2022年07月31日

『日々の聖句』2022年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年7月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(金)
愛に偽りがあってはなりません。  (ロマ12・9)
偽りのない愛って、具体的にどんな愛だろうかと思って聖書を開いて分かった。それは「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」という言葉と並行して記されていたから。目の前にいる幼い子どもも、老いた親も、夫も妻も、友人も、全ての隣人を尊敬すること。自分より優れた者だと認めること。そこに「愛」が始まるのだ。単なる心情的なものじゃない。そこが欠けると、偽りとなる。


●2(土)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。   (ヘブ11・1)
これは、教会学校でも子どもたちが暗唱するほどに大切な聖句だ。
目の前の現実に御業が見えなくても、戴いた御言葉は必ず実現すると生きることが、信仰者の姿だと告げている。
今朝ボクも「私への御言葉は何ですか」と祈ろう。それが今日のボクの出発点だから。その御言葉こそが成就するのだから。あ、御言葉を聞き逃したら、実りも見逃すのかも。


●3(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主   日 辻川篤 牧師



●4(月)
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。」   (ルカ19・9)
罪人だと言われた徴税人ザアカイを訪ねたイエス様。「今日あなたの家に泊まって、私はあなたの仲間になる」と言ってもらえた彼は、喜びに溢れて「自分の生き方を変えます」と言えたのだ。そのザアカイに主は、「あなたは救われたよ」とおっしゃった。
救いって、イエス様の訪問が先にあるんだ。それに応答する時に起こるんだ。ボクの受洗も、ボクの決心よりも前に主の訪問があった。ああ感謝。


●5(火)
いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。   (ヤコ1・6)
「いささかも疑わず」と言われて、ドキッとした。ボクだって、神を信じていないわけじゃない。でも、神に委ね切れない時があって、その時「自分で何とかしなきゃ」と走り出してしまっている。それは自分頼みになっている時。その時、ボクの中に神は不在。自分中心となってしまっている。
振り返れば、四六時中ボクの生活には、不信仰が顔を出す。ヤコブの手紙って、痛い所を突いて来るなぁ。


●6(水)
キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守りなさい   (コロ2・7)
信仰者の歩みについて、キリストに結ばれて歩くこと、「キリストに根を下ろして」生きること、処世術に従わないことなどが告げられる。全て「キリストに従う」という言い換えかも。
では、キリストに従うってどうすることだろう。何となく御足の跡を行くイメージをすることか。否! 聖書の御言葉に従うことだ。まことに具体的な生き方なんだ。御言葉に、一兵卒のように従うことなんだ。


●7(木)
(イエス)「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」   (ヨハ5・17)
この日は、安息日だった。それは律法で「どんな働きもしてはならない」と定められていた日。でもイエス様は、病気の人々を癒される。そのとき律法違反だと怒ったユダヤ人たちに向けておっしゃった言葉がこれだ。
目の前に弱っている人がいる。悩んでいる人がいる。その時イエス様は、お心が動かないではいられないのだ。ボクも、そのイエス様の御跡に従うキリスト者。同じ歩みでありたいな。


●8(金)
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。   (1コリ13・3)
「愛の賛歌」と呼ばれてきた箇所だ。よく結婚式で、新郎新婦に向けて読まれている。二人のこれからの生活において、どう生きるべきかという羅針盤として「どんなに自己犠牲しても、愛がなければ無益だよ」と。
でも結婚式だけに必要な羅針盤の言葉じゃない。生涯必要&万人に必要。だって隣人がいない人生はないのだから。「汝、万事愛を基として生きよ」とボクにこそ言われている。


●9(土)
わたしたちの本国は天にあります。  (フィリ3・20)
「あなたがたは、十字架に敵対する者たちに囲まれている。しかし私に倣う者として生きよ」と勧められる。その根拠が、「本国は天にあるから」という希望なのだ。そこから来られる主の再臨を、待っていなさいと。
ボクはパスポートを持ってこの世を旅する旅人だ。その旅券には「国籍・天の国」と記されているんだ。それも、有効期限は永遠だ。御国の者らしく、この世の旅をしなきゃね。


●10(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主   日 藤森誠 伝道師



●11(月)
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。  (ルカ1・32)
天使ガブリエルがマリアに受胎告知する言葉の中に、これがある。「あなたは身ごもった。それはどんな子になるのか」ということを告げたのだ。
マリアにとって、処女降誕と同じくらい、神の御子を自分の胎に引き受けるという決心は、とんでもなく大きかっただろう。ボクにとっても、神の言葉(御言葉)を引き受けて生きることは、同じくらい大きな決心を要することなのかも。きっとそうだ。


