2021年01月31日

『日々の聖句』2021年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年1月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(金)2021年元日

元旦礼拝説教

        辻川篤牧師




●2(土)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。   (エレ26・2)

 新しい一年が始まった。今年は旧約聖書の御言葉を通して一日一日を整えられ、導かれたいと願っている。その冒頭の日に、神がエレミヤに「私の言葉をひと言も減らさず民に伝えよ」と語った言葉が届いた。
人に受け取ってもらいやすいように、自分で薄めちゃいけないんだ。厳しい神の言葉でも、そのまま伝えたら、その人が立ち帰るかもしれないから。人間の業ではなく、神の業が起こるから。神様からの赦しと、祝福が届けられるから。今年も神の言葉は出来事を起こす!


●3(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。   (民14・43)

 奴隷の地エジプトから脱出できたのに、その喜びが冷えないうちに、泣き言と文句ばかりの人々。どこまで行っても、神との関係は実らず、自分中心の注文だけ。そしてモーセにも背を向けて勝手な行動をしようとした。その行動に、今朝の言葉が告げられたのだ。
 自分への恵みとか奇跡だけを要求する人間の姿。そこでは、神との関係が置いてきぼりになってしまう。つまりその場に、神が居られない。人間の側が、その状況を作り出す。ああ、その道には入り込みたくない。


●5(火)
主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。   (申8・7)

 荒野の四十年の苦しみを経た民に、主がモーセを通して伝えたのがこの言葉だ。試練の日々を通らせたのは、良い土地に導き入れるためだったのだよ、と。それは、そこで満ち足りた時に「この幸いに導かれたのは、苦難の日々を含めて、全て主のお陰だった」と心から感謝するためだったのだよ、と。
 私の試練も御手の内にある。それを知ることは、後に恵みの日が来た時、「全て神様のお陰」と、心から喜べるため。憶えよ我が心よ「主に導かれて私はいる。どんな時も」と。


●6(水)公現日
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。   (創15・13)

 アブラム(後にアブラハム)を深い眠りに落とした神は、彼から何代もあとに起こる出エジプトの出来事を予告された。それは彼が生きている間にさえ起こらない遠い遠い未来にある苦難と、祝福の約束だ。
 神様の計画って、どこまでも先を見据えておられる。「未来も主の手の中」と思ったら、今日を委ねる勇気が満ち溢れて来た。


●7(木)
かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。     (箴3・12)

 「懲らしめ」と聞いて、「なんだか嫌だなぁ」と思ったけど、よく読んだら「かわいい息子」って言ってくれている。「目の中に入れても痛くない息子よ」と呼んでもらえている。その父が、懲らしめの向こうにある「恵み」を、見ておられないはずがない。
 父なる神は、自分勝手ばかりするボクなのに「かわいい息子、愛する子よ」と言って、その向こうの「恵み」に連れて行ってくれようとしてくださるんだ。「懲らしめ」という道を一緒に辿ってくださりながら、ね。


●8(金)
一体、どこの国が、神々を取り替えたことがあろうか、しかも、神でないものと。   (エレ2・11)

 「何のこと?」と思って聖書を開いたら、主がエレミヤに「エルサレムに行って人々に語れ」と預かった言葉だった。それは二重の罪の宣告で、「お前たちは真の神である私を捨てた罪がある。同時に神でないものを拝んだ罪がある」と。神様が、「何故そんなことをするのか」と激しくいら立っておられる。
 私も神様に背を向けて自己中心でいる時、二重に神様を嘆かせているんだ。一つではない。私のせいで、神様が泣いておられる・・・。


●9(土)
まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。(イザ30・18)

