2020年02月29日

『日々の聖句』2020年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年2月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。           (ヤコ4・1)

 戦いも争いもなくなって欲しいもの。でも御言葉は、戦いも争いも「あなたが欲しているから起こるのだ」と迫る。「お前の心に火種があるのだ」と釘を刺す。
 ドキッとした。そして「そんなはずない。アイツが原因だ」と弁明したくなる。でも、ふと思った「私が原因なら、戦いも争いもなくせるのかも。私が変わればいいのだから」と。光の差す道が、見えた気がした。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。    (使5・29)

 これは、平穏な時に告白した言葉ではない。迫害の中で、最高法院に立たされて尋問された時の言葉だ。死が目の前に迫りつつ「人に権威があろうとも、それに従わない。ただ主のみ」と言い切ったのだ。
 私も平穏な時なら、何度でも言える。でも、人間の前で、長いものには巻かれろと迫られる社会の中で、そこでなお神の言葉にこそ従いますと言えるだろうか。それで立場が危うくなっても、浮いてしまっても、この一言が言えるだろうか。ああ主よ、信仰を増してください。


●4(火)
義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。        (1ペト3・14)

迫害の中にあったキリスト者には、苦しみを避けて生きるほうが楽に見えた。しかし御言葉は、そこに留まれという。そこはキリストが歩まれた道だから、と。ついに勝利して、御国に上る道だから、と。
御言葉の通りに従おうとしたら、この世ではアチコチでぶつかる。「信従」の道は険しい。でもそこを歩もう。その道にこそ、キリストの足跡が見えるから。そこが御国に繋がる道だから。


●5(水)
いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。    (ヘブ3・18)

 厳しく刺し貫く言葉が届く。神の安息にあずからせはしないと告げられる者が居るということ。それは神のみ言葉を聞いても従わなかった者なのだ、ということ。
 「それはお前だ」と言われたようでドキッとした。御言葉に従ったと言えない自分を分かっているから。「そんな私は主の安息に入れてもらえますか?」と悔い改めること、それは命が掛かっていることなんだ。


●6(木)
わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている    (ヘブ4・14)

 神は私の心の奥底まで見通され、心や思いや考えまでも見分けられると言う。その神様を前にして、自分で弁明をしなくてはならないのだ。一体誰が、その裁きに耐えられるのだろう! 震える者へと告げられた御言葉がこれだ。御子イエスが、あなたを執り成してくれるよ、と。
 神様を前にして執り成し手となって下さるイエス様。あなた無しでは生きられない。あなたがいて下さって本当に良かった。


●7(金)
子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(マコ10・15)

 子供に祝福を戴きたいと、親たちがやって来た。それを見た弟子たちが、邪魔だと叱る。しかしさらにそれを見てイエス様が、叱って言われた言葉がこれだ。主は、来させなさいと言われる。そして、あなたこそ子供のようになって、私から戴くだけで生きる者となれと招かれたのだ。
 私もウッカリすると、良い話を聞こうとして御言葉を聞いている。それは違うと主は言われる「来い、御言葉から祝福を受けるために、乳飲み子のように」と。


●8(土)
自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。     (マコ7・9)

 人々は神を敬う者のようにしていたが、自分の生活で都合が悪くなると「その御言葉は現実生活では無理だから」と言って平気だった。律法を自分勝手に解釈して隣人を責めさえして、自己利益に生きていた。その姿に、イエス様が声を荒げて怒られたのだ。
 これは私への言葉なのか? 御言葉を身勝手に聞き流して棚上げしてる。飾り物にしている。やっぱりこれは私への怒りなんだ。今日こそ他人事で済ませまいぞ。


●9(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。    (1ペト4・8)

 終末の日が来たら、裁きの座に立たねばない・・・そのことまでを思い描きながら、今をどう生きるのかを告げる。その時、「何よりもまず」と言われたことが、「愛し合いなさい」だった。
 その愛とは心情的なものでなく、身代わりに死なれたキリストに倣うこと。身を捨てる愛。それも「愛し合う」のだから、互いでなきゃならない。つまり愛されているっていうことに気付かなければ。そんな日常になったらココも神の国?良いねぇ!


