2020年05月10日

説教 『すべてのことを理解できるようにしてくださる』

2020年5月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
テモテへの手紙二 2章1〜7節
2:1 そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。
2:2 そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。
2:4 兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。
2:5 また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。
2:6 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。
2:7 わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。

 この手紙は、パウロの同行者であったテモテを、励ます手紙でした。なぜ励ましが必要だったのか、それはテモテが、激しい苦難に見舞われていたからです。当時の教会は、信者の家で集会をするだけの小さなグループでした。彼らに加わる、敵対者からの圧力は凄まじいもので、誰もが、「教会は生き残れないだろう」と思えるほどのものだったそうです。そんな中で信仰者たち自身も「こんなに苦しい事ばかりなら、信じ続けて何になるのだろう」と、そういう思いが一人ひとりの中に入り込んで、こびり付こうしていた時代なのです。ふと思いました「もしも」と。もしも私どもが「試練があっても神様から恵みをもらえた。信じていて良かった、だからこれからも信じゆこう」と考えるのならです。祈っても祈っても叶えられる願いは一つもなく、恵みが全く見えなくて、そういうことが1度や2度じゃなく、延々と続いたらです。試練を辛抱する力も無くなりそうなほど追い詰められたらです。その時、何も応えてくれない神様を、なお頼ってゆくことに、迷いが始まるのではないですか。「神への信頼をしっかり握らねば」と思っても、指の間から砂がサラサラと落ちて行くように、信頼がどんどん消えてゆく、そんなことになりはしないでしょうか。苦難の日々に、助けを呼ぶ声に何も関わってくれない神様を、なお救い主として頼り続けていくことは人間にとって大変なことなんです。

 どうも人の信心というのは、どこか御利益宗教が混ざっているような気がしてなりません。神との関係を、願いを聞いて貰えるからとか、苦難を取り除いてくれからとか、結局そういう関係で見ている。そういう神様を求めているような気がしてなりません。だから日本では、八百万もの神々が作られたのですよね。そうやって多くの人が、願いを叶えるのが神様の役割だと思うから、神様が自分の願いに応えてくれない時「信じてどうなるんだろう」という不安が起こるのかも知れないんです。しかし、そこでなんです、「ちょっと待て」と思う。神様って、願ったことを叶えてくれるべきお方なのか、と。神と人とは、そういう関係なのか、と。もしも、ご利益で神を計ってしまうならです、「ちょっと待て」と思う。もしも「御利益の在る無し」に、神との関係を据えてしまったら、その先は、行き詰まりしか待っていない…、本当はお気付ですよね。私どもは、人生の中で、解決の見えない苦難に必ず襲われる、そこで私どもが、「自分を助けてくれる神様」という「神関係」しか握っていないのなら、苦難に食い尽くされそうになった時、何もしてくれない神様に不満ばかりが起こって、そこで「神関係」は完全に行き詰まるんです。皆さん、苦難とか試練は、少し我慢したら、頭の上を通り過ぎてくれるというような甘いものではありませんよね。この時のテモテも、苦難はどんどん酷くなる一方で、このあと大迫害時代がやって来るのです。主イエスを信じる者達の命が、消されて行く。そういう時代に、であります。先行きに光が全く見えない中に、今朝の御言葉が届けられたのです。それは、「信じれば、苦難が取り除かれる」という類の、安易な慰めではありませんでした、3節、「苦しみを忍びなさい」であったのです。

