2020年05月31日

『日々の聖句』2020年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年5月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(金)
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。         (マコ5・22)

 ヤイロの娘が、死にそうだった。その町の近くにイエス様がやって来られると知ったヤイロは、一目散にやって来る。群衆をかき分けて、イエス様の足もとに来て、ひれ伏して願ったのだ、「助けて!」と。
 ふと考えた「私は、誰の所に駆け寄っているだろうか」と。自分の遣り方でジタバタした後に、やっと祈り始める。ヤイロのように一直線にイエス様にすがっていないかも知れない。真の神が傍におられるのに。


●2(土)
(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。   (1コリ13・7)

 「愛の賛歌」と呼ばれるカ所だ。十三節にもわたって延々と「愛とは何か」が語られる。いや「この愛を生きよ」と勧告されているのだ。厳しい命令なのだ。
 私も結婚式の時、必ず読んで来た御言葉。一言一言かみしめながら、「あなたがたはこれから一層忍べ、信じ合え、互いに耐えよ」と。人生バラ色って顔をして聞く二人に「本気の勧告なんだぞ」と言って来た。「ここに留まるなら生涯、幸せは続くから」と。夫婦関係以外にも然りだ。


●3(日・憲法記念日)

主日礼拝説教
  全員「家庭礼拝」
         辻川篤牧師




●4(月・みどりの日)
二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。   (使8・15)

 「サマリア」とは、ユダヤの人にとっては忌み嫌った犬猿の仲の人たちが住む場所。そこにもペトロとヨハネが遣わされる。そして自分たちと同じように神の霊が注がれるようにと、その人々のために祈ったのだ。同じ神の民とならんがために。
 最も嫌った隣人なのに、最も大事な恵みを主に願うなんてスゴイ。好きな人だけ愛するボクとは大違いだ。敵を愛し迫害する者のために祈ることに本気に生きる。本気の信仰がボクには足りなかった。


●5(火・こどもの日)
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。   (ルカ15・7)

 九十九匹の羊を野原に残して、迷子の一匹を探す羊飼いの例え話。その一匹とは、罪のゆえに神様のもとから離れた人のこと。「自己中心で歩くお前だ」と言われている。そして、その一人を探し出した時の御父の喜びの大きさを告げている。
 「我は罪人、迷い出た一匹」と気付けた者にだけ、恵みがある。義人ではなく、罪人と悔いた者が、恵みの受け取り手だ。

●6(水・振替休日)
イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 (マコ3・5)

 目の前に、片手の萎えた男が「癒されたい」と願いながら立っている。でも人々は、「律法によれば、今日は治療も禁止の安息日だ」と、心を頑なにしている。それを見たイエス様が、愛することを優先しない人々の心を悲しまれたのだ。
 私も自分の「こうあるべき」が「愛すること」の上に立つ時、イエス様は悲しんでおられる。私の傍で、私を見詰めながら・・・


●7(木)
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。   (1ペト1・22)

 イエス様から真理を受け取り、魂を清められたら、そのあとは「恵みを感謝」と言っているだけでは終われない。キリスト者には、責任が生じる。それは貴い責任。それが、深く愛し合って生きることだ。
 神様から戴き物をするだけでなく、応答(お返し)をする。それは親しい間柄。さらに戴き物が高価だと分かる人が、お返しも大きい。懸命に愛して生きよう。


●8(金)
わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。    (ルカ6・46)

 イエス様を怒らせた。それはなんと、主の弟子たちだった。
 一番御言葉を聞いて学んでいるはずの者なのに、一つも生き方が変わらない。相変わらず自分の価値観の中を生きていて、それなのに「自分は少しは良い人間だ」と思い込んでいる。そういう弟子たちに向かって激しく怒られたのだ。「なぜ御言葉を生きないのか」と。
 キリスト者の私に言われている気がしてハッとした。襟を正して生き直さねば。


●9(土)
しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。     (1コリ6・11)

 あなたは今や、主の十字架によって義とされていると言われる。でもこの「しかし」が気になって聖書を見たら、以前は不義を行い強欲で、人を悪く言い、物を奪っていたと告げられていた。ヒヤッとした。
 日常生活が、救われた以前の姿のままだと気付いたから。申し訳ない、それは十字架の死を無にする行為だから。救われたはずの私が、主を悲しませる。今日こそ生き方を変えよう。聖とされた姿に。


●10(日)

