主は言われた。  (エレ1・19)
エレミヤは、主から預言者として召命を受けた時、自分は未熟だからと固辞した。彼には分かっていたのだ。主の言葉を人々に伝えたら、反感を買って迫害を受ける、と。その彼に主が最後に言った言葉がこれだ。「神が共にいて、救い出す」とは、この戦いは主御自身の戦いだということ。
主は、全てのキリスト者にも語りかける、「行け、御言葉を伝えよ、私が戦うから」と。などて退くべきか。


●26(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師



●27(月)
わたしは憐れみをもってエルサレムに帰り、わが家をそこに建て直させると、万軍の主はこう言われる。(ゼカ1・16)
捕囚となっている時。御使いによって主の言葉が届いた。自分たちの罪によって捕囚の苦しみがあった。しかしやがてその日は終わり、都エルサレムに帰還できる日が来るということ。それはつまり、赦される日が来るということなんだ。
帰還の喜びの意味が分かった。単なる帰京の喜びでなく、赦しの喜びなんだ。ああボクにもそれが分かる。赦しの喜びが一番だって。


●28(火)
むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」(エレ7・23)
冒頭の「むしろ」とは何か。それは、いけにえの捧げ物を形式的にささげて、良しとしてしまうことだ。
私たちの信仰生活も、形式的になる時がある。それは、食前の祈りでさえもだ。いつもの言葉をつぶやくだけになっている時。主日に、礼拝堂に座っているだけになっている時。そのとき心から、主と差し向っていないのだ。主は、そんなボクに「むしろ、心砕かれて我に従え」と言われる。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:35| 『日々の聖句』