●11(火・祝日)
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。    (ヤコ2・17)

 ヤコブは教会に告げる、「自分は信仰を持っているというものがいても・・・」と。口先だけの信仰が何になるのかと、激しく畳みかける。その現状を憂いたからだ。
 「死んだ信仰」というものがあるんだ。腐って臭くなる信仰って、あるんだ。
たった一つの温かい手を伸べること、悲しむ人の横に座ること、話を聞いてあげること、そこからで良い。そこから始めよう。きっとすべてそこから変わるから。芳しいキリスト者の香りがし始めるから。


●12(水)
神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。     (2コリ2・14)

 キリスト者は、キリストの香りが漂い出すと言う。その香りは、キリストを知った恵みへの賛美、感謝の祈り、愛の業など。
 「ああ大変!」と思いつつ、大事な一句に気付いた。それは「神は」の一言。主語は「神」なんだ。私は、神様が香りを漂わせて御業をなさる為の管。通りの良い管でいればいい。欲で詰まらせまいぞ。


●13(木)
わたしの言うことを聞いて悟りなさい。        (マコ7・14)
   

 イエス様は「聞きなさい」と言われるだけでなく、同時に「物分かりが悪い」と嘆かれながら、「悟りなさい」と言われる。きっと、聞くだけで聞き流したり、棚上げしたりする人ばかりだったからだろう。
 イエス様は、私に言っておられるのかも。「物分かりの悪いのはお前だよ」と。でもイエス様は私を招いておられるのかも「悟れ、受け入れよ、私の言葉を。お前を愛する私の言葉だから」と。あ、悟るべきことは、何よりも先ずその一点だったのかも。


●14(金)
御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。    (1ヨハ3・2)

 神の子とされたキリスト者たちにつげられる。「イエス様が再び来られる再臨の日に、驚くべき恵みを味わうよ」と。「あなたも、イエス様と本当の弟妹のように、そっくりだと分かるよ」と。
 だからこそ「地上に生きる今日も、イエス様の真の弟妹として生きよう」と思う。友達がボクを見たら、「お前、最近キリストっぽい?」と言われたら、嬉しいな。


●15(土)
霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。    (ロマ8・26)

 どう祈るべきか言葉にならないほど苦しむ日々がある。でもその呻きの日々も、聖霊ご自身が私に代わって、父なる神に執り成していて下さるのだ。だから、忍耐して今日を生きよと言われている。
 祈る時、独りで祈っているんじゃないんだ。傍には聖霊が一緒に居て下さる。それも私の側に着く執り成し手として。
それって、私の側に立つ神がおられるということ。聖霊なる神と私が、想いも立ち位置も一つになっているんだ。そんな奇跡が、祈りで起こっている。祈りってスゴイ


●16(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師 (和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。        (コロ3・5)

 自己中心になる姿の最たるものが「貪欲」。それはあらゆる物を貪る欲望。自分のものにしたいという悪。それを捨てろと言われている。「それは、お前の中で自分がつくり出して拝む偶像となるから」「お前の中に巣くう悪となるから」と。
 「捨てろ」と言われていることは、私の中にも「在る」ということだ。「私には無い」と思うところに危険が潜む。「私もむさぼる欲がある」と思って警戒せねば。毎朝、私の中の「貪欲掃除」から始めなきゃ。


●18(火)
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。    (エフェ4・2)

 エフェソの教会の信徒たちに、一致を保って過ごせと語る。その中で言われた具体的なことがこれらなのだ。人が一致するために必須のことが、高ぶらず柔和で寛容になることなのだ。
 一致することって、一致の目標とか手段とか手順とか、そんなことじゃなかった。私の心の在り方が問題なんだ。私の心が、一致を揺るがなくもするし、崩しもする。私こそ自己中心の高ぶりを捨てねば。今すぐ、あそこでも、ここでも。


●19(水)
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。     (フィリ2・4)