主日礼拝説教
「会衆参加の礼拝」再開予定
         辻川篤牧師




●11(月)
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」   (マタ18・22)

 ペトロがイエス様に、「赦すのは一回や二回でなく、七回(つまり完全にという意味)ですね」と物知り顔で言う。「よく分かっているね」と褒められると思った。しかしイエス様は「七の七十倍(完全×無限にという意味)だよ」と諭されたのだ。
 自分の傲慢さが、赦すことにさえ現れる。「これだけ赦したら充分だ」と勝手に一線を引いて満足している。イエス様はその一線を叱られるのだ。無限だ、と。


●12(火)
すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。   (ヘブ12・14)

 「すべての人との」と言われる。自分と気の合う人とだけではない、避けている人や気に食わない人とも、ということ。なんて大きな目標だろうか、と思ってドキッとした。聖書を開いて続きを読んだら「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」とあったからだ。
 単なる努力目標なんかじゃなかった。このように生きないと、主を見失う。大変なことになるんだ。最も失いたくないお方を失うんだ。真剣な招きなんだ。


●13(水)
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。     (2コリ5・21)
   

 「神と和解させていただきなさい」と語られた後に、このみ言葉が続く。神様との関係が断絶していたからということ。神様にすがりたいことがいっぱいあるのに、関係を崩した原因は、全て私の神への背き。だから和解が必要だった。でも! そのために必要なことを、神の側がして下さったと、今日のみ言葉は告げているのだ。
 「我が主」と親しく呼べることは、普通の恵みじゃない。破格の恵みだったんだ。


●14(木)
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。   (ヨハ2・25)

イエス様が多くの奇跡をなさったので、たくさんの人々がイエス様を信じた。その出来事の直後に、この御言葉が告げられている。まるで「お前たちは、自分の欲していることを満たしてくれる召使のような魔術師を求めているだけだ」と見透かされている。イエス様を見ても、主ご自身を喜ばずに、奇跡だけを求める心が見抜かれている。「奇跡を起こす主ではなく、十字架の主にこそ従いたい」と祈り求めたい。今日が、信仰再出発の日だ。


●15(金)
霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。    (エフェ6・17)

 悪魔の策略に対抗して戦うための「神の武具」が並べられる。胸当て、盾、兜も。その中に、剣も挙げられるのだ。戦いのために万全の準備が提供される。それは、襲い来る悪は強敵だからだ。
 それにしても神の言葉の剣って、どういう風に使うんだろう。御言葉を誰に突き刺すんだろう・・・。そうだ! 悪は私の内に起こる自己中心の思いや自己正義化の誘惑。そこに御言葉を突き刺すんだ。「御言葉に従え」と切りつけるのは私の傲慢。ン? 悪の本陣、我が内にあり?!


●16(土)
ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。    (使7・60)

 キリストを伝えたステファノが、暴徒化した群衆の投げつける石によって殺害される。そのとき彼は主に祈って叫んだのだ、「この人々の罪は、自分が何をしているのか知らないで犯している。彼らをも私は愛している。だからこの罪を彼らに負わせないで」と。そして殉教したのだ。
 イエス様の福音を伝える時、石つぶてを受けることになるのかも。言葉や態度による拒否が。でもその一人を愛したい。その一人が救われることが、喜びだから。


●17(日)

主日礼拝説教

          辻川篤牧師



●18(月)
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。     (マタ2・10)

 イエス様がお生まれになったことを示す星が輝いた時、東方の博士たちは喜びに沸いて旅に出た。真の王の中の王に会いたくて、拝みたくて。
 たった一つの小さなしるし。夜空の星という小さなしるしを見ただけで、喜びに溢れた彼ら。それに比べて私は、たくさんの主の言葉を受け取っている。御言葉が主ご自身として迫って来る。しっかり受け取らなきゃ。博士たちは馬小屋に駆け込んだけど、私も聖書に駆け込まなきゃ。


●19(火)
神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。         (ガラ3・18)

 善い行いが出来たら神様から恵みを戴けるのではない。ただ神が「与える、無償で与えたいから」と約束なさったことを、神が守るというゆえにだ、と告げられているのだ。神の側の自由な決定権。人間の側のどんな条件にも依らないのだ。
 だから「罪人であるにもかかわらず」恵みを戴けるのだ。その嬉しさはきっと自分に何の条件も見い出せない貧しい人、罪まみれの人にこそ大きい。今日、罪を直視しよう。恵みの貴さが味わえるから。


