2020年05月17日

説教 『かわいそうだ』

2020年5月17日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書15章32〜39節
15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
15:33 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
15:34 イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
15:35 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、
15:36 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
15:37 人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
15:38 食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
15:39 イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。

 イエス様の傍には、いつも、群衆が詰めかけていたようで、今朝の場面でも4000人がいたと言われています。でもそれは、男だけを数えているだけで、その場には女性も居ただろうし、お婆ちゃんも子供も、赤ちゃんだって一緒にいたでしょう。だから群衆の数は、優に1万人を超えていたはずなんです。その群衆は、じゃあどういう人々だったのかと言うと、それも知ることができます。今朝の直前の箇所で、イエス様がガリラヤ湖のほとりで、大勢の人を癒された様子が記されていたからです。その人々とは、「口の利けない人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」だったようです。その一人ひとりが癒されてゆき、そして時が経ち、陽が傾いて来たのです。そこに起こった出来事が、今朝の箇所で読まれたことであったのです。イエス様が、7つのパンと少しの魚で、彼らを満腹にされた、「4000人の供食(食事を提供)」と言われている出来事でありました。

 さて、今朝の出来事を聞かれて、きっと皆さんの中には「あれ? この話しは前に聞いたことがあるような、私の勘違い?デジャブ?」と思われた方がおられると思います。いえいえ、勘違いじゃありません。今朝の箇所の1ページ前を見て下されば、「5000人を、5つのパンと2匹の魚で満腹にされた」という、イエス様の満腹奇跡が記されていて、それを憶えておられるのです。それは今朝の箇所と、そっくりな出来事でした。さらにその「5000人の供食」は、マルコにもルカにも、さらにヨハネも、つまり全ての福音書に漏れなく記されているので、これまでの教会生活の中で当然、どこかで耳にしたことが在り得るのです。だからそこで、「全く同じ出来事で、全く同じ結論になるのに。なぜ繰り返し書いているんだろう」と考えてしまうことも起こるんじゃないでしょうか、私がそうだったんです。皆さんは、いかが思われますか? もし訳があるなら、それはどんな訳なんでしょう。なぜマタイが、同じ結論なのに省かなかったのか。それがとても気になって、もう一度ゆっくりこの出来事を読み直してみたのです。

 5000人が満腹した出来事から、季節は移り変わり、半年ほどが過ぎたようです。そのときに、また同じような状況になりました。イエス様が、今度は4000人の群衆を前にして、32節「群衆がかわいそうだ。…空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れ切ってしまう」と。この時にイエス様の口から出たのは、晩ご飯の話題です。「晩ご飯がない。お腹がペコペコになる。どこかに、お握りはないのか、パンはないのか」そういう話しをしておられるんです。まるで家族の食事の心配をしてオロオロしている、お父さんのようなんです。それも、この「かわいそうだ」という単語は、私も何度か礼拝でも取り上げて来ましたが、聖書では特別な言葉で、これは「はらわた痛む」という意味がある、激しい言葉です。心配で心配で、「五臓六腑が、よじれるように辛い」という意味の言葉なんです。だからイエス様は、人々のご飯のことを考えたら、彼らがお腹がペコペコで困り果てるだろうと思ったら、心の五臓六腑が痙攣してよじれるように痛んだ、ということなんです。そして、そういう風に「かわいそうだ」と思われた時に、この出来事が始まったのです。弟子たちに「パンは幾つあるか」と聞かれて、以前になさった、5000人の奇跡と同じことをなさったのです。つまりイエス様は弟子たちに「ほら、あの時のことを憶えているだろ、あの時のことを、もう一度しようよ、一緒にここでしようよ。今日はパンが幾つあるのか」と言われたということなのです。そこに5000人の時と同じ、満腹するという結論にたどり着く奇跡が、起こったのです。

 私は、この時の出来事を辿りながら「イエス様はやっぱり、同じことを繰り返されたんだ」と思って、でも「もしかしたら、意識的に同じことを、前の通りにもう一度しようよ、とされたのかな」と気付いて、そして、「それって、つまり、イエス様の思いはいつも一つで、同じ結論へと行こうよ、一人ひとりが満腹になることを繰り返そうよ。いつも同じようにしてあげたいんだと仰っていた、ということなのかな」と、思ったのです。そう気付いたとき、ハッとしたのです。それはそこで、イエス様というお方の、そのお心を覗き見た気がしたからです。イエス様がどういうお方なのか、そのことにちょっと触れた気がしたからです。イエス様は、目の前に具体的な困り事があったら、何度でも同じことを繰り返されるんです。「かわいそうだ」と、御自分の心の五臓六腑をよじらせて、一緒に痛みを感じて「あなたが、喜びで満腹にことへと、繰り返ししてあげよう。私は、何度でも、満腹結論へと向かいたいんだ」と言われるのです。それが、イエス様にしみついているお姿なんです。先日、大阪にいる従姉と話しをしたんですけれど。もう何十年も会っていないのですが、「元気にしてる?」とね。そして「弟はどうしてる?」って聞いたら、「ああ、あの子はメソメソしてるでー」って。そう聞いた時、私の記憶の中にある弟の様子が、ありありと浮かんで来たんです。そして「小さい頃から、泣き虫やったもんな。そうそう、そうやった。それがI君やった」とね。会ってはいないのに、その人の姿が思い浮かんで来る。それは、名前に染みついた、その人独自の有り様があるからです。教会員の皆さんと、Oさんの思い出話をしたら、名前を聞いただけで、しゃべり出したら止まらない姿が思い出されませんか。また私は、ある姉妹の名前を聞いたら、その場に居ないのに、明るく笑う声が聞こえて来そうで、その笑顔まで見えて来そうになります。その人に染みついた、姿ってあるんです。マタイは、「イエス様は、人々の生活の中で共に生き、共に苦しみ、一緒にいる人がお腹が減ったら、ご自分のことよりも、あなたのことが心配だと、いつも助けて下さったお方だったよね」と伝えたくって、それを書き留めたのです。のちに教会が、キリスト者一人ひとりが、「そうそう、そういうお方がイエス様だったよね。そのお姿が、お名前を聞くだけで目に浮かんで来るよ」と、言える一人ひとりになって欲しかったからではないでしょうか。そのためには、文章としては不格好かも知れないけれど、同じことを繰り返し語るしか方法がない、と言うようにして、書き重ねたのです。誰もが「あれ、これまた書いているよ。うっかりしたのかなぁ」と心をザワつかせて、でもすぐに私のように気付くんです、「もしかしたら、イエス様ご自身がいつも同じことをしておられたのかも。人が困ったら、お腹が減るということでも、ご自分の心を痛めて、また同じことをしよう、あの日のことを繰り返してあげようと、人々を喜びで、満腹にされた」と気づいて行く。そして分かるんです、「それがイエス様なんだ。そうさ、それがイエス様というお方なんだ」と。マタイ福音書は、そのことに、気付いてもらいたかったんだと思うんです。

