2020年04月30日

『日々の聖句』2020年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年4月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(水)
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した。    (1ヨハ4・10)

聖書を開いたら、「神は、独り子を世にお遣わしになりました」と告げられ、「ここに神の愛が示されました」と断言され、そして今日のみ言葉が告げられるのだ。そればかりでなく、この後には「ですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と続くのだ。
私の周りは、なんと「愛」で満ちている世界なのか。それこそが本来の世界の姿なんだ。愛されている私、だから隣人も愛して生きよう。今日、この世界で!


●2(木)
行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。    (2コリ12・10)

 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主から受け取った後に、今日のパウロの告白は続く。彼の確信は堅い。この通りの信仰体験をして来たからだ。全て託した時、神の御業を体験して来たのだ。
 自分を明け渡した時のみ恵みを得る。それ以外の場所ではない。神からの恵みと、自分の願望成就とは別物なんだ。


●3(金)
あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。   (エフェ2・13)

 「誰と誰が近くなったの?」と思って、この箇所を開いたら、犬猿の仲だったユダヤ人と異邦人だった。そして、彼らを結び付けた絆が、キリストの十字架での血潮によるのだと告げられていたのだ。
 結びつくはずのない人と思う人が、キリストの血によって結び付けられた。ならば信仰者同士の仲違いは、あってはならない。主の血を軽んじることだから。


●4(土)
主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。   (2コリ8・21)

パウロ自身が、「公明正大にふるまおうと心がけている」という。清廉潔白な彼なのに何故なお「公明正大に」というのか。
前後の文脈を見て、募金の話しをしていると分かった。彼は、お金の恐さを知っている。教会でも、人と人との間に簡単に不信感を作り出すのがお金だから。お金は魔物ともなると、知っているのだ。
私も、受洗準備や転入会者にお願いすることがある「教会でお金の貸し借りはしないで」と。魔物の姿を知っているから。


●5(日)棕櫚の主日・受難週

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月)
あなたはもはや奴隷ではなく、子です。         (ガラ4・7)

 あなた方は今まで、この世のあらゆる欲の奴隷だった、と御言葉は示す。でも今日の御言葉は、今はそうじゃないんだと宣言する。今は、もはや父なる神からあらゆる恵みをいただける子どもとされたのだ、と。神の子なのだと。
 子であるってスゴイと改めて思う。それは、親の財産の相続人と認知されていることだから。恩恵の正式な受取人なのだから。それも、その親が「父なる神」だなんて。ボクはどれほど恵まれているんだろう。どれほど愛されているんだろう。感謝。


●7(火)
わたちたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。   (2コリ5・1)

 地上の命を育むこの身体は、いつかは老いて滅びる日が来る。でも洗礼者の目は、さらにその向こうにある日々へと向かうのだ。天の住まいでの命を知っているから。
 もはや死は滅びではない。天の住まいへの引っ越しなのだ。それは地上のマンション、億ションよりもはるかに願わしい家。その住民券をすでに手にしているのだ。死よ、お前の勝利はどこにあるのか!


●8(水)
イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。   (ルカ7・50)

 罪深い女がイエス様に近づき、涙で足を濡らして髪で拭い、高価な香油を塗った。それを見たファリサイ派の人々が、罪人が紛れ込んだことに憤る。しかし主は、この女の愛の大きさは救われたことの大きさだ、と言われたのだ。そして、この御言葉のように、救いの宣言をなさった。
 イエス様を深く愛したのは罪人。必死に近づいたのは罪人。そして祝福されるのも罪人だ。主の救いは、罪人のための贈り物なのだ。この女のあとに続こう。


●9(木)洗足の木曜日
自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。   (ヤコ2・12)

 人を激しく裁いている時、自分は正義の側に立っていると思っている。だから激高してもしまう。でも御言葉は「同じ憤りによって、あなた自身が、真の義なる方・神によって裁かれるのだぞ」と告げているのだ。お前自身気をつけろ、と。
 そこに御言葉は続く「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下ります。憐れみは裁きに打ち勝つ」と。どう語り、またふるまうか「分かった」と思った。


●10(金)受難日
どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。         (エフェ6・18)

 悪に対抗するために神の武具を身につけて強く生きよと勧められる文脈で、この御言葉が告げられる。闘うためのキーワードが、「祈ること」と告げられている。
 主ご自身も十字架の時を前にして、ゲッセマネの園で御父に祈られたじゃないか。祈りという対話がなければ、闘いは孤軍となるから。いわんや弱い私は、祈らずして一歩たりとも進め得ようか!


