2019年09月01日

説教 『神がわたしに面目を失わせる』

2019年9月1日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 12章19〜21節
あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。


 コリントの教会が荒れていました。そういう時に出る言葉は「しっかりしなさいよ」という叱咤ではないですか。しかしパウロは、21節「再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか」と言ったのです。つまり、自分が低められ、卑しめられ、辱められると言っているのです。それもです、それをするのは周りの人ではなく、「神が」と告げていたのです。

 一体神が、ご自分のことを人々に伝えようとする者を低くされるというような事があるのでしょうか 戸惑ってしまって、「面目を失わせる」という言葉が他にどこで使われているのか調べてみたのです。その時、ハッとしました。フィリピ2章8節「キリストは・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。これはキリストの姿ではないですか。その「へりくだって」が「面目を失う」と同じ言葉だったのです。キリストは人々を愛し抜かれました。それなのに、人々から称賛されたのではありません。神が、御子を十字架で死なせる道に歩ませたからです。徹底的に低くされ、卑しめられ、嘲られ、辱められ、鞭打たれ、十字架の汚名を着せられたのではないですか。十字架の上に、神が面目を失わせた人がいる。完全に卑しめられた方がいる、それは神の御子、十字架で死なれた救い主です。パウロは、このキリストの歩まれた道に、自分も従って行きたかったのではないですか。だから彼は、コリントの町に戻るのです。そこで人々の前で、もう一度卑しめられるところから始めるために。一人でも多く、神の福音を伝えたいからです。

 今朝み言葉は、私どもにも歩む道を示します。それは、「あの人のためなら、私は低められて生きよう。どうか神が、私をあの人の前で小さくして下さって、キリストの道を歩めますように」と祈りつつ生きるようにと。その私どもを神のなさり方で用いて下さって、そこに福音が伝えられるのですから。
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2019年9月1日の礼拝

礼拝説教「神がわたしに面目を失わせる」、コリントの信徒への手紙二 12章19〜21節、辻川篤牧師。讃美歌19、66、493。 交読詩編119・73〜80。この日は第一主日ですので、礼拝の中で聖餐式が執行されます。
右向き三角1振起日です。教会学校はこの日から2学期が始まります。合同分級では夏休みの思い出を分かち合う予定です。
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