 それを具体的に説明しようとして、4節から例え話が3つ加えられました。3つもある、こんなにアレやコレやと例えを重ねたのは、伝えたいことを、なんとかして分かって欲しいからです。私も説教の中で、例え話をしたりします。私の子供の頃の話を始めたりすると、途端に皆さんの中で、ヒョイと顔をあげられる方が数人。それがアッチでもコッチでも、「待ってました」って感じで、その目はランランと輝いている、もう、何を待ってるんでしょうねぇ。「十字架のキリストが」と話し出した時にも同じように「待ってました」と顔を上げて下されば嬉しいんですけど。更に妙なことが礼拝のあとに起こる。それは「先生、あの例え話は、元はどんな聖書の話しでしたっけ」て。それを私に聞きますかぁ、変な人たちでしょ。そういう皆さんに、今は早く会いたいなと思いますけどね。「何とか伝えたい」という思いが募る時、語り手は例え話を始めるんです。この手紙の書き手をパウロとするなら、1節で、「わたしの子よ」とまで言って愛したテモテが、厳しい迫害の中で疲弊しているだろうと心配して、それでもそこで苦難をパッと消してくれる御利益の神様を求めないで、「苦しみを忍ぶんだよ」と伝えたくて、3つの例え話を始めたのです。1つ目は、兵士の例えを用いて「主なる神に、献身的に仕えて生きよ」ということであり、2つ目はスポーツを例にして「ルールに則って、与えられた環境の中で生きよ」ということです。3つ目は農夫を例にして「辛抱強く生きよ」と告げたのです。でも、3度重ねて説明しつつ、しかしそこでパウロはハタと気付いたように、説明をすること自体を止めたんです。3度も説明したから、充分わかっただろうと、説明を完結させたということではありません。本来説明というのは、どこまでいっても頭で、知識で、受け止めることだから、本当には身につかないと気付いたように、パウロは説明することから離れたのです。つまり「テモテは今、苦しみの中にある。そこで生きなきゃならないのに、どんなに完璧な説明をしても、頭に届けるものはテモテを生かすものにはならない」と気付いたように、知識として説明することから飛び退いたのです。そしてでした。いきなり「主は」と、これまでの人間的な「説明言語」とは全く異質な言葉を、告げたのです。「主は」と。パウロはそこで、主イエスに心を向けさせようとしたんです。テモテに、主イエスを指し示したのです。

 苦難の時、苦難を耐える方法論を言われても、その知識・知恵がどれほどの力になるのかと思います。または、「きっと先に実りがあるさ」という励ましを貰っても、また、「スポーツする人は苦しさに耐えて鍛錬する。農夫は汗水流して、実りを得る」と諭されても、「そんなことは僕だって知ってる」としか思えない。辛いということが辛いのに(変な日本語ですが)、方法論を聞かされても、「結局、他人事なんだよね」としか思えないんじゃないですか。それよりも何よりも、横に一緒に座って、むしろ黙って居てくれるほうが慰められたという経験を、皆さんはされことはありませんか。さらになんです。私は、そのような静かな慰めだけでなく、大きな慰め、躍動する慰めと言いますか、ググッと心の奥にまで届いた、確かに私を慰める、力ある言葉を受け取ったことがあるのです。それは、「祈っているよ」という言葉でした。つまりそこで私は、一瞬にして、自分の苦労を見ることから、主イエスを見上げることへと心を向け直させてもらったのです。パウロは、愛する信仰の子・テモテに、「苦しみを忍ぶんだ」ということを分からせるために、十分に説明をしたあとに、そんなものでは苦難のテモテを立ち上がらせることは出来ないと気付いたかのように叫んだのです、「主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるから」と。そうやって心をイエス様へと向けさせた。「主イエスが全部して下さるから。あなたが納得できるために必要な、すべての理解も、プレゼントしてくださるから」と告げたのです。だからテモテが自分自身で、「どうやって苦しみの中で、耐え忍んでゆけるんだろうか」と、考えあぐねなくて良いんです。主イエスにお任せしようとさえすれば良い、幼子のように素直に、ただ「主よ、主よ」と御名を呼べばいい。そうしたら主イエスが、今をどうやって忍ぶのかをも理解させてくれるから、ということなのです。苦しみの中にあっても、忍耐して生きることを、本当に自分の生き方にできるのは、主の御業、聖霊の助けにのみ依るからです。

 それも「すべてのことを理解できるように」とある「すべて」とは、「一つの欠けもなく」という意味です。つまり「兵士の従順さ」も「スポーツマンの鍛錬」も「農夫の忍耐」も、どれ1つ欠けることもなく、あなたの身に着くようにしてあげるという意味なのです。テモテは苦難の中で、もう十分苦しんでいました。そのことを、神様が知っておられるのです。大迫害時代が来て、テモテが、心も魂も弱り出すことを分かっていて下さるのです。そのテモテに、「神様が、重荷はもう十分だ。それ以上もう自分で悩まなくて良いからと言って下さるよ」と、パウロは伝えたいんです。「思い詰めなくて良い、ただ主を見上げるんだ。主が、あなたに必要なことを、すべてプレゼントして下さるのだから」と。それは、主イエスが私どもの生活に、必ず介入して来られるという宣言でもありました。主の霊は、私どもの生活の中で働かれます。それは、私どもを襲う苦難の日々を、その只中で私どもが忍べる者となるためにです。そこで私どもが「いま神様が共にいて下さる。だからこの日々を忍んでゆこう」と自分で決意できるまで、主ご自身がじっと、苦難の只中に私どもと一緒に、座っていて下さるということです。

