2022年09月30日

第7波後の相模原教会の対応につきまして

相模原教会は、コロナ禍7波の中にあって、少人数に分かれて時間を取り分けあいながら礼拝を継続してまいりました。その中で、第7波が少しずつ落ち着きを見せていることや、また、下記の理由から幹事会にて下記のように礼拝を再開することを決定いたしました。
9月25日(日)の礼拝から、礼拝の形を朝8時からの「主日早天礼拝」と朝10時30分からの「主日礼拝」の形に戻します。

戻すことができると判断した理由は下記の3点からです。
 @第7波の新型コロナウイルス新規感染者数が落ち着いてきた
 A万一、感染した場合にも、医療機関で治療を受けることができる
 B教会内の感染防止対策を、十分に行える見通しがついた

特にBの感染防止対策のために、新たに次の取り組みをいたします。
 ◇「主日早天礼拝」は今まで通り、言葉だけで進行される礼拝形式にて行われます。(賛美は歌詞の朗読で)
 ◇「主日礼拝」は、100人以上が同時に礼拝堂に集まることは感染の危険性が高いため、教会内で場所を分かち合って、「3カ所(礼拝堂、2階ホール、幼稚園園舎)」で礼拝に与っていただきたいと思います。
 ◇どの場所で礼拝に与っていただくか等の詳細は、礼拝開始前に受付にて幹事がご案内いたしますので、どうぞ、ご協力くださいますようお願い申し上げます。(礼拝場所は毎週変更されます)
 ◇ライブ配信は10時30分の礼拝にあわせて配信いたします。

※なお、9月18日(日)の礼拝は、組会単位での礼拝を行いますのでご注意ください
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『日々の聖句』2022年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年9月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。 (エフェ4・1)
どこに招かれたのか? それは、キリストの体である教会に、だ。一つの体となるように、頭であるキリストに結ばれて、各人が体の一部分として生きよということなのだ。
そうであれば、ふさわしくない姿とは、その一致を乱すことなのかも。どうすれば、そんな人にならずに済むのだろう・・・きっと、頭であるキリストのように、自分の全てを捨ててまで隣人に仕える者となることだね。


●2(金)
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。   (1ペト2・4)
イエス様は、人々から評価されず、認められもせず、かえって見放され、殺されてしまった。しかしその歩み全てが、父なる神の御心に従われたご生涯だったというのだ。その故に、御心の「救いの成就」がなされたのだ。
今朝のみ言葉の直後に「あなたがた自身も生きた石として用いられよ」と続く。ボクも神の御心に従って生き通せということだ。それが「自分の十字架を負う」という真意なのだ。


●3(土)
(愛は)自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 (1コリ13・5)
これは社会生活の一般的ハウツーかな、と思ったけれど。でも、1コリ一三章だと目に入って、アッと思った。それは、これが「愛の賛歌」と呼ばれる箇所からの御言葉だと気付いたから。つまり社会生活の基本は、隣人を愛することに尽きるということなのかも。愛が第一というのは、新郎新婦の間だけの話しではないんだ。
私も、今日会う全ての人との間で、この御言葉通り生きてゆきたい。


●4(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師

(コロナ禍の状況によっては変更)



●5(月)
主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。    (ヤコ5・7)
主の再臨を願い求めつつ、地上での教会生活を整えるようにと勧められる。この世からの誘惑もあるだろう。しかし耐え忍んで生きよと。
でもこれは将来の希望をしっかり見ている忍耐。実りへ向かってのコツコツ歩みだ。手は土まみれ、体は汗まみれ、クタクタになるだろうけれど、それがそのまま実りに変わる日となると思ったら、喜びを秘めた歩みとなる。信仰者は、そんな農夫だ。


●6(火)
(イエス)「立って、真ん中に出なさい」  (ルカ6・08)
手の萎えた男が苦しんでいた。でもその日は、誰も彼を助けてあげられない。律法で一切の仕事を禁じられていた安息日だったから。ファリサイ派は、男の苦しみ見て無視した。しかしイエス様は、男を見て癒される。
主は、「真ん中に出なさい」と言われた。それは、「私はここですぐ、今苦しむあなたを救いたい」という御心の中に立つという場所。そのイエス様の想いは、私にも注がれている。


●7(水)
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊い   (1ペト1・7)
「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならない」と言われた直後にこの御言葉が続く。信仰が本物になるためにたくさん試練を受けよ、と言われているのじゃない。
この世で信仰を守ろうとしたら、その者にだけ必ず試練が襲う。でもその者にだけ与えられる栄冠がある、と言われているんだ。耐え忍ぶ側に立つのか、そこから逃げるのか、さあ、私はどっちに立つのか。さあ!


