2020年05月03日

説教 『神は遠く離れてはおられません』

2020年5月3日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
使徒言行録17章27〜29節
17:27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
17:28 皆さんのうちのある詩人たちも、
  『我らは神の中に生き、動き、存在する』
  『我らもその子孫である』と、
   言っているとおりです。
17:29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

 今朝は、代々の教会が選んで来た使徒言行録17章を開きました。その27節、「探し求めさえすれば、神を見いだすことができる」と聞いた時、私は先ず思ったのです、「たしかに人間は、神様を求める時があるよね」と。順調な時は、自分のことしか考えていないかも知れません。でも、順調なママ最後までゆける人って、いないんですよね。思ってもいなかった壁にぶつかるんです。苦難や病、思い煩いや、人間関係の崩れなど、色々な嵐がやって来る。そこで人は不安を抱えてオロオロし、心も弱って来るのではないですか。その時にです。人間は誰もが、神に造られた命だから、本能的に、その造り主なる神へと心が向かう。そこで「助けて!」と神を求めて叫ぶのだと思うんです。ドイツの聖書学者が、このように言っていました、「全人類が、空気と水とパンのように生きるために必要とするものがある。それが、神を見いだすということだ」と。自分の力でどうしようもないことを抱えた時、人は「私は、どうしたら良いんだ」と叫んで、それに応えて下さるお方を探して、彷徨い出すのではい出すのではないのでしょうか。神を、探し求めるのです。そういう人々にパウロが語ったのです、「探し求めさえすれば、神を見いだすことができる」と。

 この言葉が語られたのは、パウロが伝道旅行をして、アテネの町に入った時でした。アテネとは御存知のとおり、ギリシア世界の中心です。そういう町でパウロが見たものは、数々の金や銀、木や石で作った神々の偶像だったのです。その数3000体。文化文明を誇る者たちが、それでも偶像にすがっている様子を見たのです。私どもは手で作られた偶像は持ってはいません。お守りなんて持っていないけれど、でも、自分のお守りのようにお金を持つ、権力を求め、力を持とうとするのではないですか。それがあったら安心だと考えるからです。でもいつしか、それらが偶像の神になっていこともあるんじゃないですか。アテネの人々も、左手で偶像を拝んで、右手でお金を拝んでいた。それでも安心なんかできなくて、あれもこれもと偶像を作り続けたのです。でも作っても作っても、心と魂が満たされない、彼らは渇いていたのです。そういう人々を見て、パウロは語り出したのです「あなた方はもう十分求めて来た、でも見当違いの所を探していたのだよ。石や木でお守りを作っても、どれだけお金を貯め込んでも、不安ばかり募ったのは見当外れだったからなのだよ」と。そして「向きかえれ、真の神・イエス様の方へと。そこであなたは、あなたを潤すお方を、神を見いだすことができるから」と、そう語り出したのです。

 それもです。パウロはそれを、信仰深い人々に語ったのではありません。人々は神を求めてアッチにフラフラ、コッチにフラフラ、ソッチを拝んだり、ドッチも拝んだり、向こうにご利益があると聞けばそちらにも、すり寄る。そんないい加減な人々だったから、パウロは、人々の信仰熱心に期待したというのでは決してないのです。彼が人々に、「探したら、神を見いだせるよ」と話せたのは、その理由は1つしかありません。それは、神様の方が、人々に出会うことを強く欲しておられるということ、神の側の熱心さによるということ以外ではありません。皆さん、人間が求めれば神様に出会えるのは、私どもが熱心で信仰があるからではありません。人間は誰も彼も、自分の思い通り遣りたくて、だから本当は神様に関わられるのは面倒で、自分勝手に生きてゆきたくて、そうやって神に背を向けて生きる者でしかないんです。何かして欲しい困り事がある時だけすり寄る、そんなご都合主義。図々しくも、今まで知らん顔していたのに「神様!」って、神を求めて叫んだりする。そんな輩なのに、神様が私どもに駆け寄って下さるというのは、神様の側がいつも、寝る暇も無く私どもを見詰めて、神が私どもを求めておられるということ以外、理由は1つもないのです。私には、2歳と1歳半の孫がおりまして。ご存知でしたよね。「孫、孫」という爺さんになっちゃいましたから。スマホには孫の写真と動画でメモリが一杯の爺さんです。最近、孫がトコトコ歩き回るんです。それも「そっちは危ない」という方へ行くのが得意なんです。なぜ「ダメ」って言われる事をするのが、あんなに上手なんでしょうね。そこで案の定、小石に躓いて「ママー」って泣き出すんです。そうしたら、です。これまたママというのは、どうしてあんなに甘いんでしょう。怒れば良いのに、「どうしたの〜」って駆け寄って抱っこしている。ママと2歳児は(3歳児は知りませんよ)「あなたが悪くても良くても、ただ愛している」、そういう関係なんですよね。神様は私どもが、ご利益しか求めない2歳児人間なのに、善人であろうが悪人であろうが、躓いて転んで「神様!」って求めたら、その瞬間に駆け寄って下さる、それを欲っしていて下さるお方だというのです。今朝、私どももそれを知って心からホッとして、嬉しくなるのではありませんでしょうか。