 バビロンの脅威に怯える民に、イザヤが「主に信頼することに力がある」と訴えかける。「そうすれば救いの恵みがあるから。それを与えようとして、主ご自身が待っておられるのだから」と。その文脈の中に、この御言葉もあった。
 真に、主を待ち望む人に恵みが届く。でも、その「静かに待ち望むこと」こそが、本当は難しいのかもと思う。彼らもボクも、自分を頼ってしまうから。でも今日、ジッと恵みを思おう。いやそれを与えて下さるお方を見詰めて過ごしたい。今日だけでも、今日こそは。


●10(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●11(月・成人の日)
神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣と全ての家畜を御心に留めた。   (創8・1)

 大地を覆う洪水の中、狭い箱舟に全ての生き物が乗っていた。舟の外には死があった。しかし、大きな生き物も小さな物も、神様が心に掛けて下さっていたから平和を留めていたのだ。全てが神の創られた命だったから。
私たちも、神に創られた生命。本来神の御心の中に留まれるはずなのに・・・。その外に迷い出したら、死の世界なのに・・・。迷い出して、舟の外に落ちるのは私の背きのゆえ。今日、神様の舟の中に留まろう。全ての生き物と、全ての隣人との間に、平和があるその場所に。


●12(火)
わたしの王、わたしの神よ。助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。    (詩5・3)

 叫びたい現実を抱えている詩人。辛い事があるのだろう。その胸の内を全部さらけ出して、主なる神にぶつけているんだ。それが、祈りとなったのだ。
 胸の内を聞いてくれる方を得ている詩人。その一人を得たら、人は決して孤独にならない。どんなに苦難の中にあっても、八方塞にならないから。ボクも「あなたに向かって祈ります」と言える「あなた」を見詰めよう。「あなたに」と言えたら、もうそこでホッとできるから。


●13(水)
神に従う人はその道を守り、手の清い人は更に勇気をもて。   (ヨブ17・9)

 義しい人が試練を受けて財産も健康も失った。そんなヨブを友人たちが「自業自得だ」と責め立てる。それに対してヨブが、なお神に目を上げて「どうかあなたが私の味方になって下さい」と祈りつつ、まるで自分を鼓舞させるように今朝の言葉を告げたのだ。「神に従う我として、聴従の道を守れ。勇気を持て」と。
 試練は、主への信頼を弱らせる。それでもなお拠り所は、主の御傍なんだ。弱っていても良い、次を踏み出す勇気も神様から賜わろう。それこそが必要な一事なのだから。


●14(木)
わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。     (申13・1)

 神様からいただいた掟を、モーセが人々に再び告げ直す。それは、道を外れてしまう事への警告でもあった。「神が命じる言葉に一字一句加えず、一字一句減らすべからず」、と。
 私も御言葉に対して、そんな風に道を外れる時がある「この御言葉は無理だから従えなくて良いよね」と減らし「あの人が謝ったら赦そう」と条件を加える。今朝の警告は、図星の指摘。それに気付けたから、王道に戻れる「あなたの御言葉を、そのままに生きたい」と。


●15(金)
大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。    (エレ4・27)

 民の背きのゆえに国が滅びへと向かうことを、エレミヤが預言する。当然の報いを得るのだと告げられたのだ。
 でもよく読むと、預言の言葉のトーンが、裁きにあるんじゃないようで・・・。神様が告げたいのは「わたしは滅ぼし尽くしはしない。あなたを生かしたいから。悔い改めた時には立ち上がるんだよ」と言っておられるんだ。厳しくて義なる天の父であられるけれど、「あなたを愛しているから」っておっしゃっておられる気がした。怒られているのに、心は和んだ。


●16(土)
あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ、あなたの背信が、あなたを責めている。   (エレ2・19)

 イスラエルの民の背信によって亡国に至る預言が、エレミヤによって告げられた。
 旧約聖書は、人々がどんなに神様に愛されたのか、それにもかかわらず人は何度神を畏れず、主を捨てて来たのかが赤裸々に語られる。読むたびに、そこに自分の姿が重なってドキッとする。だからそこに起こる神の嘆きも、背信の子に涙する親の言葉のように赤裸々に聞こえる。私に生々しく、愛されているってことが激しく突き刺さる。


