2019年09月30日

『日々の聖句』2019年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年9月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●2(月)
口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。(箴10・19)

 ソロモンの格言集としてまとめられた中の一節。
 日本でも「口は禍の元」とか「沈黙は金」とかいう。誰もが分かっているのに、どうして要らない一言を口から出すのだろう。一言メールしたり手紙を送ったりしてしまうんだろ。そこで人を傷つけているのに。きっと、その言葉を作りだす元のところ、つまり私の中、つまり私の心の中に悪が住み着いているから。あ、だから、これは罪の問題なんだ。処世術の話じゃない。


●3(火)
まことに憐れみ深いあなたは、彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。  (ネヘ9・19)

 バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還できた民。そこで自らの背きの罪を告白し、同時に主の憐れみをたたえた。
 神の慈愛にいつ気付けるのか、ちょっと分かったかも。それは恵みに満ちた日々じゃない。逆に、過ちと罪に落ち込み、それが神への背きの姿だったと気付かされて悔いる心に、なお自分が見捨てられていないことに気付けた時。正にそこで神の愛が分かる。罪人なのに、なお赦され愛されていることこそ、主の憐れみだから。


●4(水)
「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」 (創24・27)      

 アブラハムの僕が、主人の息子イサクの嫁探しの旅に出た。それは干し草の中から針を捜すようなもの。でも条件に合う人に出会えた時、祈った言葉がこれだ。
 到底無理と思える問題も、御心ならば成し遂げられる。ならば、「困難を乗り越えられた」と思う時は「ここに御心があった」という信仰と「ああ感謝」という祈りが起こる時なんだ。達成感に浸っている場合じゃない。「自分にご褒美」なんて見当違い。今頃気付いて恥ずかしや。


●5(木)
主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。  (詩3・4)

 この「それでも」ってどういうことか。ダビデが息子に命を狙われ、さらに周りの者から「お前に神の救いなどあるものか」と言われても、「それでも」ということだ。
 主への信頼は、絶体絶命の時にこそ問われるんだ。絶望の淵に立った時に、信仰の在る無しが露呈するのだ。ああ御霊よ、私にも、この詩人ダビデのような一言を唇にのぼらせて下さい。「主よ、あなただけ」というすがる信仰を与え給え。


●6(金)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。     (ゼカ4・6)

 バビロン捕囚の苦しみの後、都への帰還が主の使いによって告知される。それは、人々の力によるのでもなく、政治的な勝利でもない。主は、「わが霊によって」と告げられたのだ。
 全ての苦労が報われたように思う日が、私にも来るかも。努力が実ったように思え、風が私に吹いて来たなんて思う日も来るかも。しかしその時にこそ祈ろう「ただ主のお陰。主の霊がこんな私にも働いてくださったんだ。畏れと感謝のみ」と。


●7(土)
人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。  (申8・5)   

 出エジプト後の荒野の旅を振り返って、モーセが御旨を伝える。あの日々は、あなた方を主の民に育てる訓練の時、神が御自分の子として育てた日々だったのだと。
 神への全き信頼者となること、真の信仰者となることを願うのは、私自身よりも、御父なんだ。「試練が厳しい」と思う日に、一番そばにいてくれるのも天の御父なのですね。「さあもう一度私の言葉に従って御覧」との励ましが聞こえます。


●8(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●9(月)
主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。(ヨナ1・14)

 御心に背いて船で逃げ出し、大嵐に遭ったヨナ。そこで観念したヨナが「私を海に放り込め」と言うが、船員達は何とか自力で陸に戻ろうとする。行き詰る攻防の末、ヨナを海に投げ入れる直前で、神に向かって叫んだ船員たちの言葉だ。
 目を離せないノンフィクションドラマを見ているようだ。しかしその現実の遣り取りの中に、神が居られる。そうだ、私の現実も同じなんだ。今日という一日の中心に神が居られる。「御心のままに」と祈って始めよう。私の嵐を乗り切るために。


●10(火)
モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」  (民12・13)

 モーセを非難し、「自分だって神の言葉を直接取り次げる」と豪語したミリアム。途端に重い皮膚病になった。神に打たれたからだ。その彼女のために、非難されたモーセが、執り成して叫んだのだ。
 一二章ではモーセを「謙遜な人であった」とも記していた。モーセの叫びを聞いて、謙遜の意味が初めて分かった気がする。それは末席に座ったり、控え目な態度等じゃなく、自分を非難する人さえ愛せること。弱い人でなく強い人なんだ。


●11(水)
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」   (創1・26)

 天地創造の時、神が人間をどのようなご計画で創られたかが記されている。
 人は神と阿吽の関係に創られた。それは御心を完全に知ることが出来る存在ということ。加えて、世界の調和を保持する神の働きを、人間の使命として委ねても下さった。私は神の大切な存在、神に信頼された存在なんだ。相応しく歩みたい。そうさ、御心と阿吽の呼吸で。