●11(土)
「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。   (1コリ10・23)

 コリントの教会の中で、互いの行動を批判する分派を作って争い合っていた。その双方に向けて言うのだ「何を言っても、何をしても良い。しかしお前のその行動は、何の益になるのだ。相手にも自分にも無益だ」と。それから彼らを導く言葉を加えた「だれでも、自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい」と。
 ハッとした。今日どう生きれば良いかが分かったから。「あなたの利益のため」と、全ての思いを込めて過ごそう。


●12(日)復活日

イースター礼拝説教

               辻川篤牧師


  (祝会だけ延期、ペンテコステに合流)


●13(月)
イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」         (ヨハ4・26)
   

 罪の女にイエス様が「魂が渇いているだろ、私が与える水を飲め。永遠に渇かない水だから」と語りかける。女は「そのような救い主が来ると知ってはいますが」と言った時、主が言われたのがこの言葉だ。
 私も救いを求め、渇くことのない水を求める。そのとき私にも主は言われる「あなたが聖書を開いた時、それが救いの言葉だよ。渇かない水だよ」と。救い主よ、あなたはこんなに近くにおられたのですね。


●14(火)
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください       (ルカ15・19)

 生前遺産分与を父に強要した息子が、そのお金を使い果たした後、家に帰ろうと思った。そのとき言い訳の計画を立てて「こう言えば・・・」と思った言葉がこれだ。追い詰められてなお自分の作戦を立てる放蕩息子。でもこのあと、条件なしで赦す父が待っていることを知るのだ。
 私は「放蕩息子の帰還」の譬えが大好き。追い詰められて言い訳なのに、その心配さえ無用にさせる天の父のお心が見えるから。赦しに、神の愛が見えるから。


●15(水)
ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」       (マコ14・31)

 このように言い張ったペトロは、この後イエス様が裁判にかけられている場面で、「そんな人は知らない」と否認してしまう。
 イエス様の仲間と思われるのが怖くなるペトロ。「ボクもその状況になったら彼のようになる」と思いつつハッとした。「暢気だ」と気付いたから。死の危機がなくても、日常生活の中でイエス様から離れて自分中心になる。ペトロよりもたちが悪い。


●16(木)
神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。   (1ペト5・6)

 高慢を打ち砕き、謙遜に生きることを求められる。しかしこれは、単なる慎み深い人になることの勧めじゃない。この世でも、そんな修身話はいくらでもあるから。
 何が違うのか! それは「神の力強い御手の下で」という一点。神の御手の下に自分を明け渡して全面降伏するということ。そうすれば神が最善をなさると信頼すること。そこに身を鎮めることが真の謙遜なのだ。これは神信頼の話なんだ。


●17(金)
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。   (コロ1・15)

 父なる神は人間の目に見えないが、御子イエス様は降誕されて目に見えるお方となって下さった。御子によって、見えない神が見える姿となったのだと告げる。
さらに、神が天地創造の前からおられたように、三位一体の御子も、そこに同時におられた「先在の主」だと告げられている。これに「イエス様は2千年前にお生まれになったんじゃないの?」と驚く人は多い。実は私も、神学校に行く前はそうだった。誰にも言えない内緒の話し・・・


●18(土)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。   (ヨハ4・14)