●12(火)
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。(ロマ5・6)
生涯で初めて、心から「神の御子イエス様が、ボクのために死なれた」と受け取った体験(新生体験)をしたのが、この御言葉を礼拝の中で聞いた時だった。忘れもしないあの日。ここから、ボクの人生は大転換したんだ。
「不信心な者のために」という一言が、心に突き刺さったのだ。「これは、ボクのことだ」と心をえぐられた。そして、死なれたイエス様が、ボクの救い主となった。御言葉体験だった。


●13(水)
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。  (ヘブ12・7)
「これ」って何だろう。聖書を見たら、「罪と戦って血を流すまで抵抗する」、「主の鍛錬」、「主から懲らしめられる」等だった。
これらは、単に人生の苦労を負えということじゃない。病気や試練に耐えろということじゃない。自分の罪と戦うこと。自己中心に流される自分と戦うことなんだ。自分を捨てる苦悩と戦うことなんだ。それが、「神の子」とされた者の姿なんだな。


●14(木)
取りなさい。これはわたしの体である。   (マコ14・22)
これは最後の晩餐でイエス様がおっしゃった言葉。パンを裂いて、弟子たちを見詰めならが、「十字架で裂かれる私の体なんだよ」という意味を込めながら、手渡されたのだ。
「取りなさい。これはわたしの体である」と、私もそのイエス様の食卓に連座する時がある。それが、礼拝の聖餐式。二千年前の主の晩餐の出来事が、そのとき再現されている。主が臨在される最も聖なる時間だ!


●15(金)
むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。     (コロ2・8)
「むなしいだまし事」って何? と聖書を開いたら、「人間の言い伝えにすぎない哲学」とあった。大学で哲学専攻だったボクは、カチンと来た。
「哲学」って、本来「愛智」の意味。それは良いものだよ、と思いつつ気付いた。人は、普遍の智に熱中しているようで、結局己の考えに捕らわれる。それは「キリストに従うものではない」と続いていた御言葉を見て納得。カチンと来るなんて百年早かった。


●16(土)
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた。    (2コリ12・9)
パウロは「取り除いて下さい」と願い続けたトゲ(病かも?)があった。その弱さが無ければ、もっと神の御用が出来ると思っていた。その考えは、人間にとっては至極合理的だった。
でも彼は分かったのだ。弱い所は、自分はお手上げの場所。だからこそ神が自由に働ける場所だ、と。自分が出しゃばらないから。「私をそのままにお用い下さい」と祈りつつ進む自分になれるから。信仰の秘儀だ。


●17(日)

礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主   日 辻川篤 牧師



●18(月・祝日)
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。  (ルカ17・15)
病で苦しんでいた十人が、主に「癒して」と懇願する。その願いのままに十人が癒されたのに、主のもとに駆け寄って感謝したのは、一人だった。
なんて自分勝手だろうと腹が立つ。して欲しい事がある時だけ必死にすがって、与えられたのに感謝を忘れる。自分中心な人ばかりだと腹を立てて、アッと思った。この九人が、ボクの姿だと気付いたから。主のもとに戻ったこの一人に、ボクもなりたい。


●19(火)
舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。   (ヤコ3・8)
誰もが「舌」を持っている。しかしその舌によって、誰もが罪を犯す。
ヤコブは言う「どんな小さな火でも大きな森を燃やしてしまう。舌は火です。・・・全身を汚し、自らも地獄の火によって燃やされます。・・・あらゆる種類の獣や鳥は人間によって制御されていますが、舌を制御できる人は一人もいません。・・・同じ口から賛美と呪いが出て来る」。ああ、もう十分だ。恐ろしさで震えて来る。


●20(水)
愛は隣人に悪を行いません。  (ロマ13・10)
どんな掟も、隣人を自分のように愛せという言葉に要約される、と告げられていて、だから愛せと言われているのだ。ここに愛の姿がある、と。
愛するって「人に何かをしてあげること」と思って来た。でも「あれ、ちょっと違うぞ」と気付く。愛するとは、悪を行わないこと。でもボクの中には、口にも態度にも出る悪がある。つまり、愛が少ないどころか、愛の無い者なんだ。悔い改めこそ出発点かも。


●21(木)
なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。    (マコ14・6)
貧しい女が、全財産とも言える高価な香油をイエス様に注ぎ尽くした。それを見た人々が「香油の代金で、施しという律法の義務を果たせば良いのに。そんな常識さえ無いなんて」と憤慨したのだ。その時イエス様が言われたのが、この言葉だった。
いつも常識で人を裁く人間。まるで私の姿。いつも愛で人を包むイエス様。主よ、私の歩みもどうかいつも修正して下さい。あなたのお心の中へ。


●22(金)
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。  (マタ5・22)
この「兄弟」とはもちろん血縁の兄弟じゃない。全ての隣人のことだ。誰に対しても一言「ばか」と言うなら、そうやって口で傷つけたなら、地獄行きだと、イエス様がおっしゃったのだ。腹を立てるだけで裁かれるとも。
今ここで震え上がった人は、裁きから逃れる道に立てるのかも。
続けて主は「仲直りしなさい」と厳命される。隣人関係がつまずくことを、御子が一番憂いておられる!


