2020年04月05日

棕櫚の主日説教 『近づき、見て、泣いた』

2020年4月5日(棕櫚の主日)の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ルカによる福音書19章41〜44節
19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
19:42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
19:43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
19:44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」


 新年度を張り切って始めるべき、4月最初の礼拝ですが、今朝は逆に、その時間を短縮しなければなりませんでした。「教会では絶対にウイルス感染を起こさせない」、そのためにです。相模原教会も悩みつつ、先週の礼拝から「式順序」の中で、いくつかを省いて来ました、「あれっ、どこかカットしてた?」と気付かない方が、おられたりして。さらに今日は任職式・就任式もありますので、もっと何かを短縮できないかと考えましたら、ありました。説教です。それで今日は、いつもより説教が短い。寂しいですよね。それとも、ひょっとして、まさか、いや、そんなはずはない…。今朝は、まことに残念でしょうが、短い説教になります。それで一つ、心配事が私には起こりました。それは、この災いが去って、普段の説教時間に戻した時に、皆さんが、「長いわね〜」と思ったりしないだろうか、とね。まぁ、そんなことばっかり言っていないで、さあ礼拝しましょう。私どもはこの礼拝にあずかるために、体調管理だって細心の注意をして、ここにやって参りました。短い時間にしましたが、せっかくの礼拝です。いつにも増して生き生きと過ごしましょう。喜びながら、御言葉を食べるのです。私どもの魂の糧のためにです。それが必要だから集まったのです。イエス様も、山上の説教で「たとえ断食する時も、顔を見苦しくするな」とおっしゃいました。苦しみの時も顔を洗え、と言われたのです。晴れ晴れとした顔で過ごせ、と言われたのです。私どもは今、災いの中にあります。不安で、不安の虜になりそうで、顔は曇りがちです。しかし。顔を洗って、喜びつつ御言葉を貪り食べようではありませんか。せっかく、礼拝に来たのですから。

 そういう今朝は教会暦にとりましても、真に大切な日であります。それは今週の金曜日に、イエス様が十字架で死なれる「受難日」を迎えるからです。今朝、受難週が始まったのです。そういう主日に先ほど読まれた聖書個所には、イエス様一行がエルサレムに入るため、オリーブ山から降りて、都に近づかれたという様子が記されていました。41節、「エルサレムが近づき、都が見えたとき」と。そこで弟子たちは、歓喜の声を上げるのです。自分たちが慕って来たイエス様が、ついに都の王になる日が来ると、感極まったからです。周りの群衆も「この方が、ローマ軍をやっつけてくれる救世主だ」と、大喜びしました。しかし、なのです。その喜びの渦の中に、場違いな声が聞こえて来たのです。喜びの中で、一人だけが、泣き声を発していたからです。一人だけ泣いていた。その人は、イエス様でした。再び41節、「エルサレムに近づき都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて」とあった通りです。全ての人が都を見ながら喜んでいたのに、一人だけ泣いておられたのです。それも、この「泣いて」という言葉は、「号泣」なんです。怒りを含んだ号泣であり、挫折を嘆く涙でもあるのです。傍にいた弟子たちは、驚いたに違いありません。何故こんなに嬉しい時に、何が泣けて来るのか、全く分からなかったからです。その彼らの「何故」という思いに答えるように、イエス様が言われたのが42節だったのです、「もしこの日に、お前も(エルサレムに住む人々ということでしょう)お前も、平和への道をわきまえていたなら・・・」と。イエス様は、「ああ、都エルサレムに住むお前たち、誰も彼もが平和への道を、わきまえていない。それを思うと、私の内から、怒りと嘆きが溢れて来て、涙が止まらない」と言われたのです。