●8(木)
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。  (1コリ1・25)
「神の愚かさ、弱さ」とは、御子を十字架で死なせたという出来事そのものだ。だって、御父が嫌う罪人の身代わりを、御子にさせるなんて、愚かに思える。他に良い方法がなかったのかと思う。神が死ぬなんて、そんな姿は弱すぎで、もっと強力な御力の発揮の仕方はなかったのかと思う。
でも、その愚かで弱い方法によって、愚かで弱い全ての人が救いあげられたんだ。こんな罪人のボクでさえ。


●9(金)
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。  (ルカ15・7)
見失った迷子の羊の話しをされたイエス様。
その一匹って、どんな羊なんだろうと思い巡らしてみた。それは、自分中心で羊飼いの言葉を聞かずに勝手なことをする羊。つまり御父のもとを離反した罪人だ。もし、この羊が自分のことだと(知的理解でなく)心の底で受け取れたら、天にある喜びがボクの心にも響いて来る。恵みって、罪人理解に引っ付いているのだな。


●10(土)
互いにうそをついてはなりません。(コロ3・9)
母が「うそをつく子は大嫌い」と、よく言っていた。でも、今日の箇所の「うそ」というのは、虚言とか作り話とか詭弁とかいうのとは、何かちょっと違う気がする。それは聖書で、「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉」と一気に記されていた段落に直結していたからだ。うそは、忌むべき行いの中に入っているのだ。
「うそも方便」と上手に生きる者でなく、御言葉に愚直に生きたい。


●11(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師


(コロナ禍の状況によっては変更)

●12(月)
兄弟を憎む者は皆、人殺しです。(1ヨハ3・15)
この「兄弟」はと血のつながった家族ではなく、勿論「隣人」のこと。「あいつが憎い」と思う時、その人を殺していると言われている。そんな大げさな、と思って、ウッと立ち止まった。
「大げさな」と思うのは「こんなことぐらいで人を殺しはしない。こんなことぐらい大丈夫だ」と、自分で勝手に思っているということだ。殺したのと同じ重さの罪だと、神が言っていることに、気付きもしないで・・・。


●13(火)
神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ(使11・18)
「異邦人をも」という一言が、使徒言行録にあることは、大切な意味がある。教会の働き・伝道の働きが始まった時に、何よりも「異邦人をも」という点が拡げられることが重大事だったことを示す一言だから。
この「異邦人」は、「こんな人が救われるはずがない」と言われていた人を意味する。それが「私」だったんだと改めて思う。更に、いつの間にか伝道を諦めている「あの人」のことかも。


●14(水)
さあ、立て。ここから出かけよう。 (ヨハ14・31)
イエス様が、受難が始まる直前に弟子たちに、告別の話しをされた。そしてこの言葉を告げられたのだ。「受難のど真ん中へと出かけよう」と。なぜなら、そこに御父の「御心の計画」があるからだ。
ボクも、これが「御心の道だ」と分かったら、たとえそこに苦難が予想されても、背を向けずに踏み出そう。そこへの道こそ、主が「さあ出掛けよう」と一緒に歩いて下さる道だから。


●15(木)
万物は御子によって、御子のために造られました。   (コロ1・16)
天地創造の時、御父と一緒に御子も創造の御業に就いておられた。だから「御子によって造られた」ということ。「御子のために」とは、神様は万物をご自身の「相手・パートナー」として造られたということ。御子なる神が、この世界と、また人々と関わることを求めておられるのだ。
だから、ボクが造られた意味は、御子のパートナーとされているという点で、一番輝くんだと思った。


●16(金)
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。 (マタ5・44-45)
イエス様の「山上の垂訓」の中の一節だ。いつも、聞いてすぐに「無理」と思って、放り投げて来た。でも改めて「天の父の子となるため」と聞いて、ドキッとした。敵を愛そうと試みさえしなかったら、御父の子となれないんだと、ふと気付いたから。
「無理」と放棄するのは自己中心そのもの。そこに罪が巣食う。だから何度も試みよう。これは御子の言葉だから。幸いへの招きの言葉だから。


●17(土)
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。 (ルカ1・33)
「彼は永遠に神の民を治める者となる」と宣言されている。彼って誰のこと? 思って聖書を開いたら、天使が、降誕を告知をした場面だった。彼とは、私たちの主イエスだ!
「永遠に」ということは、今の私も含まれている。「ヤコブの家」ということは相模原教会も含まれている。つまり、私たちも御子のご支配の中に入れられているということ。ならば恐れず行こう。主の守りの支配の中を。


●18(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  藤森誠 伝道師

(コロナ禍の状況によっては変更)

●19(月・祝日)
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。   (エフェ5・10)
いつも「何を主にしてもらいたいか」ばかり考えて来た。その結果「アレもコレもしてもらえない」と不満ばかり。でも今日気付かされた。「見るべき方向は、自分じゃなくて、主を見るんだ。方向が真逆だったから、主との関係も見えなかったのかも」と。
今日から「主が何をしてくれるのか」でなく「ボクが何をしたらいいの」だね。もっと早く気付けばよかった。そしてずっと忘れないようにしよう。


●20(火)
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。     (ルカ13・9)
3年もいちじくの木に実がならない。主人は、こんな役立たずは切り倒して別の良い木に植え替えてしまえと言う。でも園丁が、今年もこのままにしておいて下さい。私が世話しますからと言ったのだ。実のならない木を愛する園丁が、イエス様のこと。
私が御心に適う生き方をする者になるのを、待って下さるイエス様。気の遠くなる忍耐で、不出来な者を赦し続けて。ああ、ボクも愛されてる。


