2020年01月31日

『日々の聖句』2020年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年1月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(水)2020年元日

元旦礼拝説教

         藤森誠神学生



●2(木)
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。  (1ペト2・4)

迫害に苦しんでいた諸教会のキリスト者に、洗礼の恵みを思い起こさせるために書かれた励ましの手紙である。イエス様は十字架で死なれたが、御父の救いの御計画だった、と。そして今朝のみ言葉の直前には「この主のもとに来なさい」と、宣言するように記されていた。
 私も行こう。貴い要石となって下さった主のもとに。朝ごと、夜ごとに跪いて祈る一年であらせていただきたい。


●3(金)
偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。     (マタ20・26〜27)

 ゼベタイの息子たち(主の弟子)の母が、イエス様に「息子をあなたの左大臣、右大臣にして下さい」と願い出た時、主が答えられた言葉。「偉くなりたいんだね、それなら人の上でなく、皆の下に立ってご覧。それも、しもべになれ」と言われたのだ。
 この世は「テッペン取ってやる」という言葉が流行る。でも神様は違うのだ、「しもべの座を取ってやると生きてご覧」と。そこは神の御子と同じ座だからと。


●4(土)
キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。     (エフェ3・12)

 神の民のユダヤ人だけでなく、あらゆる異邦人にも神の恵みは注がれると語り続けたパウロ。「あなたも信じたら良い、そうしたら神に近づけるから」と。
 ただキリストを信じること・・・、そこから溢れる絶大な恵みを改めて思う。天におられる神が遠くに思えて叫んでいたのに「イエスは救い主」と信じたら、誰でも神の御傍に行けるのだ。この「大胆」さが、「罪人こそ近づける」ということなんだ!


●5(日)

主日礼拝説教
(2020年 年間主題聖句から)

         辻川篤牧師



●6(月)公現日
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。   (ルカ17・15)

 重い皮膚病に苦しんで来た十人が、イエス様の指示された通りにしたら、みんな癒された。でもイエス様の所に感謝して戻って来たのは、たった一人だったのだ。
 「なんて自分勝手な信仰か」と思う。思った瞬間、冷や汗が出た。朝に「今日もお守り下さい」と祈りながら、夜、「一日を感謝します」と祈り忘れている。そんなことが一事が万事だ。自分勝手な信仰は、私だった。今日、変わらなきゃ。


●7(火)
恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。        (ヘブ4・16)

 主イエスは、私たちの弱さを知っていてくださって、その上でなお父なる神に執り成してくださる仲介者。また弁護人でもいてくださる。その主イエスがおられるのだからと、御言葉は告げる、「助けて」と近づけば良いと。そこが恵みの座だよと。
 待っていてくださる方がいる。それも味方として居てくださる。だから今日も、祈りの中で近づこう。その貴い恵みの座に。そこで主が傍に立ってくださるから。


●8(水)
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。   (1ペト1・5)

 この世が完成する終末の日、つまり主が再臨して下さる日、救いの恵みだけに満たされる。もう苦労は終わる、流す涙も拭われる。それがリアルな希望となるのは、ただ信じることのみと告げられる。
 ああ、信じた向こう側にあるのは、完全な平安だ。真の希望なんだ。たとえ今は苦しい人生の道中でも、光を見詰めて歩けるんだ。信じることって、スゴイ。


●9(木)
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。        (ロマ14・1)

 いまだ古い律法的な習慣から抜け切れないでいるキリスト者たちがいた。逆にその兄弟たちを批判する者たちもいた。その批判者たちへ向けて、パウロは告げたのだ。互いに尊重し合い、仕え合うことを見失っているぞ、と釘をさしたのだ。
 「信仰生活とはこうあるべき」と批判する時、隣人を愛することを忘れている。なぜすぐに、隣人も神に愛されている一人ということを忘れてしまうのだろう。愛するとは、受け入れることなのに。


●10(金)
イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。   (1コリ1・2)

 「この人たち」とは誰のことだろうと思って聖書を開いたら、イエス様の御名を呼び求める全ての人だった。それなのに、そのコリントの教会の中で分裂があったのだ。
 教会の信仰者を結びつける一点は、主の名を呼ぶ者とされたということ。つまり扇の要は、主ご自身なんだ。そこに結ばれて、一人ひとりはバラバラでも一つになれる。生活背景も、教派さえも越えて一致できるんだ。十字架を見上げて「主よ、主よ」と仰ぎたい、あなたと一緒に。


