2021年02月28日

『日々の聖句』2021年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年2月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が、わたしの味方をしてくれましょう。   (ヨブ17・3)

 全てを失って、自分も重い皮膚病で身もだえるヨブに、友人たちが議論を仕掛ける。それは「ヨブの自業自得だ」と責め立てる言葉。そのとき主を仰いで言った言葉がこれだ。
彼の味方は地上にいない。そう思える日に、一人だけおられることに目を向けることが「信仰」かも。その一人を知ることが「恵み」なのかも。そこで神の救いに出合えるのだから。
それにしても、ボクならきっと「もうちょっと早い目に助けて欲しいな」って思うけどな。


●2(火)
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。 (エレ29・13、14)

 この御言葉は、主が「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている・・・それは平和の計画・・・将来と希望を与えるもの」と言われた直後にある。さらに、「わたしを呼び、祈り求めるなら聞く」と言われている言葉と一緒にある。
 主よ、あなたこそが私を呼び求めていて下さる。「お前に出会いたい、顔を向けておくれ」と言われる。私はなんて幸せ者! 神様に特別に愛されているんだって、感じられたから。


●3(水)
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」     (創3・12)

 アダムが、神が禁止した園の実を食べた。それを神様から指摘されたとき、彼は真っ先に言い訳をしたのだ。それも、まるで神様が悪いかのように言ったのだ。
 罪は、隣人を切り捨て、神に背を向けさせる。その先は、苦しみの奈落の底なのに。
 どうして、「主よ、ごめんなさい」と真っ先に言えなかったのだろう・・・。いや、そんな風に他人事として見てはいられない。ボクも、その一言を忘れる一人だから。罪人だから。


●4(木)
(主よ)あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。   (イザ25・1)

 預言者イザヤは、民を虐げる新バビロン帝国が陥落することを告げる。しかもまだ陥落前に、その日を主によって知らされ、信じて、主を賛美している言葉がこれだ。今は苦難のど真ん中に立っているのに、だ。
 新約のヘブル書の御言葉が、ふと浮かんだ「信仰とは・・・見えない事実を確認することです」と。信仰の目は、今既にここにあるようにして、神の御業を見られるんだ。たとえ試練のただ中でも、そこに平安があるのですね。


●5(金)
主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはいけない。敵に打ち破られてはならない。        (民14・42)

 独断で敵に闘いを挑もうとする人々。しかしモーセは「主の命令は、行くなと言っている。その御心に背くな。自分勝手に進もうとするな。御心でない所は、主が共に居られない場所だから。そこでは敗走が待っているだけだから」と告げたのだ。
 人間って、どうして「行くな」と言われているのに進み、「行け」と言われているのにたじろぐのだろう。それも特に神の言葉に逆らってしまう・・・。旧約聖書には正に、私の姿がある。


●6(土)
わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。   (詩121・2)

 この詩人は山々を見上げて「わたしの助けはどこから来るのか」と不安げにつぶやく。しかしその直後なのだ。この言葉を、まるで確信に満ちて告げたのだ。それは「必ず来る」という確信と「天地創造の神の御手による助けが」という信頼に満ちている。
 彼の目は、自分の不安を見ることから、主を見上げることへと転回させられたんだ。既にそこに、主の働きが届いている。その恵みの中で顔を上げられたのだから。そこに、祈りのようなこの詩が始まっていくんだなぁ。


●7(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。  (王上11・9、10)

 ソロモン王は、主だけを礼拝していたはずなのに、どうして背信したのか。この箇所の直前に、七百人の王妃と三百人の側室が持ち込んだ「他の神々」も礼拝し出したとあった。正にそこだ。主を拝んでいるけど、コッチの神も拝む。そんな二股信仰こそ、神への背きなのだ。
 主日には主を拝むけど、平日は自分流の遣り方を奉っている。そんなボクの姿が重なって見える気がした。他の神々は、ボクの生活にもソロリと入り込んで来る。くわばら!


●9(火)
災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるが、わたしによるのではない。   (イザ30・1)

 私も、何かにつけて計画を立てて歩み出す。計画無しに進むことこそ、無謀なことで、失敗が待っていると思うからだ。でも今朝、主はたった一つの注意を促される。それは「あなたの計画は、主である私の御心を問うた後に立てたのか?」と。
 祈ってから、始めなきゃ。計画を立てた後から「この計画をお守りください」って祈っていては、本末転倒なんだ。あれ、ボクはいつもそうやってしまっていたかも。軌道修正しなきゃ。


●10(水)
わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか   (ヨシュ5・14)