●23(土)
そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。   (1コリ9・16)
何をせずにはいられないのかな? と思って聖書を開いたら、やっぱり「福音を告げ知らせる」ことだった。この箇所には、「福音を告げ知らせる」という一句が、何度も繰り返されている。ただその一点で話を展開させたいというように。それ以外には関心が無いというように。
このパウロの思いを、全てのキリスト者が持ったら、世界が変わるかも。神の国が来るのが、早まるかもね。


●24(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主   日 藤森誠 伝道師



●25(月)
金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。  (ヘブ13・5)
神様に喜ばれる生活はどのようなものか・・・、その文脈の中でこの言葉が言われる。
つまり、この御言葉を生きたら、ボクも神様に喜ばれる者となっているということだ。ああ、御言葉が示してくれる「生き方の羅針盤」は、なんて具体的なんだろう。今日から、お金についても「吾唯足知」と生きていきたい。そこに、神様が喜んでおられる御顔も、あるのだから。


●26(火)
あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。 (2テモ1・14)
「ゆだねられている良いもの」というのは、恵みや信仰や愛のこと。それらをしっかり守るんだよ、と言われている。「頑張って信仰生活をしなきゃ」と思って、アレッと気付いた。
「わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」と言われていたからだ。自分で頑張ろうとして走り出すんじゃない。自分の思いに頼るのではなく、聖霊に操縦してもらえということだ。まず祈らなきゃ、ね。


●27(水)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。    (ヨハ3・16)
これは、教会学校の生徒たちも暗唱するほど、聖書の中心メッセージだ。そして、世界中の人々に愛された御言葉でもある。
私も信仰生活の年月を重ねて、いよいよイエス様の言葉の深さが分かって来たように思う。私が愛されたことと、御子が死なれたこととは、直結しているんだ、と。神の愛は、目に見えるご自分の受難の出来事となったんだ、と。ここに愛の秘儀がある。


●28(木)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。    (フィリ4・4)
これは、多くのキリスト者たちの愛唱聖句だろう。何度聞いても、心がほっこり温かくなる御言葉だ。
そうだ! この御言葉通りのボクになろう。そのために、繰り返しこれを口の中で唱えよう。「主においてだ。主において常に喜びなさい。さあ、今日もそう生きよう」とね。そうやって御言葉が、心の奥に染み込むまで。いつも眉間にしわを寄せて生きているボクが、変わるまで。


●29(金)
わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。    (コロ4・4)
しかるべく語り伝えて、人々に明らかになるようにしたいと願っている「この計画」って何だろう。
聖書を開いたら、「キリストの秘められた計画」ということだった。また疑問がわく、その「秘められた」って何なの、と。きっとそれは、行いがなくても、キリストを信じるなら救われるということだ。これが、行い主義のユダヤ人にとって、「あり得ない」と思ったことだから。救いは、秘儀だ。


●30(土)
わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。    (エフェ4・7)
私たちには、もれなく賜物が与えられている。「私には何もないよ」という人は、一人もいないんだ。だから、何が賜物かを探すことが大事だし、楽しみなのかも知れない。
そして、私への賜物を決めるのは、私自身じゃなくて「キリスト」だ。それを勘違いして、「アレが欲しい、これが賜物だったら」と考えるから、探し出せないのかもね。さて、ボクにはどんな賜物が預けられているのかな。


●31(日)

礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主   日 西田恵一郎牧師




posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:29| 『日々の聖句』

2022年7月31日の礼拝

礼拝説教「望みなき日々にも」、ローマの信徒への手紙4章18〜25節。辻川篤牧師。讃美歌507。
※この日も、第7波対応として組会単位での礼拝を行います。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ

2022年07月24日

2022年7月24日の礼拝

この日は、伝道74周年を記念して創立記念日礼拝がささげられます。
主早天礼拝・主日礼拝説教「囲いに入っていない羊」、ヨハネによる福音書10章11〜16節。藤森誠伝道師、讃美歌225。
※この日から、第7波対応として組会単位での礼拝を行います。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