●11(土)
あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。   (ヘブ3・12)

 これは信仰の無い人にではなく、信仰者に語りかけられている御言葉だ。生ける神から離れないように励まし合って、今日を歩めと、諭されているのだ。
 神が私から離れるから、恵みが見えなくなるんじゃない。私が離れてしまうから神が見えなくなるんだ。必死で私を握り続けようとして下さる神様なのに・・・。
先ず今日、御手の内に留まろう。一日また一日、その積み重ねを生きよう。


●12(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月・成人の日)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。        (マコ4・39)
   

 ガリラヤ湖上で、嵐に悩む弟子たち。横を見ると、イエス様は安寧に眠っておられる。必死に揺り起こしてすがった時、主は立ち上がって風を叱り、波を鎮めた場面がこれだ。このあと主は弟子に「なぜ怖がるのだ。まだ信じないのか」と嘆かれた。
私の人生の航海にも、主が同乗して下さる。それを信じて進めばいい。たとえ嵐になろうとも、見るべきは波風ではなく、同乗される主ご自身。目を離すな!


●14(火)
あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。   (ヨハ6・36)

 イエス様が「わたしは命のパンである」と群衆を招かれる。また「信じる者は決して渇くことがない」とも。しかしそれに続けて嘆かれたのだ「しかしあなたがたは信じない」と。目の前で見ているのに、と。
 まるで鋭い矢のように、私の胸にも主の嘆きがグサリと突き刺さる。「御言葉を聞いているのに信じない、あなたはもう聞いているのに」と、イエス様がこっちを見ておられる。悲しい顔で私を見ておられる。
 それをしっかり受け止めねば。信じる者になりたいから、今日変わりたいから。


●15(水)
悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。        (マコ10・22)

 財産が有り、善い行いを積んでいた男が、イエス様に「天の国に入るにはどうすれば良いか」を聞いた。そのとき「持っている物を売り払って施し、私に従え」と言われた主。それを聞いて悲しむ男。手放せなかったからだ。
 主に従う道は、自分の遣り方を温存した延長線上にはない。まず捨てて、従うこと。前者が出来ないのなら、その先もない。私もまず握りしめる自我を捨てよう。そこが、背きと罪の巣くう場なのだから。


●16(木)
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。   (ヨハ6・47)

 「わたしは命のパンである」と言われた主が、群衆を招かれる。その命のパンを食べて、生きよと。それが信じる者なのだと。
 私も、イエス様が命のパンだと知ってはいる。でも、それを食べて生きているだろうか。御言葉を第一のパンだと、むさぼり食っているだろうか。ああ、知っている人と、実際に食べる人とは、別なんだなぁ。その間には、大きく深い淵があるんだ。 信じていない側にとどまるのでなく、今日その淵を超えよう。御言葉に生きよう。


●17(金)
はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。   (マタ25・40)

 イエス様が、「審判の日」に祝福される者と呪われる者が分けられる話をされた。祝福される者とは、小さく貧しく弱った隣人に寄り添った人だよ、と。
 祝福を得るのは、大仰な行いを積むことじゃない。それは、隣にいる一人に手を差し出すこと。それをイエス様は「私にしてくれたこと」とさえ言って下さるのだ。その手を、今日伸ばそう。ためらわず。


●18(土)
今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている    (ガラ4・9)

 パウロがガラテヤの信徒たちに、「今まで神でない偶像を虚しく拝んできたが、今は真の神を知っているよね」と言う。それも、「さらに深く、神があなたを知っている深い関係に入っているんだよ」と言う。「それなのにどうして逆戻りするのか」との嘆きも、この後に続いていた。
 私も、まず神様が私を愛して下さって、「相思相愛の関係」に入れて頂けた。それなのにその愛から離れたら、神の嘆きはどんなに悲しいだろう、深い痛みだろう。


●19(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●20(月)
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた   (1コリ2・2)

知恵も学歴も、ありとあらゆる能力を持っていたパウロが、福音を伝えるためにはそれらを用いないと語る。十字架につけられたキリストを伝えることしかしないと言う。人の目に愚かとしか見えない磔にされたイエス様しか語るまいと言う。あなたがたが、その一点で救いに至って欲しいから。人の知恵によらず、神の御業のみによって救われて欲しいから、と。
ただ十字架にすがろう。ただ十字架を誇ろう。そして十字架に留まるのだ。


