2020年05月24日

説教 『わたしの声を聞きたまえ』

2020年5月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編27編7〜10節
27:7 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き
   憐れんで、わたしに答えてください。
27:8 心よ、主はお前に言われる
  「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
   主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
27:9 御顔を隠すことなく、怒ることなく
   あなたの僕を退けないでください。
   あなたはわたしの助け。
   救いの神よ、わたしを離れないでください
   見捨てないでください。
27:10 父母はわたしを見捨てようとも
   主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。

 今年の4月12日は、教会の大祝祭日イースターでした。しかしもう一つ4月12日ということで覚えているのは、「その日から、この礼拝堂に集って一緒に礼拝に与ることが出来なくなった」ということではないでしょうか。私が皆さんの顔を見ることが出来なくなって、もう7週間が経つのです。寂しい「7週間」という日々です。でも実は、4月12日から数えて7週間という数え方は、教会暦にとって意味がある数え方なのです。それはイースターからの7週間を、教会は「復活節」という一括りでくくるからです。今朝は復活節最後の主日です。さらに代々の教会は、その主日ごとに個別の名前まで付けて来ました。その名前を聞いたら、キリスト者たちが自分の信仰をどのように培ってきたのか、それが現れるようにとの思いを込めてです。今朝の主日の名前は、詩編27編7節から採られました、それは「わたしの声を聞きたまえ」という名前です。キリスト者の生活の中に、「わたしの声を聞きたまえ」という祈りが、途絶えることはなかったということを表わすのです。そして今朝、改めて思います。この言葉は、過去の信仰者たちの祈りであるばかりでなく、今の私どもの心の中にある言葉でもあるようだ、と。

 この詩人は神様に向かって、まるで大声で叫ぶように言います、7節「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き、憐れんで、わたしに答えてください」と。これは元々の聖書の言葉を見ますとブツブツと切れていて、「主よ。聞き給え。憐れみ給え。答え給え」と、必死にすがり付くような文面になっているのです。きっと、泣き叫ぶことしかできないような現実が、この詩人にあったからでしょう。私どもも自分の生活を振り返ってみたら、彼のような窮状を経験することがあるのだと思います。詩人が「主よ、聞いて下さい」というのは、誰もほかに聞いてくれなかったからですよね。私どもも相談したいことがあるとするでしょ。そのとき家族が傍にいるとするでしょ。子供は小さい頃は、親に相談しなくっちゃと話し出します。すると大抵「それは、お前のココとココが悪い。もっとこうすべきだ」と、きついダメ出しをされて、「エー、相談したら怒られるの?」と泣きたくなって、さらに「もっと頑張れ」と追い詰められてしまう。妻が夫にですね、「ちょっと聞いてもらいたいことがあるのだけど」と話しかけたら、「それはお前のココとココが悪い。もっとこうしなきゃ」とダメ出しをされて、「私が悪者なの?」と泣きたくなって、さらに「もっと頑張れ」と追い詰められてしまう。人は、ただ聞いて欲しいだけなのに、それを聞いてもらえないなら、心配事とか心の中の重荷は、行き場を失ってしまうんじゃないですか。この詩人は、誰にも聞いてもらえなかったのです。だから、心の底から絞り出すようにして、「主よ、聞いてください」と叫んだのです。さらにです、次の「憐れんでください」というのも同じでしょう。「憐れむ」という言葉は、本来の意味は、「恵み深く」とか、「好意を寄せる」という意味の言葉です。また次の「答えてください」というのは、「無視しないで」という意味です。つまりこの詩人を囲んでいる状況は、誰からも好意を寄せられず、周りから無視されている状況なのです。そんな詩人が、ついに神様に向かって叫んだのです、「あなただけは、私の話しを聞いて下さい。憐れんで下さい。私を無視しないで下さい」と。そしてこれは叫びであると共に、祈りでした。詩人は神様を知っている信仰者だったから、虚空に消えるような叫びではなく、彼は祈りの言葉として「わたしの声を、どうか聞いて下さい」と、神に訴えたのであります。

