2022年06月30日

『日々の聖句』2022年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2022年6月

【新約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。 (ヤコ4・7)
サタンの誘惑はイヤだから、そういうものは現実には無いって無視しようとか、考えることからも逃げようと思っていたけど、それじゃダメなんだ。誘惑には、しっかり「反抗」しなきゃならないんだ。
でも話しはそれで終わらない。何よりも「神に服従」することが先決なんだ。「ボクは、神の陣営に立つ者」と旗幟鮮明にすることが第一。主に従うことこそ、私を守る道なり。


●2(木)
我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。 (ルカ1・69)
洗礼者ヨハネの父ザカリアが預言した。それは、父祖から連綿と続いていた希望。だから旧約の王の名・ダビデが出ているんだ。なんて長い間待っていたんだろう。遥か昔から「救い主到来」という約束を待っていたのだ。
つまり、神様からの約束ならば、一千年かかろうとも必ず成就する。だったら、これから私の祈りは「アレコレが欲しい」じゃなく、「私への約束は何ですか?」となるよね。

●3(金)
すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる。 (ロマ10・12)
「すべての人に」というのは、「ユダヤ人とギリシア人との区別はなく」ということ。それは、「こんな人には神様が関わるはずがない」と思われていた異邦人にもということ。つまり私たちが、「あの人には神様のことを話しても、聞いてくれないさ」と思い込んでいる隣人のことなんだ。
本気で、福音を伝えなきゃ。神が恵みを授与される準備は整っているのだから。本気で家族に伝えなきゃ。


●4(土)
“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟る。(コロ1・9)
聖霊によって与えられる知恵によって、理解できるようになる事がある。それは、御言葉の理解なのかも。その知恵によって読み解くのは、「神の御心だ」と告げられているから。つまり聖書を読む前にしなきゃならないのは、「御霊を注いで下さい」と祈ること。逆に、祈らないでは御言葉は聞き取れない。聖書と共にある生活は、祈りと共にある生活、聖霊と共にある生活、この三つ巴なんだ。


●5(日)
ペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝

早天祈祷会   奨 励  山アうたう姉

主日礼拝   説 教  藤森誠 伝道師

●6(月)
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。  (ガラ2・19)
キリストと共に生きるというのは、キリストと共に十字架に架けられるということ。十字架に架けられるとは、父なる神の御計画を従順に担うこと。それも、死に至るまでだ。
イエス様が「自分の十字架を負って私に従いなさい」と言われた意味が分かった気がした。「辛いと思う試練も負いなさい」ということじゃない。自分への神の御計画を、従順に負うということ。イエス様のように、だ。


●7(火)
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどです。     (1ヨハ3・1)
子でもないし、相応しくもないのに、私を抱き締めて「我が子にならないか? 我が家に来るかい?」と言って下さった。その恵みの大きさも分からずにモジモジしているだけの私を、養子に迎えて下さった。それが、天地を創造された神様なんだ。
神が、ボクの御父となって下さった。だから大胆に呼び掛けることが出来るんだ。今晩そっと呼んでみよう、晩祷の中で、「天のお父さん」と。


●8(水)
すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。(ヘブ12・14)
これは単なる平和主義への勧めじゃない。この直後に、「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできない」と言われているからだ。生きるべき姿は、生活の中で具体的な姿になるのだ。
これは精神論じゃなくて、現実生活での話だ。だから「すべての人との平和」ということも何となく聞いていちゃダメ。「気の合う人とだけ」に流されるから。ボクの心は弱いから。


●9(木)
わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。     (ヤコ3・9)
ああこれは正に私のこと。図星だ。主を賛美するこの舌が、隣人を傷つけてしまう。目だって、十字架を仰ぎながら、その私の視線が人を傷つけてしまう。そんな姿を気付かせてくれるのは、ただ御言葉によってです。また、聖霊のお陰なのですね。
今朝、改めて気付かせてもらえたことがある。「悔い改め」という時、私こそ「生涯が悔い改め」ということ。舌で失敗だらけの人生だから。


●10(金)
主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。  (ヤコ4・10)
今まで、上へ上へ昇ろうと必死だった。そのためには人と競って、自分をのし上がらせないといけないと思っていた。自分を高める為には当然だと。そこで人を傷つけて来たのに・・・。
今日、意外な真理を聞く。主の前に、低く低く降れと。そうしたら、真の高みに連れて行ってもらえるからと。人を傷つけずに、最上に連れて行ってもらえるんだ。神が導く高みってどんな所かなぁ。見てみたいな。


