2020年10月31日

『日々の聖句』2020年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年10月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(木)
キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。   (コロ3・15)

 この「平和」は「平安」という意味もあるから、尚更その平和、平安が欲しいと思う。でもふと思った、「平和」は、「キリストの」だと言われている。そこが肝心かなめかも。つまり自分だけが安泰であれば良いというような勝手な平安じゃないんだ。
あっ、「キリストの」というのは、キリストの言葉を聞いて生きること、そこで生まれる神の平和のこと。今まで自分勝手がいつも平和を壊して来た。勘違いを修正して、今度こそ真の平和を手に入れん!


●2(金)
マラナ・タ(主よ、来てください)  (1コリ16・22)

 「主よ、来てください」と、魂の奥から絞り出すように願うパウロ。再臨の主が、全ての苦しみと悩みと争いから解放してくれて、神の国の到来をもたらしてくれるからだ。私だって、同じ祈りをしている「御国を来たらせ給え(主の祈り)」とね。
 だけど本気で「今来て欲しい」と願っているだろうか。「この楽しみのプランが終わってから」と、何となく思っているかも。それって、「今は来ないで」と言っていることかも。ゾッとした。私の信仰に、この世への抜け穴が開いていると気付いたから。


●3(土)
主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。      (ヤコ2・1)

 「自分は主を信じる者」と思っている。でも日常を生きる姿は、「クリスチャンにあらず」ということがある。その矛盾は、人を愛する時・赦す時に現れる。私自身が相手を、愛せる人・赦せる人とか、愛せない人・赦せない人と区別している時だ。
 今朝、「あなたは、そうであってはならない」と迫る。あなたこそ神に分け隔てされないで、愛し・赦してもらえたのだからと。「そのあなたなら主に倣って生きられるはずだよ」と。「ハイ、主よ」と今日を歩もう。


●4(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●5(月)
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。  (ルカ12・15)

 これは、貪欲な人を責めようとしているんじゃない。どんなに物を持っていても、あなたの命は財産ではどうにもならないから、ということ。命に関わることにこそ貪欲になるんだよということ。
 自分のために金銀を求めないで、神の前に豊かさを積むことを求めよう。主に喜ばれる以外のことは、貧しくて良いんだから。ま、我が家はどっちみち貧民だけどね。
貪欲であって、むしろ良い。ただその手を伸ばす方向を間違わなければ。神の喜びを得るべく、ググッと手を伸ばそう。


●6(火)
だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いた    (使2・6)

 聖霊が降った時、弟子たちが「イエス様は救い主なる神」と証しを始めた。それも諸外国から来ていた人が「自分の故郷の言葉で話されている」と驚いたのだ。
 単に、諸外国語で語られたという奇跡話じゃない。むしろ、自己中心におごっている時、悲しみにある時、何も信じられなくなるような時、そこにも届くように同じ心になってくれる言葉で語られたということ。あっ、だからボクも、四面楚歌と思える日に届いた御言葉を「ボクに語りかけている」と聞けたんだ。


●7(水)
大祭司であるイエスのことを考えなさい。       (ヘブ3・1)

 神と人間との間に立って、仲介者の働きをするのが「大祭司」。それもイエス様は、私が犯した罪を知って、私の代わりにご自分が十字架刑を担って、償ってくださった大祭司の中の大祭司なのだ。
 私には、この上ない味方がいた。私が罪を犯す弱さも全部知っていて、なお私の味方をして、父なる神に弁護してくださるお方。そんな私の大祭司が、今日も傍に立っていてくださることを思い起そう。永遠の味方のイエス様が居られることを思ったら、今日を歩める力が湧いて来るから。


●8(木)
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。   (1ペト2・3〜4)

 人は、聖書を読んで知ることができたはず。イエス様がどれほど愛してくださっていたかを。ご自分の命を投げ出してくださったほどに。そしてなおずっと愛し続けていてくださることを、ボクも知った。
 それなのに今まで、他の何に頼ろうとしていたんだろう。何にすがろうとしていたんだろう。主に立ち帰らなきゃ。恵み深い方のもとに帰らなきゃ。きっともう、迎えに出てくださっているはずだから。み腕に飛び込もう。


●9(金)
神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。   (ロマ12・3)

 キリスト者として完全な生き方をせよと言われる。でもその直後に今朝の御言葉が続けられるのだ、「各自の信仰の度合いに応じてだよ」と。ちょっとホッとする。
でも慌ててすぐ、緊張した。「これは努力八分目で良いということじゃない」と気付いたから。「人と比べないで良い。でもそこで力は、十二分に注げ」ということだから。見てくださる主にだけ喜んでもらえれば良い。これって、良い緊張ではあるね。


●10(土)
世の無力な者を選ばれました。    (1コリ1・27)
 
 神様は御自分の救いを伝えるために、能力のある者や知恵のある者を選ばれなかったと告げられる。無学で、卑しくて、この世で無に等しい人をこそ選んで用いられると。なぜ? それは神様以外に頼るものが一切ない人だからだ。
 「私は何の能力もない者です」という人に、ある日ドッと来る、神に仕える奉仕が。「ああ、それはまずいよぉ」と思ったけど、神様に頼って懸命に仕えたら、その人こそ神の恵みも一番戴ける人になるのかも。なすべき奉仕も、戴く恵みも、神様任せで良いんだな。


