2019年10月31日

『日々の聖句』2019年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年10月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(火)
主はその偉大な御名のゆえに、ご自分の民を決しておろそかにはなさらない。  (サム上12・22)

 神に仕えるサムエルが民に「恐れるな」と語り出す。「あなたがたは悪を行ったが、今後はそれることなく主に仕えなさい」と。その理由に今日の御言葉が繋がる。
 こんなに人間を求めて、人を愛そうとしてくださる神がおられるのに、どうして神様に頼り切れないんだろう。〈自分自身〉という偶像が、心の内に巣くっているからだ。旧約の民の姿は、私の姿に重なる。立ち帰らなきゃ、朝ごとに夜ごとに。


●2(水)
神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。   (出2・24)

 エジプトの国で、奴隷として苦役を嘆いていたイスラエルの民。その激しい叫びがついに神に届いた時、神は遥か昔・五百年以上も前の約束を思い起こされた。「あなたを祝福する」と言われた約束を。
私も神様から約束を戴いた日がある。あの洗礼の日、神が「わが子とする」と約束して下さったのだ。今朝改めて、その約束を心に刻もう。今日も神の祝福の中に生きていると感じたら、何だか景色が変わって来るから。安心色になるから。


●3(木)
目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。   (イザ40・26)

 バビロンへの捕囚と、そこからの帰還を予告する預言者イザヤ。大きく歴史が動こうとしていた。そのとき、その歴史の支配者へと目を向けさせるのだ。あなたの主を見よ、と。
 行き詰ったら、広いところへ出かけよう。そして大空を見上げるんだ。それから、祈りの心をもって、万物を創られ、今も保持しておられる主を想おう。そうしたら、その御手の中に私の「今」があると思い出せるから。ホッと出来るから。


●4(金)
主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。  (詩16・7)

 励まされなければならない状況に窮している詩人。敵がいるからだ。
 そこで励まされることを願うのだけれど、彼は「勇気を出させてください」とか「敵をやっつけて」とかを願わないのだ。
一六編を読んで驚いた。彼の励ましはどこから来るのか、それは「私には主がおられる」という一点だったから。
 不安が募る夜ごとに、本当に安心させていただける言葉は「主が一緒だよ」という諭しなのですね。それは真だなぁ。


●5(土)
あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。    (申9・7)

 出エジプトを果たした民が、約束の地に入ろうとする。そこで、強国との闘いが始まる。その民に向かってモーセが語った「主は勝利を賜るが、あなたがたが正しい民だからじゃない。『背き続けて来たにもかかわらず』なのだ。それを忘れるな」と。
 ドキッとした。「背きは数えられている。神は私の背きを忘れない」と思ったから。幸いの日々を過ごせているのは、にもかかわらずの恵み。それが罪人の恵みの受け取り方だったんだと、気付き直したから。


●6(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●7(月)
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。   (詩10・1)  

 詩人は、明らかに苦しみに悶えている。隣人に責め立てられているから。侮られ、呪われ、騙され、打ち倒されそうなのだ。その淵から叫んでいる「主よ、あなたはどこにおられるのか」と。それがこの詩だ。
 苦難の暗闇が一層暗くなるのは、孤独に気付いた時かも。助けが一人もおらず、神さえも沈黙される時。祈っても、空を打つように感じる時なんだ。
 主よ、沈黙なさらないで! 私も、神様だけが頼りなのですから。


●8(火)
主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」   (創18・32)

 罪に満ちたソドムの町が、主の怒りによって滅ぼされようとする。そのときアブラハムが執り成して、神と押し問答した。正しい人が五十人いたら赦して下さるか。よろしい。では四十人でも。よろしい。三十人だったら。それもよろしい。そして遂に十人でもと言ったのだ。それらをすべて受け入れられたのが、主なる神だった。
 ふと、「主のほうこそ、少しでも正しい人がいてくれることを切望しているみたい」と思った。主のお心を覗いた気がした。


●9(水)
「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。」   (創1・14)

 昼の輝く太陽も、夜空に瞬く月も星も、全てが神の御手によると語る。全てが御心による配置。全てのバランスが、神の支配のもとにある。
 これを信じるとは、一切を委ねても安心できる「お方」に出会って、そこに生きるようになれるということ。そうだ! 天地創造が物語るのは、地球の出来方なんかじゃなくて、大切な「お方」との出会いへの招きがここにあるんだ。