 姦淫の罪を重ねたサマリアの女に告げられたイエス様の招きの一言だ。渇かない命の水、心も魂も潤す水を飲め、と。
 渇きを覚える日もある。でもその傍に水が無いから渇くのじゃない。生ける水である主ご自身は傍におられ、御言葉の水を与えて下さる。それを飲めば良い。それなのに、だ。私が渇くのは、受けたはずの手の指の間から、命の水をこぼしているから。ジャージャーと落として、手に残っていない。そうだ、自分で捨てていたのかも。ギュッと御言葉を握って生きていたい。


●19(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●20(月)
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。     (使18・9〜10)

 異邦人伝道の旅をするパウロ。フィリピで投獄され、テサロニケで騒動に巻き込まれ、アテネであざ笑われ、コリントの町に来た。困難があっても伝道に邁進するパウロ。しかし、その意欲は、単に彼自身の意志の力強さではなかった。主の「語り続けよ」との御声に従ったゆえであった。
 彼は、ただ主に従う僕であったのだ。そこで成し遂げる力をもいただいていた。進む道も拓かれたのだ。私も主の僕、御言葉が「成せ」と言われる道を行かん。


●21(火)昇天日
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。    (ルカ5・5)

 漁師ペトロが、プロとしての経験上すべての術を駆使して漁をしたが、一匹も獲れなかった。もう陽が昇って漁をする時は過ぎたのに、イエス様が来て、網を降ろせと言う。その非常識な言葉に、ペトロは何故なのか聞き従う。そこに神の奇跡を経験することが起こったのだ。
 私も「主よ、あなたのお言葉ですから、おっしゃる通りにしてみます」と今日を生きてみよう。自分では非常識と思えても御言葉に賭けよう。そこに起こることこそ神の業。私もそこに生きていたいから。


●22(水)
神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。     (ロマ8・31)

 神が私の側について敵と闘って下さる。その敵とは、聖書を開いたら「罪、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」と、あらゆるものが数え挙げられていた。
 今日という日にも、私の前方に敵が立つのかも。しかしその時も己に言わん「ひるむなかれ」と。私は勝利の道を歩めるのだから。私の先陣に神が立たれ、私の横に神がおられ、私のしんがりを神が守って下さるから。「敵」を見て恐れず、「神」をこそ見て安心の中を進軍したい。


●23(木)
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。      (マタ5・22)

 山上の垂訓で、「腹を立てる者」への勧告が記されている。律法では「目には目を、歯には歯を」という基本が許されていたが、イエス様はそれを越えて、一切腹を立てるなと言われる。それは、仲直りすること、和解することへの激しい勧めだ。
 あっそうか。仲直りも和解も、「愛して生きよう」と思ったら、そこに起こる当然の思い。そこで律法を超えるのだ。隣人関係の全ての軸足が定まった気がした。


●24(金)
人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。   (ルカ6・37)

 これに続けて「赦しなさい。そうすれば、あなたも赦される」「与えなさい。そうすれば、あなたも与えられる」と主は言っておられた。
 いつも「罪人の私を赦して下さい」と祈って「恵みを与えて下さい」とすがって来た。でも今日分かった。その鍵は私が握っていた、と。今まで私がドアの鍵を閉めていたのだ。私が隣人を赦して与える人になれば良い。さあ、赦しと恵みの扉を開こう。


●25(土)
人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。     (使9・35)

 アイネアUそれはペトロに癒された人。8年間も中風で苦しんでいたが、「キリストがいやしてくださる、起きよ」との招きに、委ねてすぐに従ったから。その姿を見た人が、今キリストが生きて働かれると信じたのだ。そして我も我もと主に立ち帰った。
信じることが伝染する。それって、良いな。主が今ここに居て下さる、委ねたらどんなに凄いことが起こるのか、それが伝わって欲しい人が私の傍にも居る。そのためには私がまず立ち帰らなきゃ。口ばかりでなく、生活丸ごと立ち帰らなきゃ。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●27(月)
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。   (ヤコ2・13)