 そう思い至った時、アッと思いました。本当の苦しみ、本物のどん底をなめ尽くされたのは、私なんかじゃなくて、イエス様ご自身だったと気付いたからです。人が味わう苦しさ、悲しさ、辛さの全てを、イエス様は知っておられるのです。全部ご自分が背負われたからではありませんか。人々から嫌われ、嘲られ、ばかにされ、味方と思っていた弟子からも見捨てられて、心はボロボロ。体だって、鞭を受けた背中は、肉が裂けている。そして十字架に釘付けされたのです。十字架の刑罰というのは、身体的に残酷な刑であるばかりでなく、神の敵として、罪人として、神から見捨てられるという宣告を受ける刑です。イエス様は御子なのに、父なる神が見えなくなる不安も、辛さも、見捨てられる怖さも、全部知っておられるのです。十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエス様。だから、余裕をもって苦難を味わったなどということでは決してありません。イエス様は、あらゆる苦しみを舐め尽くされ、疲弊し、うなだれ、失望を味わったお方なのです。それはただ一つの理由からです。それは、苦難を負う私どもに連なって下さるため、罪の重荷まで背負って下さるため、そこで「あなたの重荷は私が分かっている。辛いよね」と私どもと同じになって下さるためだったのです。それが「人と神様との関係」なんです。本当の「神関係」なんです。その神の御子イエス様が「あなたの今の生活で、苦しみを忍んで生きる人となって御覧。それが必要なことを、私が理解もさせてあげるから」とおっしゃって下さるのです。

 今朝、私どもは、「主は、すべてのことを理解できるようにしてくださる」と語りかけられています。このみ言葉を、心の底で握ろうではありませんか。そして、「あなたと一緒なら、今日を忍んで生きられます。あなたが共におられるのですから」と、祈りつつ、新しい一週間を歩んでゆこうではありませんか。

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全ての集会の休止期間を延長

右向き三角1教会で集う全ての集会休止の延長について        
現在の状況を考慮して、教会に集う礼拝と、全ての集会の休止期間を延長します。その間、教会への出入り制限を延長いたします。主日礼拝は、それぞれの家庭でお守りください。
右向き三角1全員「家庭礼拝」の日々を続けます。そのために、
❶「宅配セット(説教梗概スペシャル版など)」を、近隣会員には宅配奉仕者(14人)によって、遠方の方は郵送によって、お宅のポストにお届けしています。もし「何も届かないよ」という方がおられましたら、教会にご連絡ください。すぐに発送体制をチェックさせていただいて、お届けできるようにいたします。
❷教会ホームページでは、主日の夕方までに、その日の説教動画を配信しています。
同じ週の中で、主日と同じ聖書個所で礼拝を持つことが出来るようにと願っています。

右向き三角1「会衆参加の礼拝」再開について       
「会衆参加の礼拝」再開の日程は、見通しがつき次第、組会連絡網を通して皆さんに連絡をさせていただきます。
右向き三角1ただし礼拝が再開されても、当面は以下のような礼拝形式になります。
・礼拝プログラムは、短縮して行います。
・礼拝堂の入り口に、手指用除菌アルコールを置い
ています。入堂の際には、毎回必ずお使いください。また、マスクをお持ちの方は、賛美の時なども常時お付けくださいますようお願いします。
・お席は、間隔をあけてお座りください。できれば、
手を伸ばしても届かない範囲です。2階ギャラリーも礼拝堂ですので、ご利用ください。
・2階ホールでもモニターを通して礼拝に与れます。
・換気のために、ドアや窓を開けます。
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2020年5月10日の礼拝

礼拝説教「すべてのことを理解できるようにしてくださる」、テモテへの手紙二 2章1〜7節。辻川篤牧師。讃美歌399「なやむものよ、とく立ちて」。
教会員の皆様は、引き続きご自宅で、聖書を読み、賛美を捧げ、祈りをあわせて礼拝の時間をお守りください。
この日から、礼拝をライブ配信いたします。
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