●21(水)
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。  (ヘブ3・16)
繰り返し「今日、神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」と告げられる文脈の中に、今朝のみ言葉はある。誰が神に反抗なんてするんだと思っていた私は、「すべての者」だと聞いて、ギクリとした。「お前こそが、神への反抗者だ」と、神様から指差されたように聞こえたからだ。
今日気付けて良かった。崖っぷちで踏み止まれたということだから。


●22(木)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。    (マコ4・39)
風を叱りつけ、湖を一喝されるイエス様。その激しさにビックリする。
でもこんなに激しくなられたのはなぜ? それは、舟の中で弟子たちが、嵐に怯え切ってしまっていたから。主ご自身を信じられない弟子たち。それでも怯える姿に、主は味方になって下さったのだ。激しいほどに。
ボクも不信仰ですぐアタフタする。そんな姿にしかならないボクのためにも、主はまず立ち上がって下さる。


●23(金・祝日)
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(エフェ5・21)
キリストご自身に対するように、「あの人」に仕えるなんて。あんな人に仕えるなんて、出来るだろうか・・・
そう言えば、マザー・テレサは、カルカッタの駅で倒れている、誰にも顧みられない病者に、キリストご自身の姿が重なったという。ボクもまず一人に対して、更にもう一人に対して・・・と生きてみたい。失敗する日もあるけれど、一歩ずつでも。もし皆がそうなれば、この世界が変わるよ。

●24(土)
御子はその体である教会の頭です。(コロ1・18)
相模原教会は、神の御子キリストの体。そうであるゆえに、頭はキリストご自身だと告げられている。
そうであるのに、それを私たちは本当にわきまえているだろうか。いつも自分の考えに合わない人を、心のどこかで批判してしまう。心に収めきれず、ついに言葉にも出す。その時、自分が頭となっているのに。真の頭なる主よ、あなたの座を取ろうとする罪人を、赦したまえ。

●25(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師

(コロナ禍の状況によっては変更)


●26(月)
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。 (ヨハ2・25)
「やっぱり、イエス様には全部お見通しなんだよねぇ」と思って、急に、何を見られているのか心配になった。
聖書を見たら、イエス様の奇跡を見て信じたという人達の心の中を、主はご存じだとあった。奇跡ばかり求める人間の欲を知っておられたということ。「ボクも彼らと同じ」と思った。してもらいたい要求ばかりを神に祈ってる。「従います」とは口先ばかり。それも主は知っておられる・・・


●27(火)
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。     (マタ6・3)
どんなに善い行いも、他人にも自分自身にさえ気付かせないようにして行えということだ。いや、自分に対してということこそが、鬼門なのだ。私たちはいつも、自分の行いを誰かに褒められたいと思っている。口では謙遜なことを言っていても、心の奥では「私を認めて」と欲している。だから誰にも評価されないと、落ち込んでいる。ああ、主は図星でそれを見ている。そして、そこから救い出す。


●28(水)
兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。(1コリ14・20)
んんっ? 「子供にみたいな判断」ってどんなことを言っているんだろう。聖書を開いたら、教会で、異言を得意顔で話すことだった。ちゃんと隣人に分かる言葉で話せということ。
「ボクは異言を使わないから関係ないな」と考えつつ、ちょっと待てと思った。ボクも「十字架と復活。罪と贖い」とか、キリスト教用語を繰り返すだけなら、友人には念仏のようにしか聞こえないかも。要注意だ。


●29(木)
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(1コリ9・23)
「どんなことでもする」というのは、律法を持たない人には自分も持たない人のようになり、持つ人には自分も同じになること。「お前は優柔不断だ」と批判されるかも。自尊心を捨てているようにも聞こえる。しかしパウロは相手の下に立って、共に福音に与りたかったんだ。自分の評判なんか気にしていない。ああ、これが伝道するキリスト者の姿なんだろうな。私たちは、どこに立っているだろう。


●30(金)
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。     (ロマ12・21)
悪を持って悪に返すな。飢えていたら食べさせるように。善を尽くして接するように、と言われている。
でも自分のことを顧みたら、相手を憎んで、心の中に留めておけずに陰口を言って、もっと悪いことに人にも言い広めている。そうやって相手をおとしめてしまっている。ボクはなんて卑怯な奴なんだ。信仰者の面汚しなのかも。ああだからこそ、今朝のみ言葉を両の手にしっかり握ろう。

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2022年09月25日

2022年9月25日の礼拝

◇主日早天礼拝「不信心な者のために死なれた方」、ローマの信徒への手紙5章6〜11節。辻川篤牧師。讃美歌271b。
◇主日礼拝「目指すところに達せず、飽くことがない」、ハバクク書2章5〜17節。藤森誠伝道師。讃美歌294。

この日の礼拝から、礼拝の形を朝8時からの主日早天礼拝と朝10時30分からの主日礼拝の形に戻します。
詳しくはこちらをご確認ください。
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