●11(土)
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」  (使16・30)
パウロとシラスが投獄された日の夜。大地震が起こって牢は崩れ、囚人は皆脱走。その責任で自害しようとした看守。しかし獄中に平然と残っていたパウロに接して、驚きつつ言った言葉がこれだ。
この世の常識で考えたら、行き詰まりとしか思えない時がある。しかしそこに別の道がある。ただ「どうすべきか」を知ればよい。キリスト者はそれを知っている。だから伝えなきゃ。


●12(日)
礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主   日  辻川篤 牧師



●13(月)
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。 (使1・14)
復活後のイエス様が、天に帰られた(昇天)。迫害者だらけの地上に取り残されて不安になる弟子たち。でも彼らは、祈っていたのだ。それは、召天前にイエス様が「エルサレムを離れず・・・待っていなさい」と言われた言葉を握って、守っていたからだ。
そこに平安と、留まる勇気も出て来た。御言葉を握って従う場所が、主との対話(それが祈りだ)の場となるからだ。祈りの場こそ、安寧の場。


●14(火)
御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。  (1ヨハ3・3)
ヨハネが「御父に愛されている神の子たちだよ」と語り掛ける。そして、「だから御子イエスのようになるんだ。なれるから」と勧めるのだ。
これは、掟や律法のような言葉じゃない。胸に「主の家の者」という紋が縫い付けられている上着を着ているから、誇りをもって、相応しく生きるようにとの勧めだ。
特別な上着を着て胸を張ろう。清く生きよう、まさに我も神の子なり。


●15(水)
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。  (マタ11・28)
これは、多くの人の心を慰めて来た主の言葉。ボクも何度癒されて来たことか。言葉が主の臨在そのもの。
真に御言葉を聞く時に、傍にイエス様が居て、語り掛けて下さるように感じる。「わたしのもとに」と聞く時、もうそこに主が立って、腕を広げていて下さるように思える。そうだ! たくさん御言葉を心に蓄えたら、いつも主が一緒だと感じられる。今日はなんだか良いことに気付けたゾ。


●16(木)
キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられている。 (ロマ5・2)
神様と共に生きられる恵みを戴けているのは、「キリストのお陰で」だよと告げられる。
人と人とだって、「お陰さまで」と言う相手に対しては、感謝とお礼をするものだ。それなのにイエス様にちゃんと感謝とお礼をしているだろうか。恵みを戴きながら「当たり前顔」している自分がいる。朝から夜まで、あらゆる恵みを数えては「キリストのお陰」と、噛みしめる一日にしたい。


●17(金)
芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。 (マコ4・8)
イエス様がなさった、「御言葉を聞いて受け入れた人の実りは、大きい」というたとえ話だ。人生の真の喜びが、百倍もの実りになるんだ。
人は皆、それを求めてアクセクしているのかも。聖書が真の羅針盤なのに。それも分かり易い言葉による指南書。手にした者勝ちなのに。
しかしキリスト者でも、手にしているのに受け入れないなら、実りは一向に手に出来ないんだよなぁ。


●18(土)
わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。   (ヨハ6・35)
五つのパンで五千人が満腹した群衆が、イエス様に問うた。父祖たちが天からマナを与えられたように、私たちにも命をつなぐパンを下さいと。そのとき主が言われたのがこの言葉だ。「もうここにあるじゃないか、私が天から与えられたもの。私によってあなた方は命を得られるのだ」と。でも誰も理解できない。ボクはどうか? 主の福音を、命の言葉として貪り食おうとしているだろうか。


●19(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  藤森誠 伝道師


●20(月)
なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。     (1コリ6・7)
えっ、理不尽と思えることに甘んじろと言うの? そんな非常識なことを、なぜ言うのだろう。
パウロは、教会に争い事があること自体を嘆いていた。それも教会内の事を、この世の裁判に持ち込むことを批判していた。そうやって教会が苦しみの場となることを悲しんでいるのだ。そうならないために「むしろ」と言われていたのだ。「むしろ」と生きる人こそ、義の冠を得る人かも。

●21(火)
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。 (マタ5・37)
人々は、軽々に「神にかけて誓う」と口にしていた。でもイエス様は「神を自分の正当性のために引き合いに出すな」とおっしゃる。むしろ「神様が『せよ』と言われれば『確かに然り。行います』と言い、神様が『それは否、ダメだ』と言われれば『否です。しません』と生きよ」と言われた。
ボクも、主従逆転することがある。「主よ、あなたの然りが私の然り、否がボクの否」と今日を生きてみたい。