 イスラエルの民を率いて進むヨシュア。その彼の行く手に、主の使いが現れた。それを悟ったヨシュアは、すぐに地にひれ伏して、拝して、言った言葉がこれだ。
 私は、「ボクは主のしもべ、いつでもお従いします」と言っておきながら、私の方が神様に「アレをしてください、コレも叶えてくれ」と言いつけている。ヒヤリとした。完全に立場が逆だと気付いたから。そして思った「主よ、私にお言いつけくださいと、ボクも言える信仰者になりたい」と。それが私の立ち位置だから。


●11(木・祝日)
わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。   (申30・11)

 神様がイスラエルの民に、幸いに生きるための秘訣を語り聞かせる。その語りは、戒めという文字となった御言葉なのだ。それも、実行するのに難し過ぎることが語られているのじゃない。私たちの歩幅に合わせて、「あなたを守る神のことを思って生きるんだよ。隣人と仲良く生きるんだよ」ということだから。
いつもボクの傍にいようとして下さるのは神様の方なんだ。愛する子に寄り添われる天の父なんだ。反抗期は、もう卒業しなきゃ。


●12(金)
わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。    (レビ23・10)

「土地に入って穀物を収穫したならば」と、サラリと当然収穫を得るように言われている。私たちも一生懸命に働いたら収益は当然ついて来るものだと思っている。でもそれは勘違い。だって、収穫そのものは、本来神様からの贈り物なのだから。それを忘れてしまう。すべてが戴き物だってことを。
だから私にとって「当然」と言えることは、「収穫の贈り物を感謝する」ということ。それが、初穂を献げる事、つまり献金なのですね。


●13(土)
そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。    (代下20・17)

 ユダ王国は、いつも隣国から戦いを挑まれて、人々は悩みの中にあった。その時ヨシャファト王は、神殿で主の言葉に耳を傾け続けたのだ。その彼に臨んだ言葉がコレだ。それは「行け、戦え、勝利を与えるから」ということを遥かに越えた言葉だった。神様ご自身が、人間のために代わって戦うと言うのだから。
 これが、どこまでも我が子(人々)を愛する天の真の父の言葉なんだ。そしてその大きな御腕の中に、今日ボクも包まれている。

●14(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。    (出15・24)

 人々は、葦の海の奇跡によってエジプト軍から命からがら逃れられた。その恵みを味わったのに、たった三日進んだだけで不平を言ったのだ。「感謝!」と言った舌の根の乾かぬ内に、心の底にあったものが飛び出したから。それは、思い通りでないと我慢できなくなる不満、自己中心、神を神とも思わぬ心・・・。
 「感謝」って何なのだろうと思う。単に「有難いと言うこと」だけなのか。いや、「心を神様に据える人に変われる好機」かも。それなのにその幸いを捨てるのは、自分なのかも。


●16(火)
助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。   (詩22・6)

 この詩人は苦難の中で悶えている。そこで主に祈っても、聞いてくださらないようにしか思えなくて・・・。しかしそこで突然のように言ったのだ、それが今朝の御言葉だった。
 私も詩人のように振り返ろう。そして人生のあらゆるところで神様が支えていて下さったことを思い起そう。たとえ苦難のただ中では分からなくても、御手は確かに私の下を支えていて下さったことを。それを思い起こせたら、一歩進めるから。この詩人のように。


●17(水)
私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。   (創13・8)

 アブラハムが移った土地でトラブルが起こった。そこは、甥のロト一族と一緒に羊と牛を飼うには狭すぎたからだ。その時、立場上上位のアブラハムの方が身を引いたのだ。ここは相手に身を引かせるのが常識だと思うのに。でも彼はそうやって、争いを避けたのだ。
 私なら自分の正当性を主張したくて、身を引いたりしたくなくて、そこで争ってしまうのに。争った後で、いつも後悔するのに。その苦い水を飲まないですむ方法は一つ。アブラハムの生き方なんだ。彼って、やっぱりスゴイな。


●18(木)
ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」   (創32・27)

 ヤコブに神の使いが現れ、格闘が始まった。それが夜明けまで続いた時、その人は「去らせてくれ」と言うのに、必死に食らいついて離れないヤコブ。相手が神の使いと分かっていたのだろうか・・・そこで彼が言った言葉がこれだ。
 なぜヤコブはしがみ付いて離れなかったのかな? 今朝の一言で分かるかも。それは単に負けん気が強かったからじゃなく、祝福されたかったから。ボクは祝福を賜ることを、抽象的にしか考えていないかも。ボクの信仰で足りないのは、祝福への執着だ。この必死さだ。


●19(金)
命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。  (創45・5)

 ヤコブの十二人の子供の中で、兄たちに妬まれたヨセフ。殺されかけたけどエジプトに奴隷となって引かれて行く。そこでファラオに次ぐ地位となったのだ。飢饉に瀕した兄たちと再会したヨセフが、恨み言も一切無く言った言葉がこれだ。
 ボクならきっと理不尽な兄達を責めただろう。でも彼は、全てのことを神の御心の内だったと告げたのだ。それは彼が神と共に生きたから。危機の時もただ神を頼った人の「染みついた信仰」なんだ。