 「自分は義しい」と思っている人が、他者を裁いた。律法を掲げて攻撃した。しかしその人に向けて告げられる「お前には神の厳しい裁きがある。憐れみを失った者には、神も憐れみをかけないから」と。
 人を裁くことを簡単にしてしまう。心で裁き、口に出て、行動にまで。人を愛することをすぐ忘れる。罪人は正に私。その私に慰めの言葉が聞こえた「憐れみは裁きに勝つから、今日こそ方向転換だ」と。


●28(火)
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。   (1テモ6・11)

 信仰の戦いがあるぞと迫る。敵はあなたの内にある欲望で、それがあなたを破滅に陥れると告げられる。その闘いに勝つために、6つの項目が掲げられたのだ。
 なんだか6つの中心に、「信仰」と「愛」が光っているように見えて来る。そうだ!自己中心の欲望に溺れて破滅に転ぶ前に、「聖書を開こう」と思った。そのどこを切っても、信仰と愛が語られているから。それが私を、破滅の道に入るのをとどまらせるから。そうさ!聖書を開こう。


●29(水・祝日)
キリストはすべての支配や権威の頭です。      (コロ2・10)

 あなたがたは人間の言い伝えにすぎない慣習に従うことなく、キリストに結ばれた者として歩めと告げられる。それは、キリストこそあらゆる支配、あらゆる権威の上に立つ王の中の王であるから、と。そのお方を頭として戴けば良いのだから。
 圧倒的な導き手が、私の前を行かれる。そのお方が、今日私に呼びかける「来た、あなたの頭として。それで良いか」と。あるじの席に自分が座り込むことから飛び退いて、キリストを迎えよう「わが真の王は、他の誰あろうあなたのみ」と。


●30(木)
互いに平和に過ごしなさい。    (1テサ5・13)

 テサロニケの教会に向けた手紙で、最後に締めくくりの言葉が書かれてゆく。その中のキーワードの一つがこれだ。このほかにも「愛をもって尊敬し合う」「励まし助ける」「忍耐強く接する」などだ。
 もう分かっているし、聞いてると思う言葉が並んでいる。でも何も守れていないのかもしれない。知っていることと、その通りに生きることの間には、深い溝があるんだ。今日こそ渡らねば、今こそ飛び越えなきゃ。そうしないと、いつまでも変われないから。そんなの嫌だから。


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2020年04月26日

説教 『イエスはこれらの人々をいやされた』

2020年4月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書15章29〜31節
15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。


 この礼拝準備のために、今朝の箇所を最初読んだ時、私はすぐ「あれ」と思いました。「これって直前の14章に書かれていることと、全く同じ、ダブっているみたい」と。そして、「だとしたら説教も同じになる、こりゃ参ったな。コッソリここを飛ばしてしまおうかな」とね。でも悪代官にも三分の理で、名だたる註解書もこの箇所を飛ばしているんです。さらに、イエス様のご生涯を同じように書き留めたルカ福音書では、この出来事を省いているんです。だから「私だって飛ばしても良いんじゃないの」と思ったわけで。でもそう思いつつ、ふと考えたのです。マタイがこれを書き留めたのは、わざわざ書き残したということで、つまりそこには何か訳がはず、と。そう気付いたら「それは何なんだろう」と改めて聞きたいと思って、祈りつつこの箇所の準備を、始めたのです。