●22(水)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。(1コリ10・24)
すぐに、イエス様が言われた「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という御言葉を思い出した。パウロも、そこを生き、そしてそれを内部分裂していたコリントの教会の信徒たちにも求めたのだ。
聖書で同じことが言われ続けている。それは一向に身につかないということかも。それはボク自身においてもかも。今朝み言葉は、いい加減本気になれと、迫っているように聞こえる。


●23(木)
神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。  (1ヨハ4・21)
「もちろん神を愛すべきだ、神を畏れ敬うべきだ」ということは、分かっていた。そうありたいと生きて来た。でも、今日改めて気付くのは、それと同じように「兄弟(隣人)をも愛すべきだ」と言われていたんだということ。それは同じ重さなんだ。
隣人愛は、単なる博愛精神の程度の話じゃない。道徳倫理の話じゃない。これは「掟」なのだ。神の命令なのだ。身の引き締まる思いがした。


●24(金)
人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。 (使9・35)
エッ! 隣人を主に立ち帰らせたアイネアって、どんな立派な人だったの? そう思って聖書を開いたら、ペトロが中風の女(アイネア)を癒した出来事が記されていただけだ。つまり、彼女の立派さじゃなかった。
だとしたら、教会でイエス様を知って、慰められて、平安に生き始めた全ての信仰者も、隣人を主に立ち帰らせられることが出来るのかも。そうだ、きっとそうだ。私達の出番だ。


●25(土)
人々はイエスをあざ笑った。    (マコ5・40)
会堂長ヤイロの娘が亡くなった。大声で人々が泣いている所に、イエス様が生き返らせようとして「死んだのではない。眠っているだけだ」とおっしゃった時、人々はあざ笑ったのだ。
「イエス様のお気持ちも、お言葉も信じられないなんてなんて、愚かな人々」と思って、ハッとした。ボクだって、御言葉を「現実には無理」って思うことはないか。それは心の中であざ笑っていることと同じなのに。


●26(日)
礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主   日  辻川篤 牧師



●27(月)
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではない。  (ヘブ4・15)
「大祭司」は、神と人との間に立つ仲介者。神の御心を人に伝え、人々の代わりに神への罪の償いをするのだ。この大祭司が、イエス様だ。
それも大祭司イエス様は、厳しい仲介者じゃない。キリスト者として正しく生きたいのに過ちと罪を犯してしまう。そんな弱くて貧しいボクに寄り添って、心を寄せて下さる仲介者なんだ。このお方のお陰で、ボクも神の前に立てる。神の子としてね。


●28(火)
わたしはこの福音を人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。   (ガラ1・12)
パウロは、伝えている福音は人から教わって語っているものではないと告げる。「キリストの啓示によって知らされたのです」と。つまり直接、主から与えられたものだということ。つまり彼は、「証言者」だということだ。
クリスチャンは皆、彼と同じなのだ。「○○さんを通して」とかはあるけれど、彼らを「管」として用いたのは主御自身。そして私達も証言者となる。隣にいる家族や友人のために。


●29(水)
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(ロマ6・14)
洗礼の恵みがどれほど大きいかを高らかに宣言された後に、もう罪に支配されていないのだからキリストに結ばれた者として「恵みの下に」生きよ、と告げられているのだ。
改めて、洗礼を受けた者の生きざまって何だろうかと思う。そうだ、問うことを止めまい。現実の生活の中で「恵みの下」に生きる姿を、問い続けねば。ボクが、名前だけの枯れたキリスト者とならないために。


●30(木)
あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。 (ヨハ3・30)
洗礼者ヨハネのもとに群衆が集まって来ていた。その彼が、「あの方(イエス様)」のことを指して言った言葉がこれだ。主が栄えることを願うのは分かる。でも同時に「自分は衰えねばならない」というのは何故だろう。
御足の跡に従うというのは、自分が退くこと、それは衰えるということかも。もしかしたら、人は頑張って前進するよりも、上手に退き衰えることの方が難しいかも。然り、だね。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:06| 『日々の聖句』

2022年06月26日

2022年6月26日の礼拝

主日早天礼拝・主日礼拝説教「慈しみ深い不公平」、マタイによる福音書20章1〜16節、辻川篤牧師、讃美歌、234A、312。
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2022年06月19日

2022年6月19日の礼拝

◇主日早天礼拝説教「生まれる前から守られてきた」、ローマの信徒への手紙4章9〜12節、辻川篤牧師、讃美歌333。
◇主日礼拝説教「罪が消し去られる」、使徒言行録3章17〜21節、藤森誠伝道師、讃美歌498、86。
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