●10(木)
わたしの目は高くを見ていません。大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。     (詩131・1)

 神殿に向かうダビデの詩として、古来より読まれて来た詩。礼拝に向かうのか、それとも追われて逃げた荒野からの帰還なのだろうか。いずれにしても、私の心とはまったく違う告白がここにある。 私は高みを望んでいたから。謙遜なのは振りだけで、大きくされることに心は捕らわれている。そんな自分に自分で恥ずかしい。今日からこの御言葉を自分に言い聞かせるんだ。今日からでもいいから。


●11(金)
あなたたちは既に久しくこの山にとどまっている。向きを変えて出発し・・・行きなさい。    (申1・6〜7)

 ヨルダン川の東まで来た民の目の前に、神が父祖アブラハムに約束して下さった祝福の土地が広がる。そこへと、現状に留まることを蹴って、踏み出して行けと主がモーセを通して命じられたのだ。
 ひょっとしたら人は、慣れた現状に安住することに流れるのかも。でも主は、祝福はそこじゃないと言われる。さあ、留まることから向きを変えて出発しよう。未知の世界、でも主の御手の中の世界へ。


●12(土)
わたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。       (イザ43・25)

 神に背いて、その罪のゆえに異国に捕囚となった民。主は聖にして義なる神だから、その罪を見なかったことに出来ない。その神が人々の苦しみを見て、人間の罪を御自分がぬぐうと言われたのだ。
 人間の悪を、神様がまるで飲み込むようにして「もう思い出さない、もういいから」と言われる。赦す側の御父が、誰より苦しんでおられる。「あなたを愛しているから」って、御声が聞こえた気がした。


●13(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●14(月・体育の日)
主よ、あなたは人をも獣をも救われる。      (詩36・7)

 詩人は、主の慈しみは天に満ちていると歌う。その慈しみの視線がどこまで届いているかを、今日の一言で伝えていた。全ての人に、そして全ての生き物にだと。
 「どうしてそこまで愛されるの? 一体、人も獣も何者だからなんだろう」と考えつつ、ふと思い出した。神様と全てのものの関りの初めを。全てのものは、御手によって創造された神の宝だったと。私も、隣人も、全ての生き物も主のもの。だから、主が必死に守って下さるんだ。その視線の中を、私は今日も生きる。


●15(火)
主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」    (創4・9)

 カインは、妬みのために弟アベルを殺した。そのカインに主が「かけがえのない弟はどこにいる」と問われる。「知りません。そんな男のことなど」と激しく言い捨てる兄。罪は果てしなく膨らんで止まらない。
 自己中心に生きる罪。その時、自分が〈神〉になっている。そこで最愛の人との関係も壊しているのに。不幸へと落ちる元凶は、周りのせいでなく、自分の中にある。


●16(水)
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。    (創2・19)

 神が世界を創造された時、アダムが独りでいるのは良くないと、あらゆる生き物を連れて来られた(後に、女・エバを造られるのだけれど・・・)。
 生けるもの全て、人間の慰め手なんだ。人は孤独でいるのは良くないから! 急に、世界が愛らしく見えて来たかも。


●17(木)
民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。      (出16・4)

 エジプト脱出ののち、荒野で民が飢えた時、主はマナを降らせる約束をされた。「一人ひとりに必要な分だけ、必ず与える」と。でも人は欲にまみれてかき集める。次の日、虫がついて臭くなるのに。
 主は試された! そこで明らかになったのは、約束に従う信頼ではなく、恵みさえ欲で踏みにじる罪の姿。飽き足らぬ欲の塊。その欲による収穫は、腐って臭うのに。そこから離れたい、離れねば。


●18(金)
主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。    (詩6・3)

 詩人は嘆き続けて疲れ切っている。その原因が自分の罪にあることを知り、懲らしめにあっていると分かっている。そのゆえに、神に憐れみを求められるのだ。あなたの憐れみが、私の嘆きを癒すのだと。
 素直に罪を認め、懲らしめと悟り、迷いもなく主に憐れみを乞える詩人。それは、それほどに神と一緒に生きているからなんだ。まるで「お父さん、御免なさい」と泣きつつ父に抱きつく幼子のように。怒られても愛されていると知ってるんだな。