 その時、でした。その祈りの中で、詩人は、アッと気付かされたことがあったのです。私よく「アッと気付かされ」とか「エッと思った」とか「ウッと気付いた」とか言いますでしょ。「牧師って、変なこと思うんだなぁ」と不思議に思っている方もおられるかも知れませんが、でもこの「アッと気付かされる」って、聖書を読む時には大事なことなんです。なぜなら聖書って、生ける神の言葉として、私に語りかけられている生の言葉ですよね。それを聞き取ろうとしたら、その言葉を辞典で調べたって仕方なくて、「あなたの言葉が聞きたい」と耳も心も傾けるしかないんです。聞くという行為はそもそも人格的な行為なんです。「神と私」「汝と我」の人格的行為なんです。そうやって聞こうとした時にです。神の言葉は本来、天地創造の神の言葉なんですから、たかだか人間が有限な知識で理解できるはずもなく、だからもしもです、神の言葉を悟らせていただけるとしたら、それは神様ご自身が「分からせてあげるから」と助けて下さった時だけなんです。つまり、聖霊なる神が「あなたの心を開いて、贈り物として神の言葉を分からせてあげる」と働いて下さった時だけなんです。それは誰にとっても、祈りの中で起こされます。そのとき人は「アッと気付かされた」としか言いようがないようにして、御言葉の核心に触れることが出来るのです。この詩人も必死に祈る中で、アッと気付かされたことが起こりました。それを書き留めたのが8節なのです「心よ、主は、お前に言われる。わたしの顔をたずね求めよと」と。つまり、「主は私に、ご自分の御顔を尋ね求めて良いよと言って下さっている」ということであったのです。詩人はすがるしかない祈りの中で、「ああ私は、神を呼び求めて良いんだ。神様と私は、そういう関係でいるんだから」ということに、気付かされたのです。

 旧約聖書の民にとって、神様が「わたしの顔を尋ね求めよ」とおっしゃったら、すぐに思い浮かべることができる「神の御顔」がありました。それは父祖たちから聞いて来た出エジプトの出来事があったからです。彼らは、エジプトの国に奴隷となっていた人々です。毎日が苦しくて「誰かわたしの声を聞いて下さい。主よ、憐れんで下さい、わたしに答えて下さい」と叫んでいたのです。そこに、壮年男子だけで60万人の民が奴隷の国から脱出するという出来事が、神様によって起こされたのです。その日、人々は知りました、「主こそ、私たちの助け」と。それをこの詩人も9節で「あなたはわたしの助け」と告白したのです。「神様こそ私の助け。あなたが共にいて下されば、それだけで他は何もいらない。そこが私の居場所」と。私、20〜30年前に犬を飼っていました。シェットランドシープドックで、牧師館に来る前には、夏になると相模湖にあった家から、よく道志川に家族とバーベキューに出掛けたものです。もちろんシェルティーも一緒です。でもあの子、あんまり言う事を聞かない子で、ある夏のことでした。「ここに居るんだよ」と首輪を繋げていた場所から、いつの間にか抜け出して姿を消した。川に落ちたんじゃないかと心配して、必死に川辺を探していたらです。向こうのほうの家族から、「おー、そっちに行ったぞ」と声がして、大型犬がウォンウォンと吠える声。すると反対側から「おー、コッチに来たぞ」って。それで私「もしかしたら」とその声のほうに顔を向けたらです、そこに迷子になって、切なそうな目をしたシェットランドシープドックが一匹、私と目があったかと思った瞬間、脱兎のごとく人混みをかき分けて、ピョーンと私の胸の中に飛び込んで来たんです。そこで抱っこされてホッとした顔をしていました。ウチの犬でした。勝手に脱走して迷子になったのに「ここが僕の居場所、やれやれ安心」とばかりに、いつまでもしがみ付いて降りない。しょうがない子でしたが、でも思うんです、「私も迷子になる」と。神様の言うことを無視して、勝手に生き出すからです。「迷子の羊」なんて言うと耳障りは良いですが、でも実は自分勝手で、傲慢で、だから神を見失うことを起こしてしまうんです。そこで周りの「人間の顔」が気になり出して、自分は無視されているように思えて、恐くなったり孤独になったり。でもなんです、そんな時でも、その場で神様が、気付かせて下さるんです「心よ、主はお前に言われる。わたしの顔をたずね求めよ」と。私どもは求めて良いんです。主なる神の御顔を求めて良いんです。それは神様が、私どもよりも真剣に私のことを心配して、探していて下さるからです。「どこに迷い出したんだ、そこで怯えていないか、震えていないか」と激しく心配して下さって、私どもを探して下さっているからです。その神様が共にいて下さるなら、他に何もいらないんです。