●20(水)
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。         (ルカ6・21)

 「エッ、泣いている人が幸いなんて、どういうこと?」と驚いて聖書を開いたら、イエス様の『平地の説教』(マタイの山上の説教の並行箇所)のカ所だった。全く貧しくさせられ、生きる支えが自分の中に何も無い人は、神にのみ頼って、そこで神様から恵みを受け取る人になると言うのだ。
委ねるしかない人が、恵みの最も近くにいる。自分の非力を見詰めて、手を主に挙げよう。「主よ、主よ」と生きよう。そこで賜る恵みに、笑みがこぼれるから。


●21(木)昇天日
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。   (1ヨハ2・17)

 「世にあるものを愛するな、欲するな」と戒められる。なぜなら世にあるものは、全てはかなく過ぎ去って、消えるものだから、と。ならば何を求めて生きるのか。それが、神の御心・神の言葉を生きることなのだ。それは、永遠の命に繋がる道。
 2つの道が目の前にある。自分の欲が望む道と、神が望まれる道。今日という一日も、その選択の連続だ。踏み出す道を見誤るな。祈りつつ、考えて、選べ。

●22(金)
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。  (使2・32)

 イエス様の十字架の死とご復活を語るペトロの説教での言葉だ。その中で「このイエスを」と言われた「この」って「どの?」と思って聖書を読んだら、旧約の時代から神によって告知されていた救い主の到来のことだった。預言が、「このイエス」に成就したのだと言われていたのだ。
 私もずっと救いを望んで来た。その救い主の到来が、あなたにも来たよと告げられる。改めて「私の救い主よ、イエス様!」と仰ごう。望みの実現がここにあるから。


●23(土)
擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。    (ルカ12・33)

 イエス様が「思い悩むな」と語られる話しの中にある一つだ。財産への思い悩みについて、驚くことに、まず「売り払って施せ」と。自分のためでなく隣人のために使ったら、天に財産を蓄えたことになるから、と。その宝は誰も盗めないから、と。
 人は老い先も豊かでいたくて蓄えるのだろう。でも主はそのやり方は「思い悩みを蓄えているだけ」と言われる。隣人を愛したら、そこに豊かさは溢れるからと。神と人を愛する、人生そこに尽きるのかな。


●24(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。   (使12・5)
 

 ヘロデ王はヤコブを殺し、ペトロも投獄した。この危機を前にして、教会は祈ったのだ。打倒ヘロデに、拳を挙げて決起したのではなく、神に委ねて祈ったのだ。
 教会は、信徒たちで埋め尽くされていただろう。大音声だったか、静寂だったかは分からない。でも思いは一つとなって主に向かっていた。そこに神の御業が起こったのだ。祈りこそ武器だ。神の武具だ。


●26(火)
怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。    (コロ3・8)

 不従順な者として歩んで来た生き方を、「捨てよ」と言われる。神の怒りがあるからだ、と。そして、その生き様のこれらだと示されたのが、今朝のみ言葉だ。
 一つひとつを見て考えた。「どれもが、心の奥にいつもへばりついていて、私の心と一体になっているものばかりだ」と。あっ、と気付いた。「これらを捨てることは、結局私を捨てること。古い私を脱ぎ捨てることなのかも」と。新しい私に、日々新しくされねばならないんだ。


●27(水)
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」   (ヨハ6・9) 

 男だけで5千人の大集会に、集めた食料はごく少し。そこで弟子が主に言ったのだ。「どうしようもないでしょ」、と。
 目で見た物を常識的に判断して生きる方法がある。でも信仰の生き方は、そこにはない。微塵もない! 信仰生活とは、まずイエス様に「私はどうしたら良いですか」と祈って、聞いて、従う生き方。私の心よ、そちらを選択するんだ、今日も!


●28(木)
わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。    (ルカ10・16)

 イエス様が弟子たちを教えて、悔い改めない町の人々のことをこのように言われたのだ。「私の言葉を拒むのは、父である神ご自身を拒む者なのだ。神を拒んで軽い罰で済むはずがないぞ」と。
 主の言葉(聖書の御言葉)と、自分の常識が持っている言葉・生き方とを、天秤に掛けている場合じゃない。むさぼるように御言葉を探して、自分のものにしなければ。神様から「お前は私を拒む者」と烙印を押されるなんて絶対イヤだから。


●29(金)
すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベタイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。  (マコ1・20)

 十二弟子のゼベタイの子ヤコブとヨハネを呼ばれた時、立ち上がった二人は財産も地位も家も失ってしまった。それでもイエス様に従う方を喜んだのだ。
 主は彼らを招く時、彼らが一切を捨てると信頼しておられたのだろうか。もしかしたら彼らの決意というよりも、主が彼らを信頼されるお心が一途だったのかも知れない。主に呼ばれた全てのキリスト者には、それと同じ信頼が寄せられている!