 今朝の冒頭、29節には「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた」と、ありました。どこからガリラヤまで来られたのかなと思って、直前箇所を辿りましたら、それは異邦人だけが住む町「ティルスやシドン地方から」ということでした。その土地で、奇跡の御業をなさって、一行はガリラヤまで移動して来たのです。その一行の後を、たくさんの異邦人も一緒に付いて来たと思われます。ガリラヤ湖畔というのも、異邦人がたくさん住んでいた土地ですから、このときイエス様を取り巻いていたのは、もしかしたら殆どが、神様のことを知らない異邦人だったのかも知れません。そういう人たちが、病や、身体に重荷を抱えた家族や親友を、背負って来て、30節、「イエス様の足もとに横たえた」ということなんです。それもこの「横たえた」という言葉は、他の聖書箇所では、「投げ出した」とか「投げつけた」という、ちょっと乱暴な言葉なんです。つまり、イエス様に対する恭しさは無く、どちらかというと「治せるなら治してみてくれ。お前に出来るかどうか、見たら敬おう」という関わり方なのです。確かに人々は、今まで苦労して来ました。重い病の家族がいると、自分だって、苦しみますよね。愛しているからです、当人だけが苦しんでいるなんてこと、ないんじゃないですか。同じように重荷を背負うんです。それが、愛するということじゃないですか。愛するなら、その愛する他者のために、自分自身も何かを削るんです。単に看病することだって、時も財も、そして体力も心も削る。だから一緒に、心も体もクタクタになったりするんじゃないですか。愛するということは、自分自身を削ることだからです。そういう人たちが、一緒に重荷を背負い合って、神様のことを良くは知らないけれど、イエス様の前にやって来たのです、「あなたに、癒せるだろうか」と思いつつ、でした。
その人々を見て、イエス様は小言の一つも言われず、今までなさって来たと同じように、人々を受け入れ癒されたのです。そこになんの躊躇も在りませんでした。普通だったら、イエス様から見るなら、「奇跡だけ求めて来るお前たち、ご利益宗教のようにたかって来るだけなのか。いい加減にしてくれ」と言いたくなる場面じゃないですか。私、毎朝、御言葉に聴いて祈る時間をいただいていて、そのあとに朝ご飯を食べるのですけど、その時見ているドラマがあるんです。今やっているシリーズは、グータラ亭主が登場して、何度も嫁さんに迷惑をかけて、いつまでも小遣いをせびる。見ている私がイラっとします。その亭主に、ついに嫁が言ったんです「いい加減にして、私にせびるばっかりで、もう付き合い切れない」とね。見ていた私の胸もスッとする。同じことを繰り返す理不尽な相手に「いい加減にしろ」と言うは普通の反応じゃないですか。それなのにイエス様は、繰り返してご利益を求める人々との出来事なのに、今までと同じように、まったく躊躇もされる様子もなく、全ての人を癒されたのです。

 ここはガリラヤですから、当然、群衆の中に、ユダヤの民もいたでしょう。異邦人じゃないけれど、でもそのユダヤの人々も、まるで神を知らない異邦人に逆戻りしたようになっていて、イエス様のことを、自分に都合の良い奇跡をする人としか見ないで、恵みをせびったのです。そうであるのに、でした。彼らは、イエス様から怒られもせず、呆れられこともなく、何故なのか丁寧に、恵みをもらえたのです。30節、「イエスはこれらの人々をいやされた」とある通りに。何故だろうと思いつつ、そんな人々の姿を思い巡らしていた時にです、ふと気付いたことがあったのです、それは、「この群衆は、私に似ている」と。私もかつて、神様から具体的な生活に関わる、数えられる恵みを受けた時、心からの感謝をしました。自分の道が拓かれた時も、苦しかった人間関係で和解を得た時も、娘の病が癒された時も、祈りが聞かれた時々に「神は生きておられる、この私にも関わっていて下さった」と嬉しくて、神様が共にいて下さることに喜びが溢れて来ました。でも、それなのに、その心の躍動がまだ鎮まらない内にです。次の試練が襲って来た時に。また初めのように狼狽えて、神様をじっと信頼していることが出来なくなって、森の木々が風に揺れ動くように動揺し始めて、ついに、神が居られることを知らない者かのように、「もうダメだ」と思い出す。そうなったら「御心を成して下さい」なんてとても言えず、祈れず、ただ奇跡をせびる者のように「早く、どうにかしてくれ」と、恵みだけを求める者になっていたのです。それも最悪なことに「こんな具体的な問題は、神様だってどうにもならない」と、神を見くびり始めて、それでいて、苦難が解消しないことに「いつまでこの辛さを抱えないといといけないんですか」と、神様に文句を溜め込んでしまう。もう勝手なことを思い放題、言い放題で、神様との関りの中に生きている信仰者ではなく、神を知らない異邦人のようになってしまっていたのです。そんな姿に、私はこれまで何百、何千回もなって来ました。信じて雄々しい姿だったのはほんの瞬間で、不信と不満の思いに身を焼いていた姿が、人生の殆どだったのです。まさに私こそ、神を知らない者に、繰り返し逆戻りしていたんだと気付いたのです。しかし。その時、そう気付いたのと同時に、でありました。