●21(火)
さあ、立て。ここから出かけよう。        (ヨハ14・31)

「イエス様、どこに出掛けれられるの?」と思って聖書を開いたら、アッと思った。これは、裏切られて捕らえられる直前の場面。つまり出掛ける場所は、十字架への道ということだったから。
主は、しっかりと十字架を見詰めておられる。そこから目を離されない。そこが救いを成し遂げられる場所だから。
ふと「お前のために行く。さあ、一緒に来なさい。十字架の真下に立ってお前の救いの完成を見よ」と仰っているように聞こえた。私も十字架から目を離すまい。


●22(水)
異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。   (ルカ2・32)

幼子イエス様が神殿に連れて来られた時、信仰の人シメオンが神を称えて言った言葉がこれだ。「わたしはこの目で救いを見た」と告げ「異邦人を照らす光だ」とイエス様を指して言ったのだ。
まだ赤ちゃんなのに、見ただけで「万人の救い主」と喜びに溢れたシメオン。それなのに私は、主の御言葉を直に聞いてさえいるのに喜びが薄い。信心が鈍いのか?真剣に「主の言葉だ」と受け取る心のキャッチャーミットが、ほころびているのか。


●23(木)
主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。   (ルカ2・15)

 夜の闇夜に突然、天使の大群が現れて羊飼いたちにイエス様のお生まれが告げ知らされた。そのとき羊飼いたちは、すぐに立って走り出したのだ、「その出来事を見ようではないか」と。胸躍らせながら、ベツレヘムに駆けだしたのだ。
 私も、すぐに立って走り出そう。「イエス様にお会いしよう」と、朝ごとに祈りの場に駆け出そう。そこでいつも会えるから。主のみ言葉を聞きたいと聖書を開こう。そこでいつもお言葉を聞けるから。


●24(金)
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です。       (1コリ6・19)

 パウロは、コリントの信徒たちの乱れた生活を聞いて、嘆きつつ訴える。あなたはキリストによって聖くされ、神の霊が宿る神殿となったのだから、神の栄光を現わして生きるべきだろ、と。
 私の体も、神の住まう神殿なんだ。受洗の日に聖霊を戴いて、こんな私も神殿とされたんだ。だから毎朝「この体をどう使えば、神の栄光をあらわせますか」と祈って始めよう。きっと御子のように隣人を愛して生きよ、って言われるのかもね。


●25(土)
イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。   (ヘブ13・15)

 この直前で、あなたがたを聖なる者とするため死なれたキリストが、あなたの大祭司となってくださったのだと告げて、「だから」と今朝の御言葉に続く。イエス様への感謝と賛美は、ここに根拠があるのだ。
 御子の命が、私への贈り物とされた。なんという高価で貴い戴き物か。その貴さが分かる人だけが、応分のお返しが出来る。「私の身を献げてもまだ足りない」との思いをもって、御前に進み出たい。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●27(月)
この方においては「然り」だけが実現したのです。 (2コリ1・19) 

 父なる神の約束は、御子イエスにおいて全てが成就した。「あなたの罪が赦される」という、最大困難の約束さえもだ。これだけは駄目だ、というものは一つもなかった。「すべて御子の死によって、実現したのだ」と、言われているのだ。
 神様は、私の何もかもを御存知の上でなお、私を肯定して下さる。無条件で、だ。「神様なぜ?」と問うてみて、ふと「お前を愛しているから、お前を守りたいから、お前を失いたくないから。救いたいから」と、御心が聞こえた気がした。


●28(火)
霊がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。   (使8・29)

 人徳がある立派な人物だけど、まだ真の神を知らなかったエチオピア人が、馬車に乗って走り去る。その時、神の霊がフィリポに「お前があの人を追いかけろ。一緒に行け。そしてキリストを証するのだ」と告げたのだ。
 私にも聖霊が告げる「お前も行け、あの人の所へ。待っているんじゃなく、追いかけて寄り添え」と。途端に走り出したフィリポのようになりたい。そこに救いが起こるから。愛する隣人に起こるから!