●17(日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)




●18(月)
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。   (エゼ18・23)


 一読して、エッと不満に思った。悪人に裁きと罰が下されるのが旧約の律法のはず。神様だけが、隠れた悪人の業をも見逃さないで裁いて下さるお方のはず。この方によってだけ、この世の正義は貫かれるはずなのに。
 でも、アレッと思った。この「悪人」のところにボクの「篤」って名前を入れてみたら、たちまちニュアンスが変わって聞こえて来たから。何だか申し訳なくて、有難く聞こえて来たから。ボクってゲンキンな迷子の一匹の羊だった。


●19(火)
あなたも心して、ほめたたえよ。   (ヨブ36・24)

 神をほめたたえるのに、どうして「心して」と言うのだろう・・・。聖書を開いて、改めて考えさせられた。これはヨブに対して友人が言った言葉だったからだ。財産と家族をすべて失い、自分も腫れ物だらけの瀕死の体で苦しんでいるのに、友人は「お前の信仰の不十分さのゆえの苦しみだ」と責めているのだ。
 一見、正論。でも、人の傷口に塩を塗る言葉でしかない。このとき本当はヨブに、何と言ってあげれば良かったのだろうか。考えさせられてしまう。私なら、何と言ってあげられただろう。身近にある問いのように思えた。


●20(水)
呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。   (ヨブ13・22)

 昨日に続けてヨブ記!
 昨日も読んだような理不尽な友人の責めに、今度はヨブが答える。それも、その思いは神へと向けた訴えとなったんだ。責める相手への言葉ではなく、神に祈りの顔を向けたんだ。
その姿は義しい歩み方。でもその言葉に、傲慢な思いも潜む。「神の目にも、私に罪はない」と思う傲慢が。「何の落ち度もないことを私は証明できます」と言いたい傲慢が。その時、義人ヨブでも己の姿を見失うのかも。


●21(木)
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。      (エレ9・23)

 「むしろ」と言われているのは、「知恵、力、富を持つ人が、それらを誇ることよりも」、ということ。でもなぜ「主を知ることの方が良いのかな」と思って、続けて聖書を見たら「主は慈しみと正義と恵みの業を行うことを喜ぶ方だから」と分かった。
「それりゃ、ボクの貧弱な知恵や力を誇るより、そっちの方が良いよ」とうそぶきつつ、ウっと思った。分かっているつもりなのに、実際は自分を誇りたい自分がいるって気付いているから。なんだか信仰二面相の自分が・・・。


●22(金)
神を知らぬ者は心に言う、「神などない」と。   (詩14・1)

 「なんだ、当たり前のこと言っているよ」と思って、聖書の続きを読んだら、神などないと言う人々が忌むべき行いをして、善行もしないことを嘆く言葉があった。
 私も自分勝手な生活をしている時、「神様が今、傍におられる」ということを忘れている。だから御心から外れてしまうんだ。ふと「神を知らぬ」というのは、「神との交わりを失っている」ということだと想い出した。旧約には私の姿がそのままある。「主よ、今という刹那も一緒に居たい」と、瞬間ごとを歩みたい。


●23(土)
主よ、もう十分です。私の命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。   (王上19・4)

 預言者エリヤが、王女イゼベルに命を狙われる。それは王女のお気に入りのバアルの神官を打ち負かしたから。神に聴従して、かえって窮地に立ったエリヤ。だから「もう無理、もうイヤだ」とふてくされている。
神様に従うなら、バラ色人生が戴けるというのじゃない。でもそこにあるのは、神が計画される破格の出来事だ。従う人生というのは、その結果まで従い抜くという事。預言者ってキビシー、いやキリスト者も同じかもね。


●24(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
(創12・8)