 利己心を捨て、隣人に心を配って生きることへ招く。そのためには、へりくだること、相手を自分よりも優れた方と考えることが必須だとも重ねて語られていた。
 自己中心から離れて隣人を思いやることは出来そうかも・・・。でもそれって本当にするためには、「あなたは私より優れてる」って生きることが前提。ああ、やっぱり「自分の方が優れてる」って認められることに固執する自分がいる。関係を壊す元凶は我にあり。この石の心を砕き給え。


●20(木)
一同が一つになって集まっていると     (使2・1)

 聖霊降臨が起こる直前のこと。弟子たちの群れは一つに集まっていた。そこで祈るために心を合わせていたのだ。その上に、主の霊が降った。
 このペンテコステの出来事は、私たちの上にも起こる。それは礼拝の時だ。だって、思いを一つにして祈っている時だから。来る週ごとの礼拝に、聖霊は充満している。だからそこで、慰められ、励まされ、魂が満たされて、それぞれの生活へと送り出されることが起こるんだ。まさに初代の弟子たちの群れと同じなんだね。


●21(金)
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。(マタ5・37)

 山上の垂訓の中の一節だ。自分勝手に「私はこれをする」と誓ってはならないと告げられる。イエス様は、御言葉に聴いて、御心を「然り、そうします」と歩くこと。御言葉によらないなら、人から勧められても、自分自身がしたくても「否、それはしません」と生きよと言われたのだ。
 完全な幸いへの道しるべは、御言葉そのものになのだ。その本道を、頑固に「然り」と行こう。脇道に入るまい。


●22(土)
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。       (ヨハ7・37)

 群衆を前にして、イエス様が大声で呼び掛けられる。人々は仮庵祭でごった返して、今ある生活で大忙し。振り返る間もなく走り続けている。祭司長は妬みにかられ、下役はイエス様を捉えようと走る。
 ふと「渇いている人はだれでも」という呼び掛けが、「あなたは渇いていないか? 本当は渇きがあるね」と、優しく語られる御声に聞こえて来た。そう聞こえたらもう大丈夫なのかも。だって、その人が、生命の水をくださるのだから。

●23(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月・振替休日)
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。   (1コリ1・23)

 人々は、救いの確証にしるしを求めた。または、説得的に証明することを求めた。しかしパウロは告げる。人間にとっては愚かなことと見えることしか伝えない。それは、神であられる御子が地上に降り、人の手によって十字架に付けられて死んでしまわれたということ。それが、あなたの救いのためになされたことだ、と。
 アーメン。御子の十字架以外に見るまい。キリストの死は、我が救いのためなり。それ以外なにも求めまい。アーメン。

●25(火)
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。    (ルカ2・50)

 神殿詣に両親と来ていた少年イエスが、はぐれた? いや、神殿に一人残って学者たちを教えていたのだ。やっと探し出した母マリアたちに「私が父の家(神殿は天の御父の家そのもの)にいたのは当たり前でしょ」と言う少年イエス。でも両親はその意味が分からない。イエス様が神の御子とまだ分かっていなかったから。
 私たちも「イエス様こそ御父なる神の御子」と心底悟れば一気に真理を得る。神が人と成った恵みも、死なれた秘儀も。


●26(水)灰の水曜日・受難節
だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。    (1ヨハ5・5)

 神を愛すること・その方の掟(つまり御言葉)を守ること・悪の世に打ち勝って神の子として生きられること・・・これらは全部繋がっていると言われている。迫害の世で生きる羅針盤としての言葉だ。
 受難節に入った。私の罪のために十字架で死なれた主を憶える日々。それは、具体的に「こう生きよ」と聞いているのに、従わない姿を数えることだ。信じますと言いながら、神の言葉を無視している。勝利への羅針盤を自ら捨てる姿を数えよ。


●27(木)
不平を言わずにもてなし合いなさい。        (1ペト4・9)

 心を込めて愛し合いなさいと告げられた直後、この御言葉が告げられてゆく。まるで愛し合うことの中身が分かるように。愛し合うためにはこうやって心と手を足を動かすんだよと、教えるように。
 確かに、もてなすことはお互いに大切。でもその時「嫌だな」とか「辛いな」とか「面倒だな」とか「義務だし仕方ないな」とか、そういう心じゃ駄目ってことなんだ。
あれ! どうしてスルスルと不平の言葉が出て来るんだろう。ボクの心の中を掃除しなきゃ。こりゃあ、大掃除になるな。