●29(水)
洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。     (コロ2・12)

 キリストと共に死んだ私。同時にキリストと共に新しい生命とされた私。どこまでもピッタリ引っ付いて生きている今という日。そのあなた方だから、キリストと結ばれて生きよ、と御言葉は告げる。
 もし一体となった二人がバラバラになったら、その裂け目を痛むのは私だけではなく、同時にイエス様もだ。私の罪の歩みはイエス様を「痛い」と叫ばせているんだ。


●30(木)
真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。    (1ペト4・19)

 信じて生きるゆえに迫害と苦しみの中にあるキリスト者に、御言葉は「それでも善い行いに生きるのだ。あとのことは真実であられる神が傍におられるから、お任せすればよい。全存在をゆだねたらいいから」と告げる。
 私の生き方に、今日改めて照準が定められた。それは、ただ神の御言葉に従って生きるのみ。たとえ人が見て評価しなくても、なじられても気にしない。だって、見ておられるのは、御父なんだもん。


●31(金)
レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。     (マコ2・14)

 当時、人々から「売国奴」とさえ言われて嫌われて、それでもローマ帝国側で働いていた徴税人。その徴税人だったレビに、イエス様だけが目を留めて下さって、「私に従う弟子になれ」と招いて下さった。
 私にも、イエス様は同じように目を留めて下さり、同じように招いて下さる。罪人の私なのに・・・。コッチに来るようにと手招きして下さる。だから、すぐ立ち上がって従ったレビのように、私も立ち上がろう。イエス様の弟子とされるために。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:24| 『日々の聖句』

2020年01月26日

説教 『その言葉は世界の果てに』

2020年1月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編19編1〜15節
19:1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
19:2 天は神の栄光を物語り
   大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え
   夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく
   声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に
   その言葉は世界の果てに向かう。
   そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように
   勇士が喜び勇んで道を走るように
19:7 天の果てを出で立ち
   天の果てを目指して行く。
   その熱から隠れうるものはない。
19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ
   主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
   主の戒めは清らかで、目に光を与える。
19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き
   主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく
   蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し
   それらを守って大きな報いを受けます。
19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から
   どうかわたしを清めてください。
19:14 あなたの僕を驕りから引き離し
   支配されないようにしてください。
   そうすれば、重い背きの罪から清められ
   わたしは完全になるでしょう。
19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない
   心の思いが御前に置かれますように。
   主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。


 キリスト者でなくても、「この世界には大いなる方が居られるんだ」と感じるんじゃないでしょうか。そういう神様の知り方は、単にイメージではなく、具体的なものとなります。なぜなら神様は、御自分の思いを言葉にして伝えて下さるお方だからです。それが御言葉なのです。

 この詩人は、だからこそであったのかも知れません。お言葉によって御心を知らされているのに、その神様を悲しませる者であったことに気付いて愕然としたのです。14節「あなたの僕を、驕りから引き離してください」と。本当は、私どもの人生には、神様が取扱説明書を渡して下さっているはずなんです。御言葉は、信仰と生活との誤りなき規範なのですから。それなのに自己中心で生活を動かそうとするから、生活が壊れるのです。それは、神ご自身の悲しみなのです。だから詩人はもう一度、自分の目を神へと上げて言ったのです「あなたの僕を、驕りから引き離してください」と。その時でした、詩人の口からこの詩の最後の節に記された言葉が漏れ出たのです、「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」と。

 私は、人は驕って過ちを重ねてしまうのに、神様は贖って(取り戻して)下さるお方だと分かった上で、もう一度最初からこの詩を読み直してみました。その時、詩人が感じていた、本当の天の輝きに触れた気がしたのです。それは「この世界は全て神が愛された世界、それ以外の物は一つもない」という喜びです。そういう「神は全てを愛された」という響きが、5節、「世界の果てにまで向かう」のです。その「世界の果て」とは、単に地理的場所のことじゃありません。人を傷つけ、自分の正義ばかり主張して、神の御言葉を捨てて歩いている、そういう私どもがうずくまる場所です。その「世界の果てに向かって」、神の言葉が届くのです。「あなたは私の愛する人。どうしてそんな所に居るのか、私の傍で生きよ、愛されて生きよ」と、神の御声が届いて行くのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:41| 主日説教要約

2020年1月26日の礼拝

礼拝説教「その言葉は世界の果てに」、詩編19編1〜15節。辻川篤牧師。7、210、526。交読詩編19編2〜7節。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