 ここで言われた「平和への道」とは何なのか。それは「エルサレム」という名前の意味を知ればすぐに、気付けることかも知れません。「エルサレム。イェル シャライム」とは「平和の 所有」とか「平和の 基礎」という意味の言葉です。つまり「この都を見たら、平和の姿が何なのか、目の当たりに見られる」ということなんです。そして、人と人とが平和に生きている姿こそ、神様の喜ばれる姿だから、「都エルサレムを見たら、神との平和も目の当たりに見られる」ということです。隣人との平和、神との平和が満ちている都、それが「エルサレム」なのです。それなのに、でした。イエス様が都エルサレムを御覧になったら、そこにいる人々の現実は、互いに争い合う姿しかない。誰も彼もが、自分だけが正しいと言い張って、他者を受け入られず、つまり愛せず、つまり赦せないんです。そして相手を屈服させようとするか、逆に自分に閉じこもるか。隣人が邪魔だと思ったら、関わりさえも捨てる。そうやって、自分だけが平和であれば良い、自分の生活だけ平穏であれば良いと、生きていたのです。そんな姿しかなくって、だからイエス様はそこで号泣されたのです、「エルサレムこそ、『神の平和を目の当たりにする場所』じゃなかったのか、それなのに、誰もわきまえない」と。

 でもその日、不思議なことが起こったのです。そんな場所なのに、イエス様は泣きながら、全てを知りつつ尚、そこに入って行こうとされるんです。号泣しながらも、足を止めることはなさらなかったのです。都は罪と過ち、神への背きと、自己中心と、傲慢の匂いが漂っていた。その悪臭が、そこに住む人間から出ていると知っておられるのに、イエス様は、そのヘドロの中へと、足を踏み入れられるのです、近づいて行かれるのです。御子なる神であられるイエス様は、全能の神です。何でもしようと思われることは、お出来になる神なんです。だから憤られたのなら、その怒りを、そのままぶつければ良かったんじゃないですか。神であられるのですから、裁けば良いじゃないですか。父なる神が、「平和が見える都になる」と期待されたのに、人々は背いて、まるで盗賊の巣にしたのですから、厳しく裁けば良いじゃないですか。または、「お前たちのような自己中心で、都合の良い時にだけ神様、神様とすり寄る“ご都合信仰”の者たちなど、愛想が尽きた」と、見捨てて当然じゃないのですか。人と人との間だって、我慢の限界ってありますよね「堪忍袋の緒が切れる、仏の顔も三度」って言うじゃないですか。もう見捨てても当然、我慢の限界のはずなんです。それなのにイエス様は泣きながら、去って行かれたのではなかったのです。イエス様は、泣きながら近づかれたのです。人々の中へとです。罪人の中へとです。これは、他人事じゃありません。そうです、イエス様は「私どもの罪の生活の中に、私どものエルサレムの中に」近づき入って来られるのです。「平和の生活が、あなたになら目の当たりに見えるだろ」と期待して下さったはずのクリスチャンなのに、私どもの姿を見られたら、そこに神の平和が見えない、偽善者。それなのに、そこでイエス様は、その私どもを見捨てないで、裁かれないで、罰しようともなさらないで、イエス様の方が号泣しながら、私どものエルサレムの中へ、なお近づき、なおその中へと、入って来られようとなさるんです。なぜですか? 何故なのですか、イエス様!

 それは、罪の泥沼の中にご自分の身を沈めて、私どもの足元に潜り込んで、私どもを押し上げてくださるためにで、ありました。それが、十字架で私どもの身代わりに、死なれたという出来事だったのです。皆さん。イエス様の十字架は、私どもの、罪の泥沼の下に、一番底に、立っているのです。イエス様が、あなたの泥にまみれても良いと、決意して下さったからです。それほどに、あなたは、神に愛されたのです。あなたが洗礼を受けたということは、その愛を、あなたも受け取ったということなのです。

 イエス様は、涙を流しつつあなたに近づかれ、あなたのために命を捨てられました。それを憶える「受難週」という特別な一週間が始まったのです。大切に、一日一日を過ごしてゆこうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:34| 主日説教要約

2020年4月5日の礼拝

この日から受難週(聖週間)に入ります。棕櫚の主日説教「近づき、見て、泣いた」、ルカによる福音書19章41節〜44節。辻川篤牧師。252、142、124。交読詩編64編2〜11節。
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