●30(土)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。   (2テモ1・7)

 福音を伝えるために、キリスト者は苦しみを負うことになる。しかしその者にこそ神の力が降る。聖霊が降るのだ。「臆病になるな、分別を備えよ。愛を持て。その全てを、聖霊が与えてくれるから」と。
 神の力であり、神ご自身である聖霊がキリスト者に降った。それは、私にも。そしてそれは、神の目的を果たすためにだ。主を証し、福音を伝えるには勇気がいるから。主よ、私の小さな口をも用い給え。


●31(日)聖霊降臨日

ペンテコステ礼拝説教

         辻川篤牧師

    礼拝後、ペンテコステ祝会予定

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:35| 『日々の聖句』

2020年5月31日の礼拝

次週は聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。記念礼拝説教「永遠にあなたがたと一緒にいる」、ヨハネによる福音書14章15〜17節。辻川篤牧師。 讃美歌499「御霊よ、降りて むかしの如く」。
教会員の皆様は、引き続きご自宅で、聖書を読み、賛美を捧げ、祈りをあわせて礼拝の時間をお守りください。
この日も、礼拝のライブ配信を行う予定です。ライブ配信はこちら
説教動画の配信も併せてご利用ください。こちらから
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ

2020年05月24日

説教 『わたしの声を聞きたまえ』

2020年5月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編27編7〜10節
27:7 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き
   憐れんで、わたしに答えてください。
27:8 心よ、主はお前に言われる
  「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
   主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
27:9 御顔を隠すことなく、怒ることなく
   あなたの僕を退けないでください。
   あなたはわたしの助け。
   救いの神よ、わたしを離れないでください
   見捨てないでください。
27:10 父母はわたしを見捨てようとも
   主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。

 今年の4月12日は、教会の大祝祭日イースターでした。しかしもう一つ4月12日ということで覚えているのは、「その日から、この礼拝堂に集って一緒に礼拝に与ることが出来なくなった」ということではないでしょうか。私が皆さんの顔を見ることが出来なくなって、もう7週間が経つのです。寂しい「7週間」という日々です。でも実は、4月12日から数えて7週間という数え方は、教会暦にとって意味がある数え方なのです。それはイースターからの7週間を、教会は「復活節」という一括りでくくるからです。今朝は復活節最後の主日です。さらに代々の教会は、その主日ごとに個別の名前まで付けて来ました。その名前を聞いたら、キリスト者たちが自分の信仰をどのように培ってきたのか、それが現れるようにとの思いを込めてです。今朝の主日の名前は、詩編27編7節から採られました、それは「わたしの声を聞きたまえ」という名前です。キリスト者の生活の中に、「わたしの声を聞きたまえ」という祈りが、途絶えることはなかったということを表わすのです。そして今朝、改めて思います。この言葉は、過去の信仰者たちの祈りであるばかりでなく、今の私どもの心の中にある言葉でもあるようだ、と。