●20(土)
わたしたちのお仕えする神は、その燃え上がる炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。    (ダニ 3・17)

 バビロン捕囚となった人々の内、ダニエルら三人が王に仕えさせられる。でも側近の妬みによって策略にかかり、燃え盛る炉の中に放り込まれる刑を受けたのだ。投げ込まれる直前に彼らは、「神は必ず救う」と言った。
 私の大好きな箇所。痛快な出来事が書かれているから。でも、信仰の書なんだから、「私はどう生きているのか」を映す鏡として読まなきゃ。“炉”はボクの目の前にもあるのだから。


●21(日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
わたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。   (士6・10)

 主の民が略奪されて苦しみに喘いだ。そこに預言者が遣わされて、「わたし(神)は告げておいた。だが」と告げたのだ。何を聞き従わなかったのかなと聖書を見たら、「アモリ人の神を畏れ敬うな」ということだった。
 アッと思った。神様を拝んでいないのではない。彼らは、「あれもこれも」と拝んだのだ。それが神の厭うことだったのに。主以外を拝む誘惑は、日本に住む私の身近にもある。いや自分の経験を神として最優先にしているボクの姿がある。元凶は我が内に潜んでいるのだ。


●23(火・祝日)
主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。    (申2・7)

 モーセが荒野の四十年の旅路を振り返りつつ、大事なことを思い出すのだ。それは「主が共に居て下さった」ことと「そのゆえに不足することは一つもなかった」ということだ。水も食もない荒野で、民は満たされていたのだ。
 私の人生の中でも「ああ、荒野を行く日々のようだ」と思える時があって、きっとまたこれからも「私の荒野」はあるだろう。でもそこで私も思い起そう「ここも主が共におられる場所だ」と。そうしたら、ホッとできて、一歩を踏み出せるから。主と共に歩む一歩を。


●24(水)
わたしには重すぎます。   (民11・14)

 荒野を旅する民が、四六時中モーセに激しい不満を言い続ける。「エジプトにいた時は、アレもコレも食べられたのに。お前が我々を連れ出したのは、荒野で死なせるためか」と。酷過ぎる不平を聞き続けた彼が、ついに「この民を負うのは重すぎます」と言ったのだ。
 御心に従って歩いたら、そこには自分にとってバラ色の人生が拓かれるというのじゃない。そこに約束されているのは、神の計画が成就するということ。そしてその成就こそ、最善の結果なんだ。「でも、弱音って出るんだよな」って思う。それでも、御旨は進むんだけど。


●25(木)
災いの日に、あなたこそわが避け所です。 (エレ17・17)

 エレミヤは、迫害する者がやってくる日のことを予感している。神様からの「あなたたちの罪のゆえに国は亡びる」との言葉を告げる故、反感を一身に買うからだ。彼は、その暗雲をもう見ている。でもそこで、悩み恐れを覚えても、そこに捕らわれてしまわない。それは、主なる神から目を離さないから。それが「あなたこそわが避け所」という信頼となったんだ。
 暗雲は、誰にでも来る。でもそこにだけ目を向けるな! 私たちを捉えているのは、主の守りの御手であることをこそ見つめていよう。安寧がそこにあるから。


●26(金)
恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。   (創21・17)

 アブラハムと女奴隷ハガルとの間に、イシュマエルが生まれた。疎ましく思った妻サラが、親子を追い出す。荒野で途方に暮れたハガルに、主の使いが言葉をかけたのが、この御言葉だ。
 アブラハム→イサクとつながっていく神の計画の系図の外にあるイシュマエル。でもその人にも心を留められた神様。それは、アブラハムに関わる人だったからかも。だったら、もしかしたらキリスト者に関わる人の全てに、神の憐れみが届くのかも。あ、ボクは送り込まれているってことかも。友人に神の恵みが届くため。


●27(土)
お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる。  (イザ1・19)

 南ユダ王国に、神の言葉が臨んだ。悪い行いを取り除いて神に従うなら恵みがある、でも頑なに背くなら滅びがある、と。
 二つの道の岐路で、神様は人間に選択権をゆだねてくださるんだ。人間は、神様のロボットのように操縦されるんじゃない。むしろ自分の意志によって行く道を選び取れるんだ。
「ああ、だからこそ祈らなきゃいけない」と思った。「主よ、私を導いてください。私の悪い心が、誤った選択を選ばないように」と。祈ることが、自分を救うのですね。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


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2021年2月28日の礼拝

礼拝説教「慈愛を軽んじているとも知らず」、ローマの信徒への手紙2章1〜5節、辻川篤牧師。交読詩編130編1〜8節、讃美歌136、517。
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