●19(土)
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」    (創2・18)

 アダムがまだ独りだった時、彼自身よりも心配して下さったのは神様だった。孤独の危険性を、人間よりも、創り主のほうが分かっていて下さったから。そしてエバが造られた。それが、最初の隣人だった。
 人は隣人との間で悩む。友人であれ、家族であっても。でも本来、隣人とは、支え合うために神が私に添わせて下さった大切な人なんだ。私を孤独から救う一人なんだ。ふと、隣人(家族も友人も)を見る眼差しが、柔らかくなった気がする。


●20(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎協力牧師(和泉短期大学チャプレン)



●21(月・祝日)
あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら・・・     (王上8・33)

 神殿が完成した時、ソロモンが主に祈る。彼が願った一つひとつは、彼が何を大切にしていたかを表わす。それは「悔い改めるなら、赦しを」ということだった。
 私なら「恵みと祝福を下さい」と、まだ何かをねだっているかも。彼は、人は罪人だと分かっている。だから赦しを願った。これが真の王の姿。誠実な者の姿なんだ。


●22(火)
ひとりのみどりごがわたしたちのためにうまれた。  (イザ9・5)

 代々の教会が「イエス様の降誕を告げている」と聞いて来た箇所だ。罪による王国の滅亡を預言しつつ、尚その先の回復を預言したイザヤが告げる言葉に、教会は救い主の到来を聞いて来たのだ。
 罪を犯さざるを得ない罪人の私。そんな罪人だからこそ、私が聞きたい預言がある。聞かねばならない知らせがある。それは、私・罪人のための救い主の到来だ。
私もこの箇所が「一人の赤ちゃんが、私の罪の救いのために生まれた。イエス様を仰げ、この方を見よ」と聞こえた。


●23(水)
正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。   (アモ5・24)

 南北王国が滅びる前の時代。イスラエルの民に「主は立ち帰れと言われたのに、お前たちは罪を重ねる! 滅びが待っているぞ」と嘆き語る預言者アモス。その中で、主にある者の礼拝生活の姿を加えて語ったのが、これだ。正義と恵みの業を、大河の水が豊かに溢れるほどに尽くせ、と。
 「私も少しなら恵みの業もしている・・・」ではNGなんだ。遠慮も見栄も恥じらいも、愛することにおいてはかなぐり捨てて、怒涛のごとく尽くすべし! べし、だ。


●24(木)
聖なる方は主のみ。あなたに並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。    (サム上2・2)

 今年の主題聖句! 子供がなくて悲しむハンナに、祭司から、願いは成就すると伝えられる。そのときハンナから悲しみは去り、この祈りの言葉を胸に刻んだのだ。
 この祈りは、彼女の生涯の祈りとなっただろう。「主への賛美」の祈りが、「信頼の告白」の祈りと繋がっている。その経験は、生涯において「土台の在りかは神様だ」と悟らせてくれる。ああ私も、この一連の中を生きたい。


●25(金)
主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。        (サム上2・1)

 あ! これは、昨日と同じ「ハンナの祈り」の箇所だ。
 二日連続でクジで引かれるなんて、どういうことだろう。「ハンナの祈りを何度も読み返して、もっともっと自分のものにするんだよ」という御心だろうか。そうしたら、本当に苦難の中で、私もなお主を見上げて喜びを得る人になれるから。希望を持てるようになれるからかも。
さあ、聖書を開こう。何度も読んで味わい尽くそう。自分の言葉になるまで。


●26(土)
見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。(創13・15)

 主の召命に従って、故郷を後にして旅立ったアブラハム。一番大切に思う地縁血縁の場所を後にさえして、主の言葉を前にして進んだ。その彼に、想像を遥かに越えた恵みが待っていた。「見えるかぎりの土地すべて」が「故郷の見えていた限りの小さな土地」に引き替えられたのだ。
御言葉に従う道に、神の幸いが待っている。それを選ぶか否かは、私次第なのだ。この選択が、恵みの受領と直結している。信仰の歩みとは、選択のことなんだ。


●27(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●28(月)
復讐してはならない。    (レビ19・18)