●11(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●12(月)
聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。      (エフェ4・29)

 心の中にすぐに沸いて来る言葉は「悪い言葉」、または「悲しませる言葉」「打倒す言葉」だ。御言葉は、そういうものを全部捨てろと言う。その代わりに口にすべき言葉として「恵みに満たしてあげなさい、成長させてあげなさい、そのための言葉を語りなさい」と告げるのだ。
 僕は捨てることも、与えてあげることも出来ていない。一体何やってるんだろう。最も身近にある「言葉」というもので。


●13(火)
万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。    (1コリ8・6)
   

命の流れがここにある。
生まれ出る時も神の御手の中から、そして地上の生涯を終えて死ぬ時も御手の中へと帰って行けるのだ。
だから地上の命の全ての時間は、神様の中にある、安心して歩んで良いのですね。
そう思ったら、預かりものとしての地上の命を、より良く生きたいなと思った。
そうしたら、何だか今日はホッとした気持ちで一日が始まる気がした。


●14(水)
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。    (ヘブ3・16)

 ヘブル書は、「今日、主の声(御言葉)を聞いたなら、神に反抗した時のように、心をかたくなにするな。今日のうちに従え」と繰り返し告げる。
そしてその後に今朝の言葉がある。「ああ、誰も彼もが反抗したじゃないか」と。主が嘆いておられる。ボクにはこれが「お前だけはそうなってくれるな、お前だけは私を愛してくれるよね」と告げる主の御声に聞こえた。


●15(木)
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。       (1ペト5・7)

 この御言葉を、ただ繰り返して唱えるだけで、なんだか心に平安が広がって来る。ただ口で唱えるだけで、なんだかイエス様が目の前で語りかけて下さているように感じられて来る。御言葉が、神様の声そのものに聞こえて来る。
 そうだ、そうやって今日の一日を過ごそう。そうしたら一日の終わりには、この御言葉が心の底に染みついているから。神の声が、私の心に住み着いてくれるから。


●16(金)
少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。    (マコ5・41)

 「娘は死んでしまったから、もうどうしようもない」と嘆く両親。その涙と絶望の前で、イエス様は娘の手を取って、まるで当然のように言い切られたのだ「起きなさい」と。死を支配される権威ある者のように、揺り起こされるのだ。
 私も、落ち込んで、絶望して、まるで死んだようになっている時、イエス様は私の手を取って言ってくださるのだ「起きよ」と。そしてさらに死の先の復活の日にもこの言葉を聞くのだ「起きよ」と。なんという力ある言葉、嬉しい言葉だろう。


●17(土)
マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されている   (使16・10)

 「こんな人には福音を話しても無駄だ。聞いてはくれないし、分かるわけない」と思われていた異邦人のマケドニア人。でも、その「当然無理、あの人には無理」という壁を壊されるのは神様。「あの人も私の愛する一人だから」という一点で、壁を超えて行かれるのだ。
 私もその御心に従おう。自分の「あの人だけは無理」という思いを後ろに退けて、「すべてものをあなたの御想いの中で」と祈りつつ歩もう。きっとそこで、ボクも、壁を超えて行けるから。


●18(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●19(月)
いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。   (1ペト2・11)

 この地上の生活は、やがてまことの古里・天の国に着くまでの旅路。だからこの地上の物に執着して生きるのでなく、むしろ捕らわれないように何時も御国を仰ぎ見て生きるんだ。それって、なんて壮大な旅なんだろう。それも御国は予約済み。なんて楽しみな旅路なんだろう。
 でもその古里を忘れさせるのが、この世に執着させる欲。「クワバラ、近付くまい」と思って、祈っていることが大事かも。


●20(火)
この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。    (ルカ7・47)

 罪深い女が、イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛で拭って、香油を塗った。周りの人々は「罪人がいまさらなんだ」と白眼視したけれど、イエス様は違ったんだ。
 イエス様に罪赦されたと分かる人は、周りの目なんか関係ない、ただイエス様を喜んで生きる人になるんだ。私も受洗の日に罪を赦された一人。この女のように生きる人になりたい。ただ主を見詰めて。


●21(水)
(わたしたちは)無一物のようで、すべてのものを所有しています。     (2コリ6・10)

 パウロが、「キリスト者として生きようとするなら、この世からの悪評もあるし、辛い思いや悲しい思いもするだろう」と言う。世から見たら、何も誇らしいものを持っていないように見えるからと。でも、と言うのだ。「あなたはすべてものを所有している」と。価値観がひっくり返されているような御言葉だ。
天の蔵にある物は、神の子である私たちの物だからだ。うっひゃー、この世のどんな大富豪よりもスゴイ。そうさ、天の国を仰ぎ見ればね! そこが、大事な大転換点だね。


●22(木)
(イエスは)永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。   (ルカ1・33)