 この詩人は神様に向かって、まるで大声で叫ぶように言います、7節「主よ、呼び求めるわたしの声を聞き、憐れんで、わたしに答えてください」と。これは元々の聖書の言葉を見ますとブツブツと切れていて、「主よ。聞き給え。憐れみ給え。答え給え」と、必死にすがり付くような文面になっているのです。きっと、泣き叫ぶことしかできないような現実が、この詩人にあったからでしょう。私どもも自分の生活を振り返ってみたら、彼のような窮状を経験することがあるのだと思います。詩人が「主よ、聞いて下さい」というのは、誰もほかに聞いてくれなかったからですよね。私どもも相談したいことがあるとするでしょ。そのとき家族が傍にいるとするでしょ。子供は小さい頃は、親に相談しなくっちゃと話し出します。すると大抵「それは、お前のココとココが悪い。もっとこうすべきだ」と、きついダメ出しをされて、「エー、相談したら怒られるの?」と泣きたくなって、さらに「もっと頑張れ」と追い詰められてしまう。妻が夫にですね、「ちょっと聞いてもらいたいことがあるのだけど」と話しかけたら、「それはお前のココとココが悪い。もっとこうしなきゃ」とダメ出しをされて、「私が悪者なの?」と泣きたくなって、さらに「もっと頑張れ」と追い詰められてしまう。人は、ただ聞いて欲しいだけなのに、それを聞いてもらえないなら、心配事とか心の中の重荷は、行き場を失ってしまうんじゃないですか。この詩人は、誰にも聞いてもらえなかったのです。だから、心の底から絞り出すようにして、「主よ、聞いてください」と叫んだのです。さらにです、次の「憐れんでください」というのも同じでしょう。「憐れむ」という言葉は、本来の意味は、「恵み深く」とか、「好意を寄せる」という意味の言葉です。また次の「答えてください」というのは、「無視しないで」という意味です。つまりこの詩人を囲んでいる状況は、誰からも好意を寄せられず、周りから無視されている状況なのです。そんな詩人が、ついに神様に向かって叫んだのです、「あなただけは、私の話しを聞いて下さい。憐れんで下さい。私を無視しないで下さい」と。そしてこれは叫びであると共に、祈りでした。詩人は神様を知っている信仰者だったから、虚空に消えるような叫びではなく、彼は祈りの言葉として「わたしの声を、どうか聞いて下さい」と、神に訴えたのであります。

 その時、でした。その祈りの中で、詩人は、アッと気付かされたことがあったのです。私よく「アッと気付かされ」とか「エッと思った」とか「ウッと気付いた」とか言いますでしょ。「牧師って、変なこと思うんだなぁ」と不思議に思っている方もおられるかも知れませんが、でもこの「アッと気付かされる」って、聖書を読む時には大事なことなんです。なぜなら聖書って、生ける神の言葉として、私に語りかけられている生の言葉ですよね。それを聞き取ろうとしたら、その言葉を辞典で調べたって仕方なくて、「あなたの言葉が聞きたい」と耳も心も傾けるしかないんです。聞くという行為はそもそも人格的な行為なんです。「神と私」「汝と我」の人格的行為なんです。そうやって聞こうとした時にです。神の言葉は本来、天地創造の神の言葉なんですから、たかだか人間が有限な知識で理解できるはずもなく、だからもしもです、神の言葉を悟らせていただけるとしたら、それは神様ご自身が「分からせてあげるから」と助けて下さった時だけなんです。つまり、聖霊なる神が「あなたの心を開いて、贈り物として神の言葉を分からせてあげる」と働いて下さった時だけなんです。それは誰にとっても、祈りの中で起こされます。そのとき人は「アッと気付かされた」としか言いようがないようにして、御言葉の核心に触れることが出来るのです。この詩人も必死に祈る中で、アッと気付かされたことが起こりました。それを書き留めたのが8節なのです「心よ、主は、お前に言われる。わたしの顔をたずね求めよと」と。つまり、「主は私に、ご自分の御顔を尋ね求めて良いよと言って下さっている」ということであったのです。詩人はすがるしかない祈りの中で、「ああ私は、神を呼び求めて良いんだ。神様と私は、そういう関係でいるんだから」ということに、気付かされたのです。