 さてパウロが、ここで話しを終わってくれていれば、なんて良かっただろうと思います。それなのに、ホッとしている私どもに、27節後半で、ちょっと気になることを加えていたのです。それは「神はわたしたち一人一人から、遠く離れてはおられません」でした。この「遠く離れてはおられない」と聞いて、あれ?と思ったのです。「遠く離れてはいないって、じゃあ、ちょっと離れているの?」と。皆さん気になりませんか? 大切な人から「一緒に居るよ」と言われて嬉しくなって、でもそのすぐ後「遠く離れては、いないからね」と言われたら「えっ、一緒じゃないの? ちょっと離れてるの? それって結局、どのへんにいるの?」と。どうも私これが気になって、考え込んでしまいました。数日ほど思い巡らしていて、ふと気づいたことがあったのです。それは、私も今まで「神が共におられて、恵みを得た」と嬉しく思った時があって、その心のまま揺れずに、神は共におられると信じて行けば良かったのに、その人生の途上でなのです、迷い道に入り込むことがあったのです。病気とか、先行き不安とか、仕事での思い煩いとか、そういう事が、神様と私との間に入り込んで、気付かない内に私をベールで覆うようにして、神との間に隙間を作ったのです。小さな、不信というベールが私どもを包んだら、それが薄いものでも、傍にいて下さるはずの神様が、そのベールに遮られて、見えなくなってしまう。そしてそんなベールに包まれたら、私どもはその中で縮こまり、独り言を始めるんです、「あのとき神様は共におられると思ったけれども、でも今、ここには居られないんじゃないか。神様は私の傍から去って行かれたのかも。苦難の中で私は置いてきぼりにされたのかも知れない。だからこんなに苦しいんだ。一人ぼっちで、誰も守ってくれないから」と。そして、不信という暗闇の中を、独り彷徨い出すのですい出すのです。

 皆さん、人と人との間にもちゃんと神がおられるということを、見失ったら。私どもは隣人を愛せなくなりますよ、知っておられましたか? 自分と隣人との間に、神が居られることを見失ったら、人を批判する思いが暴れ出すからです。隣人も、神様から愛されている大切な宝です。それなのに、その神様を見失ったら、人と人とはじかにぶつかって、相手に自分の言うことを聞かせる“陣地取り”が始まる。腕力と、言葉による力づくで、自分に従わせることでしか安心できないし、自分が主導権を握っていないと平安でいられなくなるんです。でも、です。人と人との間に、ちゃんと神様がいて下さって、神様が私を、隣人に、「さあこれが、我が愛する人だよ」と紹介してもらえたら、また隣人のことも「これが我が宝の人だよ」と紹介されて「さあ互いに支え合いなさい、愛し合って過ごして御覧、2人とも私が守るから」という御声を信じるなら、家族や友人、隣人と睦ましく暮らしてゆけるのです。だからもしも、そうあるべき私どもが、神様との間を遮るベールに覆われてしまったらなんです。神が近くに見えないと言うだけでなく、隣人との平和も見失ってしまうんです。そしてそのベール1枚は、薄いものであっても、決して侮れないと知っているのではありませんか。旧約聖書で、創世記の初めから延々と記されているのは、神様が傍におられるのに、人間が勝手にベールを作って、それに覆われ、神様が見えなくなって自分中心に歩く姿です。そして神様は、いつもそれを嘆いておられたのですよね。だから実は、人間の弱さを、誰よりも知っておられるのは、神ご自身と言えるのです。神様が「共にいよう」と願っておられるのに、私どもが勝手に、神から離れる覆いを作ったのです。それが聖書の示す「罪」なのです。そこで人は、人と神、人と人との関係が、破れる痛みを抱えたのです。そしてその痛みをも、神様は知っていて下さるんだ、ということなのです。

 神は知っておられる、だからでありました。その覆いを破り去ろうとしてくださったのも、神ご自身であられたのです。引き裂かれた関係が、人間にとって本当は辛い事なんだと、天の父が分かっていて下さったからです。そしてそのお覆いに、神様が風穴を開けるためになさったことは、ご自分の御子を私どもの中へとお送り下るということ、私どもが作った覆いの中へとお送り下さって、闇の中に生まれさせて下さったという出来事、つまり御子のご降誕であったのです。天の父は、ご自分は天の安全地帯にいて、高い天から、人間の闇の外から、関わられたのじゃありません。闇の内側に来られて、闇の中から、神との繋がりを取り戻すための風穴を開けて下さったのです。御子なる神が、御自分の血潮を流しながら、肉を傷だらけにされながら、命を引き換えにして、ベールを破られたのです。それが、十字架の出来事。私どもが神を見いだし得るのは、イエス様によって覆いを取り去って頂くことを通して、唯それによってだけなのです。

 祈るのです、「十字架の上で血潮を流されたのは、私が作ってしまった覆いを、罪を、神の御子が打ち破って下さるためでした。主の十字架、わがためなり。信じてあなたを見上げます」と。そう心から祈る時「神は、ずっと私を見詰め、共におられたのだ」と気付けるのです。今朝「神は遠くに離れてはおられません」と聞きました。それは今の私どもにとって、必要な御言葉だったのではありませんか。神様は私どもの新しい1週間も、共に歩んで下さいます。平安を頂いて、過ごしてゆこうではありませんか。
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2020年5月3日の礼拝

礼拝説教「神は遠くに離れてはおられません」、使徒言行録17章27〜29節。辻川篤牧師。讃美歌82「ひろしともひろし、わが神の愛よ」。
教会員の皆様は、ご自宅で、聖書を読み、賛美を捧げ、祈りをあわせて礼拝の時間をお守りください。
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