 そういう関係に生きた詩人にとっては、もはや神様に、アレコレの願い事やご利益を叶えて欲しいと言う必要もなかったでしょう。「ただあなたが一緒に居て下さるなら、それで恐れもない。それが最善だ」と、そういう関係に、信頼の関係に戻れたからです。そして、そんな信頼関係というのは、神様と一緒に生活する中でこそ、心と体に染みついてゆくものです。神との信頼関係というのは、生活の中で「神と私」という二人三脚で生きることでしか生まれないし、育まれないし、また維持されないんです。私が小さい頃に育てられた奈良の教会のお婆ちゃん牧師先生は、口を開けば、「あっちゃん、神様の言葉を聞きや。聖書を読むしか聞けへんのやで。祈りや、祈らんと分からへんのやで」と言っていました。そう言ってくれたのは、私の現実生活のど真ん中に、神様との関係を刷り込ませるためだったと、今は分かります。身に染みついた深い信頼に生きていたら、危機の時も「私の声を聞きたまえ」と叫べる、「そう求めて良い自分なんだ」とハッキリ分かることが出来るからです。そう考えていた時、ふと「あ、私は神の顔を知っていた」と思ったのです。それは皆さんも知っている「神の御顔」です。それはイエス様。この旧約時代の詩人はまだ知らないから、だから9節で「あなたの僕を退けないでください…わたしを離れないでください。見捨てないでください」と言っていましたけれど、私どもは知っているんです。神の御顔をイエス様のお姿として思い起こすなら、そこでハッキリ言うことが出来る、「神は、私を退けられない。決して私から離れないお方。神は私を、絶対に見捨てないお方だ」と。主イエスは、私のことを私よりも大切にして下さったから、私の身勝手で起こした過ちと罪なのに、その裁きを身代わりに償って下さったのですよね。皆さん、あの十字架の上で命を捨てられたお方、そこに「神の御顔」があるのです。私のために苦しむ方の御顔、私のために死なれた方のお顔、それが「神の御顔」なのです。だからです。私どもは十字架の下に立つ時に、そこでこそ、神の御顔を尋ね当てることが出来る。そこでだけ、神様との深い信頼を育み続けることが出来るのです。そういう人ならどんな時も、神の懐に飛び込むように「わたしの声を聞き給え」と叫べるし、祈れる人になるのではありませんか。

 代々のキリスト者たちも、その中を生きました。信頼して、迫害の辛い日々も生きたのです。私どもにも、新しい1週間が始まります。さあ、信仰者の歩みに連なって、この週も過ごして行こうではありませんか。大胆に主イエスの御顔を仰いで、「呼び求めるわたしの声を聞きたまえ」と祈るのです。そこで、平安も戴けるのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:36| 主日説教要約

『日々の聖句』2020年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年6月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(月)
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。   (マタ18・35)

ペトロが「人を何度赦してあげたら良いですか」と問うたことに、イエス様が「七の七十倍だ、つまり完璧にだよ」と言われ、なお加えて「もし心から赦さないなら、神もあなたを赦さない」と言われた。
 隣人を赦すかどうか、それも心から赦せるかどうかは、心の広さや大きさの話じゃない。私自身に跳ね返ることだ。必死に赦さねば。衷心から赦さねば!


●2(火)
酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。    (ロマ13・13〜14)

 酒におぼれて酩酊する姿と、色におぼれた淫乱と、人と争う姿やねたむ姿が、並列して挙げられている。恥ずかしい姿と、人と争う姿は同じだと言われている。そういう姿を全て脱ぎ捨ててからじゃないと、キリストを着られないのだとも。
争う者のままで、上にキリストを着る〈着ぐるみ信仰生活〉は、すぐバレる。先ず脱ぎ捨てねば。今日は信仰生活の衣替えの日だ。肉の自分を、断捨離だ。


●3(水)
取りなさい。これはわたしの体である。      (マコ14・22)