 そのイエス様のお姿を知って、私はくしは嬉しくなりました。でもすぐに、ちょっと気になることがあって、更に少し調べを進めてみて、ドキッとしたのです。このとき、イエス様は、人々を地面に座らせておられるので、草が枯れて地肌が見えていた真夏の頃でしょう。いや学者によっては「もう冬が近づいていた」という人もいます。そうであるならばです。すぐ気付くことがあって。もうすぐイエス様は、エルサレムに入城されるということ、つまりこの時イエス様の目の前で、十字架へと向かう日々がイエス様を飲み込もうと口を開いて待っている、ということなんです。皆さん、ハッキリさせたいことは、イエス様は、人々を繰り返し、恵みで満腹にしてあげようとされたのだけれど、でも人々のほうは、そのお方を拒絶するということです。とうとう十字架に架けてしまうほど、拒絶するということなんです。イエス様のほうは「あなたのために何でもしてあげたい、罪の苦しみからだって、救ってあげたい」と、心よじれるほど心配し下さるのに、人間はそのイエス様を拒絶するのです。そこにある大きなすれ違い、不気味なすれ違いが、今朝のイエス様のお姿に、もう始まっているような気がして、私はドキッとしたのです。そしてその故に、「そうなんだ」と気付かされたことがあって。それは、イエス様が繰り返し「あなたを恵みで満たしたい」と歩まれた歩みは、ご生涯の最後まで、消えることなく、薄れることもなく、貫かれた、それが十字架となったんだという事です。つまり、私どもの罪まみれの困窮を御覧になって、「かわいそうだ」と五臓六腑をよじって「あなたを恵みで満腹にしたい」と思われた、それが十字架で死なれるということになったという事です。私どもの罪と過ちと、汚れと背きと、その全ての償いの身代わりに、ご生涯の最後に、イエス様はそこでも与え抜かるのです。それは、パンと魚どころではない、ご自分の命で、満腹にして下さったという事なんです。

 十字架の上に見えるものがある。そこには、「あなたには神と隣人に対して、償い切れていない罪と過ちがあるね。そのあなたには裁きがあるよ。でも、その最大の困窮を、私が何とかしてあげたい」と、身代わりになられた救い主の姿があるのです。十字架の上に、もう一つ見えるものがある、それは、そのイエス様のお心を傲慢にも拒絶して、主イエスを見捨てて、十字架で死なれるままにしてしまった、私の姿です。皆さん、十字架の上で、イエス様の思いと、私どもの傲慢が、重なったのです。イエス様の「あなたを恵みで満腹にしてあげたい」という思いと、私どもの自分勝手さが、その2つが、十字架の上で交差したのです。そして、その貴い交わりの中で、神の恵みは圧倒的だから、私どもは丸ごと、その恵みに覆っていただいたのです。「神から赦される」という主イエスが与えて下さる最大の恵みで、満腹にさせていただいたのです。

 私どもの生活を見詰めて下さるのは、全てのことに「繰り返し、恵みで満腹にしてあげたい」と仰ってくださるイエス様です。ならば、今の私どもの重荷を御覧になって、「かわいそうだ」と思われないはずが無いではありませんか。私どもに「あなたの痛みが、私の痛みとなる。さあ、あの日のように、あなたも恵みで満たしてあげたい」と、御計画して下さらないはずはありません。「そうそう、イエス様はそういうお方だったよね」と主ご自身を信じるのです。そして委ね切る平安の中を、さあ、新しい1週間も過ごさせて戴こうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:41| 主日説教要約

2020年5月17日の礼拝

礼拝説教「かわいそうだ」、マタイによる福音書15章32〜39節。辻川篤牧師。讃美歌312「いつくしみ深き、友なるイエスは」。
教会員の皆様は、引き続きご自宅で、聖書を読み、賛美を捧げ、祈りをあわせて礼拝の時間をお守りください。
この日も、礼拝のライブ配信を行う予定です。ライブ配信はこちら
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