2019年09月15日

説教 『生きるために死ぬ』

2019年9月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙2章15〜21節
わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

 宗教改革者ルターはガラテヤ書を「私の妻」と呼び、この手紙から力を得て、改革の働きを進めたと言われています。宗教改革の三原則の一つである「信仰義認」となったのが今朝の箇所でありました。「義(正しい)」とは「曲がっておらず真っ直ぐ、基準に沿っている」という意味です。「基準」は神で、ユダヤ人に神から与えられた律法を行うことが基準である神に受け入れられることと彼らは信じていました。パウロもその一人でした。しかし、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ロマ7章19節)自分の罪深さを知らされ、罪の克服に対する無力さを認め、神が遣わされた神の子イエスに「信仰」(神への信頼、自身を神に委ねること、神に従順を尽くすこと)をもって近づいた時、彼は「義とされ」ました。罪と罰から救われ、神との正しい関係に入れられ、神と共に生きられるようにされたのです。「生きる」のは、「神に対して生きる」(19節)、つまり神に向かって、また神のために生きる者とされたのです。この新しい生き方をする前に、古い生き方に死ななければなりませんでした。それをパウロは「キリストと共に十字架につけられている」(19節)と表現しました。この表現は洗礼により罪の赦しとキリストとの交わりを意味する(ロマ6章)と同時に、キリストと苦難を共にする(コロサイ1章24節)を含みます。異邦人信者の中には、キリストにおける律法からの自由を主張しても、キリストと共に十字架を担うことを拒否する者がいました。しかし、キリストと共に生きるとは、主が通られたすべての喜びも苦しみも共有することなのです。主は私たちのパートナー“partner”(苦楽を共にする人)なのです。「キリストに対する信仰により義とされる」にはこういう生き方も含まれているのです。十字架は確かに悲惨です。しかし、その中に栄光が隠されているのです。こういう生き方には大きな喜びが伴ってもいるのです。
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2019年9月15日の礼拝

礼拝説教「生きるために死ぬ」、ガラテヤの信徒への手紙2章15〜21節、西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン、相模原教会協力牧師)。讃美歌21、<127・126>男声聖歌隊、269。 交読詩編31・15〜25。
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