 天使ガブリエルがマリアに、受胎を告知する。そこに今朝の知らせも含まれていた、「イエス様は、神が祝福を約束された神の民を永遠に守るから。平和の支配はイエス様によって尽きることがないから」と。
 この「ヤコブの家(神の民)」が、聖霊降臨後、つまり私たちの時代では「教会」となった。それは、相模原教会に平和の支配が及んでいるということ。教会に所属する意味は、平和に所属することなんだ。素晴らしい所属。その恵みを大事にしたいな。


●23(金)
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。    (エフェ六・4)

 御言葉が、家庭の在り方に踏み込んで来る。家庭が、一番最初の「隣人との出会いの場」となるからだ。そしてそこで人は、最も失敗しやすいからだ。
 父親は子供の前で、まるで仕える者のように、その子を活かす言葉を注がないといけないということ。その姿は、イエス様の弟子たちに対するように。失望させられても、怒りたくても、忍耐に忍耐を重ねて臨まれた主のように。これは紙に書かれた目標じゃない、そう生きよとの厳命だ。


●24(土)
あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。    (使20・28)

 エフェソの教会を離れる時、パウロが「邪説を唱える輩が来る。まず自分自身に気を付けろ。でも、群れの兄弟姉妹のことも気を付けてあげてね」と告げたのだ。
 自分のことばかり思う時、隣人が見えない。他者のことばかり気遣う時、自分のことが見えなくなることがある。でも自分も隣人も大事。そのことを気付かせてくれるのは、御言葉だ。主が、どちらも気遣ってくださって、引き戻してくださるから。常に、御言葉にハッとして立ち帰ろう。


●25(日)

主日礼拝説教

       藤森誠神学生 (東京神学大学大学院2年)



●26(月)
わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。        (1ヨハ1・3)

 御子イエス様と地上の旅をした愛弟子ヨハネたちが、新たに信仰者たちに告げたのは、驚くべき言葉だった、「自分たちと一緒に信じて生きることは、あなたも御子イエス様と御父なる神との交わりに生きることになるのだ」と。
 信じる者たちの交わりは、人間的な横の繋がりだけじゃないんだ。天地を結んで、縦の繋がりでもあるのだ。主に在る隣人との交わりをおろそかにすまい。そこには同時に、神との交わりが重なっているのだから。


●27(火)
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。    (ルカ19・5)

 人々から、「罪人」のレッテルを貼られていたザアカイ。でも、罪人の友となっておられるという噂のイエス様に会いたくて、でも群衆に遮られて仕方なく木の上に。
 そのザアカイに、イエス様が声をかけてくださった、「会いたいと思っていたのは、私の方だよ。お前を探していたよ。さあ私が友となるよ」と。
イエス様のこの御声は、私にも届いて来る。御声に、なんだか胸が熱くなった。


●28(水)
霊の導きに従って生きているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。    (ガラ5・25)

 神の導きとは、すなわち私の内におられる主の霊が私を導いていてくださるということ。その小さな御声を聞けなくさせるのが、自分の中にある大きな声だ。それは欲情であり、うぬぼれであり、ねたみであり、つまり罪の実なのだ。
 霊が導く小さく細い声を聴かねば。「祈ろう」と気付いた。それも沈黙して、主を想うだけの黙想の祈りをしてみよう。ボクの心にも、主の語りかけが聞こえて来るかも知れないから。主の御言葉によって。


●29(木)
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。    (フィリ3・21)

 天地創造の時から御力を振るわれた「先在の主」なるイエス様。そのお方が私の罪とも闘って、勝利してくださった。さらにご復活の命までくださったのだ。
 偉大な御力が私の隅々にまで及んでいる。私の貴さはこのキリストの御業ゆえ。だから二度と自分で自分を見くびるまい。成された御業を見くびる事だから。


●30(金)
富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。    (ヤコ1・10)

 富んでいる所から飛び退けと言われている。そこに立っていると草花のようにしおれて滅び去るからだと警告されている。
 「えっ貧しいことが良いことなの?」と思ってしまう。でもそんな単純なことじゃないみたいだ、「低くされることを」と言われているから。もしかしたら、と思った。懸命に富を得て、でも自分で握らず分け与えて、与え尽くせばいいのかもと。そうやって貧しくなった姿はイエス様のようだから。


●31(土)
自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。    (ヤコ1・25)

 「神が命じる言葉としての律法を聞くだけの人になるな」という命令する。それは単に禁止命令で終わらず、「行え。行う人になれ」という強い招きとなっている。
 今日はっきり「そっちに行くな。こっちを行け」と聞いた。これほど明確な道標はない。それなのに道を外れるなら、それは神への反抗。それが、ボクの内に潜む罪。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:54| 『日々の聖句』

2020年10月25日

2020年10月25日の礼拝

礼拝説教「信仰を増してください」、ルカによる福音書17章1〜6節。藤森誠神学生(東京神学大学大学院2年生)。讃美歌270。
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2020年10月18日

2020年10月18日の礼拝

礼拝説教「キリスト・イエスに属する者」、ガラテヤの信徒への手紙5章16〜26節。西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)。讃美歌352。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