 アブラム(後のアブラハム)は、神様からの召命を受けて、行く先も分からず主の言葉に従って旅立った。その不安な旅の途中に、主が彼を励ますようにして現れてくださる。その時、彼も即座に礼拝の場所を整えたのだ。
 私の人生も、不安な旅路であろうと、そこに主が共におられる。その場で私のすべきことは、まず主を拝むこと、礼拝第一なんだよね。

●26(火)
聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。   (サム上2・2)

 不妊の女ハンナが恵みを得て、サムエルが生まれた。そのとき彼女が、主を賛美して祈ったのがこれだ。のちにマリアの賛歌に並んで、信仰者に慕われる賛歌となった。
 その喜びは、単に願いが叶えられたということじゃない。ご利益を得たゆえじゃない。貧しいものを富ませ、弱い者を塵の中から立ち上がらせて下さる神だから。その「主」と「私」との関係が実感できた喜びなんだ。守って下さる確かな一人を、実感できた喜びなんだ。


●27(水)
わたしはあなたを悪人の手から救い出し、強暴な者の手から解き放つ。  (エレ15・21)

 主の言葉に従って歩もうとする時、この世でぶつかり苦労する。エレミヤもそうだった。神様の言葉を預かって語っても、かえって人々から反感を買うことになる。その時、神に従う者を救い出し、守る方がおられる。それは、御言葉の語り手ご自身の神様なんだ。
そしてそこにこそ、神の御心が成ってゆく。ただじっと待っていたら、御心が成るというわけじゃない。御言葉を聞いたら、前を導く主を信じて進め。同時に、背後に守り手の主が居られると信じて進め。恐れるな、私!


●28(木)
神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。       (コヘ3・11)

 この直前に神は、「永遠を思う心を人に与えられた」と告げられている。今朝は、それでも人間の思う永遠より、はるか前から神は御業をなさり、はるか向こうまで御業を成し続けて下さるのだと語られているんだ。
 ああ、人間の成すこと思うことって、どこまでも有限なんだなぁ。でも、それでもいいとボクは思う。だって、どこまで行ってもボクは神様の御手の中に入っているってことだから。
 今日の一日も心配ない。そうさ、心配いらないんだ、神様が見極めていて下さるから。


●29(金)
主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。     (サム上2・1)

 願っても祈り続けても、子供が与えられなかったハンナ。ついにサムエルが与えられた時、主に向かって賛美し始めた。その冒頭の言葉がこれだ。はじけるような喜びがここにある。
でもハンナは、単に「嬉しい、万歳」と言っているんじゃなさそうだ。その「喜びの源泉」を見つけたことが嬉しいと歌っているのかも知れない。その源泉は「主にあって」ということ。
喜ばしいことは、主からの贈り物。このお方から離れないでいよう。その泉から恵みは溢れ出すんだから。見失うまいぞ!


●30(土)
ロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。」    (創19・17)

 悪に染まった町ソドム。そこから逃れさせようと、主の使いがロトの一家を導き出す。でもなぜなのかためらうロト。住み慣れた場所だから? 一家での移動は大変だから? しかしそこに留まれば、町もろとも滅びしかない。その真剣さを知るのは、むしろ主ご自身。だからせき立てて言われたのだ「命がけで逃れよ、さあ早く」と。
 ボクにも、主は声を掛けられる「あなたの悪を離れよ、命がけで逃れよ」と。神様、ハラハラさせて御免なさい。あなたの促しに従います。


●31(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



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2021年01月24日

2021年1月24日の礼拝

この日は新牧師館の奉献礼拝です。
説教「離れている人も近くにいる人も結ばれる」、エフェソの信徒への手紙2章17〜22節。辻川篤牧師。讃美歌90。
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2021年01月17日

2021年1月17日の礼拝

礼拝説教「神を知ることができる」、ローマの信徒への手紙1章20〜23節。辻川篤牧師。讃美歌2編185。
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