 イエス様は、詰めかける人々に「いい加減にしてくれ」とは一言も言われず、そんなこと微塵も思われずに、全ての人を癒されたのだと知って、改めて「それが伝えたかった『特別なこと』だったのだ。それ自体が、良い知らせだったのかも」と思ったのです。この出来事は、繰り返し神を知らない者のようになる私どもに、それでもイエス様は、何度でも、初めてのように慈しみを注いで下さるお方だ、ということではありませんか。イエス様を取り囲んだ人々を、決して突き放しもせず、裁くこともなさらない。何度でも丁寧に、御手の業を一人ひとりに尽くして下さる。それも、ためらうことなしにです。つまり与えることだけに必死になられて、御自分への見返りを計算されないんです。繰り返し不信仰になる私どもに対しても、なのです。イエス様は神の御子なのですから、天の高見から人間を見て、「熱心な信仰者になったら救ってあげよう」と、なさっても良いはずなのに、そうはなさらなかったお方だということですよね。それどころか、神の居場所であるはずの「天の玉座」から、イエス様は飛び降りて、私どもの傍に低く降って来て下さったのです。神を信じ切れないという、神ご自身にとっては敵であるような者のところに降って、私どもの足もとで、私どもに跪くようにして、私どもに仕える方となって下さったということではないですか。真の神は、不信仰な罪人を裁く神ではなく、罪人に仕える神であられたのです。罪人の僕になられることを選ばれて、降って来られた御方なんです。それが、私どもの救い主イエス様だったのです。「そういうお方だったから、ここでも全ての人々を癒された」と分かって、さらに「だからだ」と思いました。このお方が、とうとう行き着いた場所は、全ての罪人に対して「いい加減にしろ」とは言われず、繰り返し「あなたのために何でもしてあげよう」と、命さえも与えて救おうとされた、十字架での死という場所だったんだ、と。イエス様は、私ども罪人を真に癒すために、とうとう命さえも与えて下さったのです。

 信じることにおいて、同じ失敗をしてしまう私どもであります。苦難と、現実に背負う生活の苦しみに、神様に委ねることが、何度も揺さぶられてしまう。そんな私どもであっても、なのです。主イエスは私どもに、繰り返し語り掛けて下さるんです、「私はあなたを見放さない、何度でも恵みを注ごう、繰り返し注ぐから」と。皆さん、辛抱して相手を信じているのは、私たちの方ではなくて、イエス様の方なのです。御子なる神の方が、忍耐して私どもを信じ続けていて下さるのです。「あなたを愛しているから」と言って、傍を離れないでいて下さるのです。「あなたにとって必要なことは、私がすべて分かっているから、大丈夫、それをしてあげよう」と言って下さるのです。

 『イエスはこれらの人々をいやされた』、今この福音を聞くことが必要なのは、私ども自身ではないでしょうか。それは、前代未聞の、長くて苦しい日々を過ごしているからです。だから、さあ今朝、み言葉を受けましょう。そこで、「一緒に礼拝が出来ない私どもの痛みも、主が、必ずいやしてくださる日が来る」と、希望をいただきましょう。そして今週も、私どものために躊躇なく、最善をしてくださる主イエスを見上げて、ご一緒に、一週間の日々を過ごしてゆこうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:48| 主日説教要約

2020年4月26日の礼拝

礼拝説教「イエスはこれらの人々をいやされた」、マタイによる福音書15章29〜31節。辻川篤牧師。讃美歌294「み恵みゆたけき」。
教会員の皆様は、ご自宅で、聖書を読み、賛美を捧げ、祈りをあわせて礼拝の時間をお守りください。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