 最後の晩餐で、主イエスが弟子たちに言われた言葉。私たちも主日の聖餐式のたびに、この言葉を聞いて来た。「このパンは、あなたのために十字架で裂かれた私の肉だ。取って食べよ。主の死は自分のためだったと、信じて味わえ」と。
 相模原教会では、主の体を戴く時にひざまずく。それ以外に相応しい姿勢があるだろうか。自分が主を十字架に釘付けにした張本人なのに、恵みを受け取れるのだから。ひざまずいて差し出す手に、圧倒的恵みが手渡される。救いの印だ。


●4(木)
しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。」    (使10・14)

 ペトロが忘我の中で夢を見る。律法で禁じられている「汚れた食べ物」が、天から吊るされて降りて来て、「食べよ」との御声を聞くのだ。その瞬間「とんでもない」と答えたペトロ。その汚れた物とは、異邦人のことを指している夢だった。御声に従って出かけた時、異邦人伝道が始まった。
人が、自分のこだわりを破れるのは、主の御言葉に従う時。その時に、新しい世界が開くのだ。私も「赦せ」「愛せ」との御言葉に従って、隣人との垣根を壊せ。


●5(金)
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた。     (2コリ12・9)

 パウロは、主に「取り除いて欲しい」と願い続けた一つのトゲ(病か弱点か)があった。しかしその弱さを、主なる神は「そこが、私の恵みが働く場所だ。あなたの弱さに私の力は宿るのだよ」と告げられた。
 「これは私の強さだ、得意なこと」と、自分で自分を誇る場所は、傲慢が住みつく暗闇。だから弱さを大事にしよう。自分は無力だと首を垂れる場所で、主が主導権を握って働かれるのだから。


●6(土)
永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。   (ヘブ13・20〜21)

 キリストこそ、神と人との間に立って執り成す弁護人・仲介者だと告げられた手紙の最後に、この言葉が来る。これは、締め括りの祈り。そうだ、祝祷だ。


●7(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。   (1ペト3・15)

 心の内にキリストを湛え、人に接する時は穏やかに信仰の喜びを話す。これが迫害の中を生きるキリスト者の姿なのだ。苦しい顔で生きるのじゃない。辛そうに生きるのじゃない。のびのび生きるんだ。
そうだ、柔和なイエス様のように! 肩から力を抜こう、眉間から皺を消そう。心を乱さず、腹にこそ力を入れて生きよう。それこそが大人の信仰者なのかも。


●9(火)
天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。    (ルカ1・30)

 天使から受胎告知を受けて、戸惑い恐れるマリア。その彼女に向けて、天使が「恐れないでいいよ。これは恵みなんだよ。それも神様からのね」と告げたのだ。
 神様からの恵みでも、それが自分で願うものでない場合がある。でも「神から」であるなら、人間の想像を超えた奇跡の恵みとなるのだ。マリアは救い主を産むことになるのだから。神の恵みって、委ねて受け取るものなんだな。蓋を開けて確認してから受け取るものじゃないのですね。


●10(水)
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。   (ルカ2・30)

 幼子のイエス様が、両親に抱かれて神殿に連れて来られた。その幼子を見たシメオンが、喜びに溢れてこの言葉を言った。一目見ただけで救い主だと悟ったのだ。
 イエス様を一目見ただけで悟れる人もいる。イエス様の言葉を百千万聞いても悟れないボクがいる。なぜシメオンのように生きられないのだろう。なぜ彼のように喜びに満たされないんだろ。きっと、自分が思い描く救い主像に固執してるから。自分の内側の声が、イエス様の言葉をかき消すから。聖霊よ、私を鎮めてください。


●11(木)
正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。   (1ヨハ3・10)

 この直前に、驚く言葉が記されている「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです」と。そこに直結して今日の御言葉があるのだ。
 「神に属していない」と言われているのは「神の子じゃない、悪魔の子だ」と告げられているということなんだ。恐い! そうだ、恐いと思うままに「正しい生活をしなきゃ、隣人を愛さなきゃ」と心して生きねばならないんだ。中途半端は無い!