 旧約聖書の民にとって、神様が「わたしの顔を尋ね求めよ」とおっしゃったら、すぐに思い浮かべることができる「神の御顔」がありました。それは父祖たちから聞いて来た出エジプトの出来事があったからです。彼らは、エジプトの国に奴隷となっていた人々です。毎日が苦しくて「誰かわたしの声を聞いて下さい。主よ、憐れんで下さい、わたしに答えて下さい」と叫んでいたのです。そこに、壮年男子だけで60万人の民が奴隷の国から脱出するという出来事が、神様によって起こされたのです。その日、人々は知りました、「主こそ、私たちの助け」と。それをこの詩人も9節で「あなたはわたしの助け」と告白したのです。「神様こそ私の助け。あなたが共にいて下されば、それだけで他は何もいらない。そこが私の居場所」と。私、20〜30年前に犬を飼っていました。シェットランドシープドックで、牧師館に来る前には、夏になると相模湖にあった家から、よく道志川に家族とバーベキューに出掛けたものです。もちろんシェルティーも一緒です。でもあの子、あんまり言う事を聞かない子で、ある夏のことでした。「ここに居るんだよ」と首輪を繋げていた場所から、いつの間にか抜け出して姿を消した。川に落ちたんじゃないかと心配して、必死に川辺を探していたらです。向こうのほうの家族から、「おー、そっちに行ったぞ」と声がして、大型犬がウォンウォンと吠える声。すると反対側から「おー、コッチに来たぞ」って。それで私「もしかしたら」とその声のほうに顔を向けたらです、そこに迷子になって、切なそうな目をしたシェットランドシープドックが一匹、私と目があったかと思った瞬間、脱兎のごとく人混みをかき分けて、ピョーンと私の胸の中に飛び込んで来たんです。そこで抱っこされてホッとした顔をしていました。ウチの犬でした。勝手に脱走して迷子になったのに「ここが僕の居場所、やれやれ安心」とばかりに、いつまでもしがみ付いて降りない。しょうがない子でしたが、でも思うんです、「私も迷子になる」と。神様の言うことを無視して、勝手に生き出すからです。「迷子の羊」なんて言うと耳障りは良いですが、でも実は自分勝手で、傲慢で、だから神を見失うことを起こしてしまうんです。そこで周りの「人間の顔」が気になり出して、自分は無視されているように思えて、恐くなったり孤独になったり。でもなんです、そんな時でも、その場で神様が、気付かせて下さるんです「心よ、主はお前に言われる。わたしの顔をたずね求めよ」と。私どもは求めて良いんです。主なる神の御顔を求めて良いんです。それは神様が、私どもよりも真剣に私のことを心配して、探していて下さるからです。「どこに迷い出したんだ、そこで怯えていないか、震えていないか」と激しく心配して下さって、私どもを探して下さっているからです。その神様が共にいて下さるなら、他に何もいらないんです。

 そういう関係に生きた詩人にとっては、もはや神様に、アレコレの願い事やご利益を叶えて欲しいと言う必要もなかったでしょう。「ただあなたが一緒に居て下さるなら、それで恐れもない。それが最善だ」と、そういう関係に、信頼の関係に戻れたからです。そして、そんな信頼関係というのは、神様と一緒に生活する中でこそ、心と体に染みついてゆくものです。神との信頼関係というのは、生活の中で「神と私」という二人三脚で生きることでしか生まれないし、育まれないし、また維持されないんです。私が小さい頃に育てられた奈良の教会のお婆ちゃん牧師先生は、口を開けば、「あっちゃん、神様の言葉を聞きや。聖書を読むしか聞けへんのやで。祈りや、祈らんと分からへんのやで」と言っていました。そう言ってくれたのは、私の現実生活のど真ん中に、神様との関係を刷り込ませるためだったと、今は分かります。身に染みついた深い信頼に生きていたら、危機の時も「私の声を聞きたまえ」と叫べる、「そう求めて良い自分なんだ」とハッキリ分かることが出来るからです。そう考えていた時、ふと「あ、私は神の顔を知っていた」と思ったのです。それは皆さんも知っている「神の御顔」です。それはイエス様。この旧約時代の詩人はまだ知らないから、だから9節で「あなたの僕を退けないでください…わたしを離れないでください。見捨てないでください」と言っていましたけれど、私どもは知っているんです。神の御顔をイエス様のお姿として思い起こすなら、そこでハッキリ言うことが出来る、「神は、私を退けられない。決して私から離れないお方。神は私を、絶対に見捨てないお方だ」と。主イエスは、私のことを私よりも大切にして下さったから、私の身勝手で起こした過ちと罪なのに、その裁きを身代わりに償って下さったのですよね。皆さん、あの十字架の上で命を捨てられたお方、そこに「神の御顔」があるのです。私のために苦しむ方の御顔、私のために死なれた方のお顔、それが「神の御顔」なのです。だからです。私どもは十字架の下に立つ時に、そこでこそ、神の御顔を尋ね当てることが出来る。そこでだけ、神様との深い信頼を育み続けることが出来るのです。そういう人ならどんな時も、神の懐に飛び込むように「わたしの声を聞き給え」と叫べるし、祈れる人になるのではありませんか。

 代々のキリスト者たちも、その中を生きました。信頼して、迫害の辛い日々も生きたのです。私どもにも、新しい1週間が始まります。さあ、信仰者の歩みに連なって、この週も過ごして行こうではありませんか。大胆に主イエスの御顔を仰いで、「呼び求めるわたしの声を聞きたまえ」と祈るのです。そこで、平安も戴けるのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:36| 主日説教要約