 主が律法を仰せられる、「聖なる者となれ」と。その文脈に今日の御言葉もある。また、表裏一体で「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」ともあった。
 今まで、「復讐するな」とは、自分で仕返しするなという禁止命令だと思っていた。世の中は「倍返しだ」を喜ぶけれど、教会は違うんだ、という程度で考えていた。しかし、ここにある御心は、「愛せ」という命令なのだ。その中に「復讐」などという思いはないはずだと。それが聖なる者なのだよと。ガツンと言われた気がした。


●29(火)
「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。」     (エレ1・9)

 エレミヤ召命の場面だ。でも彼は「語る言葉を知りません。若者にすぎません」と固辞する。そういう彼に、主が優しく、しかし厳しく言われたのがこの言葉だ。
 私たちも、隣人に福音を伝えるように神様から託されている。でもいつも「私には無理」と言い訳している。そんな私にも届いた主の諭しに、悟らねば、「語る言葉は神がきっと備えて下さる。私に無かったのは言葉ではなく、小さな勇気。私をお用い下さいと祈る小さな祈りだった」と。


●30(水)
主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。    (詩25・8)

 詩人は、主の恵みを求め、慈しみに依り頼んで歌っている。
 私は、主の恵みと聞くと、素晴らしいプレゼントを戴けることだとイメージしてしまう。健康を戴けることとか、願いが叶うこととか、病が癒されることとか・・・。
 でも聖書は、そんなことを恵みと数えてはいない。主の恵みは、罪人が立ち帰れることだと考えているんだ。あ、然り。それ以上の恵みが他にあるだろうか。真にそれこそが、神からの最大の贈り物だった。


●31(木)
あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。   (出16・8)

 エジプト脱出の恵みの直後。感謝の言葉もソコソコに、人々は荒野で不平を言い出した。「腹が減った、モーセは我々を飢え死にさせる」と。その彼らにモーセが「私への不満だろうが、あなたたちは主に不平を述べているのだ」と警告したのだ。
 神様から恵みを受けても、すぐに不平が出る私。それはきっと、自分の神が自分自身で、神様を自分の願い事を叶える僕にしているからだ。「もっとこうして欲しい、こうでなきゃだめだ」と、神に命令しているからだ。御言葉にハッとして、いやヒヤッとして、傲慢の罪から飛び退かねば。


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2019年10月20日

2019年10月20日の礼拝

礼拝説教「十字架につけられたイエス・キリスト」ガラテヤの信徒への手紙3章1〜14節、西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)。讃美歌26、〈丘のうえに十字架立つ〉聖歌隊、262。交読詩編78編1〜8節。
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2019年10月13日

説教 『共に生きています』

2019年10月13日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二13章1〜4節
わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。

 イエス様は確かに弱くなられました。御父の計画に委ねる歩みは、弱さを通るからです。しかしそこに歩まれた故に勝利した。そのキリストをパウロは高く掲げて、4節、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられる」と指し示したのです。そして「わたしたちもキリストに結ばれたものとして弱い者です」と。そう語るパウロには、「昔の私はこうじゃなかったけどね」という思いが暗黙裡にあったと思います。彼は自分の力で生きるとしたら、この世で最も成功が約束された人物でした。でも、復活されたイエス様、つまり真の大勝利のイエス様に出会った日に、パウロはイエス様と共に歩むほうに変えていただいたのです。180度の方向転換、回心でありました。そういう自分の回心を思いながら、彼はコリントの人々もキリストと共に歩む生き方へと、変わって欲しかったのだと思うのです。

 皆さん、キリストの結ばれて歩むということは、真剣勝負です。御言葉に従うという生き方は、単なる心の中にある努力目標などではないんです。それは、生き方を変える冒険に出る、ということなんです。今までの自分の「こういう計画でやれば安心、こうやって行けば想定内に収まる」と生きる生き方を放棄して、御言葉ならばと、神の言葉を自分の羅針盤に付け替えて踏み出す、その冒険をすることなんです。それは今までの自分自身への挑戦となるしょう。キリストと共に生きる者とは、そういう挑戦を、自分自身に挑み続ける者達のことなんです。

 その人生は必ず、主イエスが共にいて下さる日々になります。そしてそこが、神の力が豊かに働く場所となるのです。パウロは、「もしも今度コリントに訪問した時に、昔のままの自己中心なあなた方だったら、もう容赦しないから。今度は力づくでも変わってもらうから、変わって欲しいから。愛する兄弟姉妹なのだから」と告げたのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:00| 主日説教要約