●12(金)
「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。   (使10・4)

 異邦人の百人隊長コルネリウスに、神の使いが呼びかけた。そのとき彼は恐くなるけど、逃げ出したり、呼び掛けを空耳かと疑ったりせずに、応答したのだ。それは「主よ、私に何か御用ですか。私に何をさせたいのですか。しもべは聞きます」との応答だった。そこに、ペトロとの出会いが起こり、異邦人伝道の扉が開いたのだ。
 私も、御言葉を聞いた時「主よ、このお言葉は何ですか」と応答したい。そこに神の業が開始されるのだから。


●13(土)
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。   (1コリ1・10)
   

 コリントで「自分が正しい」と主張し合って争っていた。そこで、教会が倒れかけた。
 今、これを書いている時、新型コロナウイルス感染症との闘いの真只中にある。マスコミから情報が溢れて来る中、皆の思いは揺らされている。しかし主よ、どうか心を一つにして、固く結びついて、この困難を乗り越えて行けますように。これを読む時は、光が見えていますように。


●14(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。   (1コリ10・24)

 自分がしたいと思うことは何でもすることが許されている、と言われる。でもその全てが益になるわけじゃないんだよとも。ではどうすれば良いのか、それが今朝の御言葉なのだ。他人がして欲しいと思うことを追い求めよ、隣人を愛することだと。
 「ああして欲しいのに、これが欲しいのに」と、心を自分の内側にばかり向けていたから、いつも不平不満を抱えていたのかも。でも外に向けてみよう。隣人に向けてみよう。今日がその始まりの日にしよう。


●16(火)
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。   (1ペト2・5)

 主イエスは、人々からは見捨てられたけれど、御父にとって尊い生きた石なのだと言われたことに続けて、「あなたがた自身も」と告げられていたのだ。あなたも神の目には、神の家を建てるかなめ石なんだよと言われているんだ。
 「キリストに倣って一歩だけ」と踏み出せたら、そこは神が崇められる神殿となるんだ。私の小さな信仰の小さな一歩でも神の家を建てる土台石になる、感謝。


●17(水)
あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強い。   (1ヨハ4・4)

 「世にいる者」とは、人を惑わす偽預言者。彼らは「神に頼るよりも自分が大事、皆もそうやっているよ」と惑わす者たち。一方「あなたがたの内におられる方」とは神の霊だ。「キリストはあなたのためにこの世に来て下さった」と告げる霊だ。
 「世の誘惑に勝たなきゃ、だから強い信仰でいなきゃ」と力んで来た。でも、内にいて下さる聖霊に目を向ければ良いんだ。「私を助けて」と、頼れば良いんだ。なんだか、フッと肩の力が抜けた。


●18(木)
人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。      (ヤコ1・14)

 誘惑は外から来るのではない。ましてや、神が人を誘惑されるなど言うべからずと告げられている。悪への誘惑は、自分の中から始まるのだ、と。
 エッと思った。今まで「誘惑から守って」とか「誘惑に陥らせないで」とか祈っていたから、自分の外から誘惑されると思っていたから。アッと思った。悪の病巣は、ボクの中に巣くっている欲望だと知ったから。今日から祈りを変えよう、「一切の欲望を捨てて、御心のままを生きさせて」と。


●19(金)
誇る者は主を誇れ    (1コリ1・31)

 非常に端的に言い切られている。自分を誇るな、一切誇るな、神があなたの主(主人)だから、あなたを贖う救い主なのだから、ということだ。
 「勿論その通りだ」と思っている、思っているはずだった。でもふと思う、「それなのにどうして自分の考えだけで生きようとするのか。祈ることが少ないのか。御言葉をおろそかにするのか」と。そして気付いた「私は偽善者」と。「私を赦して救って下さい」と悔いることから始めよう。それが、主を誇ることに至る道に繋がるから。


●20(土)
わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持っていくことができない。  (1テモ6・7)

 信仰を持って生きることは、豊かになるためじゃない、と告げられる。なぜなら裸で生まれ、一文無しで天に帰るのだから、地上の財産が何になるのかということだ。
 この世で財を持つことを喜ぶ心と、信仰者の歩み(天に宝を積むことを喜ぶ心)とは、同居しないんだ。両方を丁度よくということは無いらしい。「じゃボクは、どっちかな? 本心はどっちだろう」・・・なんて迷っていること自体、マズイよね。


●21(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。       (コロ2・6)

 主イエスに救われた喜びの中で「キリストに結ばれて」という歩き方に、変われるよね、変わりなさい、と言われている。
 この世の歩みと歩調を合わせていた頃の生き方から、離れなさいと言われている。相変わらず他者を傷つけ、神様を第一にしない生き方じゃ、ダメなんだ。古里の教会の兄弟姉妹に久しぶりにあったら、「あれぇ、あっちゃん変わった?」と、信仰において言われたいな。