●28(金)
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。   (エフェ6・11)

 悪魔の策略が、襲って来るのだ。それを甘く考えてはいけない。それは、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする闘いだと聖書は告げる。その闘いに対抗する神の武具は真理、正義、福音、信仰、救い、主の霊、そして神の言葉だ。
 信仰生活そのものからはずれる時、悪との闘いに敗れるのだ。今日という一歩も、その闘いが開戦される一日。気を引き締めよ! 神の武具を取れ!


●29(土)
神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。  (ヘブ10・36)

 神を信じて御心を行う時、世から迫害を受けたキリスト者たち。その受けた苦しみ、そこでの忍耐は、正しい闘いだったのだよと言われているのだ。だから、希望をもって今まで通り御心に歩めばよい、と。
 歩んで来た過去を想起することは、未来への希望に繋がる。私も、これまで通りただ御言葉に従おう。周りから、そんな生き方だと言われても、この世から浮いていると言われても、そこは御国への本通りだから。その先に、ゴールがあるのだから。


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2020年02月23日

説教 『主の声に聞き従え』

2020年2月23日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編95編1〜11節
95:1 主に向かって喜び歌おう。
   救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
95:2 御前に進み、感謝をささげ
   楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
95:3 主は大いなる神
   すべての神を超えて大いなる王。
95:4 深い地の底も御手の内にあり
   山々の頂も主のもの。
95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。
   陸もまた、御手によって形づくられた。
95:6 わたしたちを造られた方
   主の御前にひざまずこう。
   共にひれ伏し、伏し拝もう。
95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
   主に養われる群れ、御手の内にある羊。
   今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように
   心を頑にしてはならない。
95:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。
   わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
95:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい
   心の迷う民と呼んだ。
   彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
95:11 わたしは怒り
   彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

 「主の声に聞き従え」と告げられます。それは、主を熱く賛美していた人々に対してです。つまり彼らは、神を信頼することにおいて熱しやすく、冷めやすい人々だったからです。御業を経験したのに、すぐに忘れて頑なになり、不平の虜になったのです。ふと「それは私だ」と思いました。そんな、背くばかりの私が、なお神の恵みの中に留めていただけるなんて図々しい話が在り得るのでしょうか。もう自分の力ではどうしようもないんです。

 そう説教準備の中で気付かされた、そこで、でした。そんな私であるということを、私自身よりも知っていて下さる方がおられたと気付いたのです。それも、一瞬たりとも躊躇なさらないで、私のためにご自分の命を十字架に架けて、私を罪の道から取り戻してくださった方がおられた。それが御子なる神であられたのではないですか。私どもが少しは義しい者になれたら、神様はその義しい姿に関わって下さると言うんじゃないんです。その逆で、神の言葉を少しも本気で聞いていない、だから自分が神になる生き方でしか歩んでいない私どもに、神様は関わって下さるのです。それは神お一人がとんでもなく忍耐されたということ。それが、私どもを救う十字架の出来事だったのではないですか。

 私どもは、「ちっとも聞き従えない私です」と、その自分を抱えて、イエス様が血潮を流された十字架を見上げる時にだけ、そこから聞こえて来る御声がある。それは「お前のことはよく分かっている。罪人よ、しかし悟れ。あなたは赦された。私の血潮によって、あなたは赦された」と。そして聞くのです、この詩編の歌い人は知らなかったことを、「赦された者として、もう一度私の声に聞いて従う道を歩み出せ。今度こそ頑なになるなよ。心を迷わせないだろ、必ず最善をしていただけると信頼して生きられるだろ」と。良い知らせじゃないですか、これが、福音なんです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:45| 主日説教要約

2020年2月23日の礼拝

礼拝説教「主の声に聞き従え」、詩編95編1〜11節。辻川篤牧師。11、248、507。交読詩編95編1〜11節。
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