●23(火)
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。      (ヘブ12・4)

 外からも内からも試練を前にしていた信仰者たち。その中で本当の試練は、罪との戦いだと告げられる。でも不安を抱えないで良い。その試練は「父が子を鍛えるためという目的に沿っているもの。だから雄々しく進め」と諭されていたのだ。
 神の愛は、過保護でも放任主義でもない。私が信仰者として自立できるようにと、真剣な父のお心なんだ。私の真の益のために、誰よりも一番真剣なのは、御父なる神なのだ。


●24(水)
キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。   (2コリ12・9)

 パウロが主から「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と告げられたことを告白した文脈に、今朝の言葉もある。
 キリストの大いなる力が、私の中にスッポリ入る場所がある。それは自分で整えた応接間じゃなくて、何も出来なくて打ちひしがれた場所。それってどこ? それは病と無力さを味わう時「主よ、もうあなたに全てお任せします」と祈る場所かも。


●25(木)
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。    (1コリ9・23)
 

 「どんなことでもします」とは、律法厳守の人には自分もそのようになり、異邦人には自分も異邦人のように、弱い人には弱い人のようになること。それは少しでも、その一人を得るためとパウロは言う。そうしたら、福音に共に与れるからと。
 救いの喜びは、自分一人で喜んでちゃダメなんだ。共に喜び合う人を得ないと未完成品で喜び半分。隣人に伝えなきゃ。


●26(金)
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。   (ヨハ20・27)

 復活を信じられない弟子のトマス。その彼に主が現れて「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」と十字架の聖痕を差し出された。そして「信じる者になれよ」と招かれたのだ。自分のこだわりと常識に捕らわれて意固地になっていたトマスの頑なな心の扉を開けたのは、イエス様の声。それも優しい招きの言葉だったのだ。
人間の知識では理解しようもない「復活」を、信じる心へと緩めるのも、主ご自身の御声。そうだ! 私もその招きを受けていた。「信じたい」と思ったその日に。


●27(土)
あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。         (マコ16・7)

 主が復活された知らせを、天使から聞いたマリアたち。その時ペトロたちに「主はガリラヤで待っておられる」と言付かった。
 ガリラヤ・・・それはイエス様と出会った場所。「この方こそ、ローマから解放してくれる救世主」と期待して旅を始めた場所。でも一切が消えた。そのゼロ地点こそ、主の計画に従い直せる場所。そこから再出発するために、ガリラヤで会うのだ。私のガリラヤは、朝ごとの祈りの場。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
この子は、・・・反対を受けるしるしとして定められています。   (ルカ2・34)

 幼子イエスを神殿に連れて来たマリアに、シメオンが告げた言葉だ。「この子は、人々から憎まれ嘲られて、ついには死なれる道を歩む。それが神の御計画だよ」と。それを聞いた母マリアは、心を痛めただろう。辛かっただろう。
 イエス様は、御父の御計画によって降誕され、地上で苦難を舐められ、人々に見捨てられ、ついに十字架で死なれる。そんなに辛い定めが、人の救いのため。いや私のため。私こそ心を痛めるべきなのだ。

●30(火)
あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。   (ヨハ21・22)

 ご復活の主が、ペトロに「あなたは私に従え」とコンコンと諭される。それでイエス様と自分との深い関りを理解したはずなのに、ふと横を見て他の弟子のことが気になった。そして「この人はどうなのですか」と愚かにも聞いたペトロに、ガツンと言われたのが今日の御言葉。
 なぜ人のことが気になるんだろう。いつも人と比べて生きているから? 批判したり、妬んだり。でも主は言われる「私とあなたの関係で充分だろ」と。あ、然りだ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:12| 『日々の聖句』

2020年5月24日の礼拝

礼拝説教「わたしの声を聞きたまえ」、詩編27編7〜10節。辻川篤牧師。讃美歌296「こころみのあらし 吹きたけりて」。
教会員の皆様は、引き続きご自宅で、聖書を読み、賛美を捧げ、祈りをあわせて礼拝の時間をお守りください。
この日も、礼拝のライブ配信を行う予定です。ライブ配信はこちら
説教動画の配信も併せてご利用ください。こちらから
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