●12(木)
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。  (エゼ11・19)

 預言者エゼキエルが、捕囚の民の中で語る。捕囚後の希望についてだ。それは、神に背いた頑なな石の心から、神が、悔い改めと柔らかな肉の心を与えてくださること。柔らかな心で、まっすぐに神を喜んで歩めるようになるよという知らせだ。
 悔い改めも主に従う心も、自己責任だと思っていた。でも、神様から戴けることに身を任せれば良いんだ。なんて至れり尽くせりなんだろう。ふと、がんじがらめの信仰理解から解放された気がした。


●13(金)
主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。       (詩103・10)

 この直後に「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」と続く。これは赦しと恵みの宣言だ。
 この御言葉を、私たちも礼拝のたびに聞いて来た。「ざんけの祈り」のあとの「赦しの言葉」として聞いて来た。来る週ごとに、繰り返し悔い改めを吐き出し、赦しと恵みを吸い込む。まるで呼吸のように。ああこれが、信仰者の人生なんだ。


●14(土)
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。  (王上19・12)

 エリアが命を狙われて荒野に逃げる。行倒れた場所で、激しい風が起こって山が砕け、地震が起こり、火が噴き出した。でもその驚天動地の中に、どこにも主なる神はおられない。その全ての後に、ささやく声が聞こえて来た。主の御声だった。
 苦難に喘いで、「早く助けて、何とかして、もう駄目です」と騒々しい祈りの中に、主の御声は届いて来ないんだ。主張する口を閉じて、ただ聴く者となって御言葉に聞くなら、生ける神の言葉として届いて来る。私も一瞬で良いから静まろう。

●15(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎協力牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●16(月・敬老の日)
知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。      (詩19・13)

 重い背きの罪から清められ、主に喜ばれたいと願う詩人。その祈りは、自分の罪を探して思い起こし、気付き、悔い改めるだけにとどまらなかった。自分が知らずに犯した過ちと罪があると、わきまえていたから。ここに達する人が、真に驕りから離れた信仰者と言えるんだろう。
 私の祈りに欠けがあったと気付かされる。今朝この詩人の祈りを、私も加えて祈ろう。今夜も明日も、口癖の祈りのように祈ろう。それが私にも必要だから。


●17(火)
主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。   (出4・14) 

 神がモーセに使命を与えて「民をエジプトから導き出して欲しい」と言われる。でも言い訳だらけで断るモーセ。何度も否んで「誰か他の人にさせてください」と言った時、ついに神の怒りが爆発したのだ。
 神が一個人に怒りをぶつけるなんて、めったに見ないお姿。その怒りは、神が求める奉仕を、言い訳だらけで断った故にだった。僕も神をイラつかせている時があるかも、いやある。あの奉仕を脇に置いた時。あれは神様からの懇願だったのに。


●18(水)
復讐してはならない。   (レビ19・18)

 主がモーセに「これを民に告げよ」と掟を言い渡された。レビ記はすべて、その言葉で満ちている。その中の一つが今朝の御言葉だ。この直後に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と続いていた。
 気付くと、相手を打ち負かそうとして頭はカッカと燃え、言葉の武器を取って、心は怒りで満たされる。唇が震えている。それが復讐する者の姿なんだ。しかしそれは、愛することをしない者の姿なんだ。私は、なんて愛の無い者。私は罪を抱えて歩いていた。主よ、憐れみ給え。


●19(木)
バラムは主の御使いに言った「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」   (民22・34)

 イスラエルの民が出エジプトの後、荒野を旅する途上で、モアブの平野の異邦人バラムに神が語りかけた。このとき彼はひれ伏して言った言葉がこれだ。
 異邦人でさえ、主から「行け」と言われれば行き「止まれ」と言われれば引き返す。それなのにキリスト者であるボクの歩みは、どうにも自分勝手過ぎないか。今日こそ「御意は何ですか」と問うて、聞いた御言葉のままを実際に歩んでみるぞ。


●20(金)
「できなかったのだ」などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。     (箴24・12)

 力を出し惜しみして、人を助けようとしなかった人に、「お前の心を見抜いているぞ」と主が言われる。「そのお前の行いに応じて報いも来るぞ」と加えて言われる。
 ヒヤッとした。「できなかった」と、隣人の苦難の横を通り過ぎている自分に気付いたから。「祈っている」と言いながら、訪ねもせず、慰めの葉書一つも出さなかった。「できなかった」とは、結局自分に向けての言い訳。それは罪。それを神は調べられるのだ。そんな自分から今日変わりたい。


●21(土)
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らない。   (イザ54・10)

 この直前には、私はあなたの罪と過ちを背負った苦難のしもべだ、と告げる主の言葉がある。あなたの罪だけど、私が償うと語られたのだ。もはやあなたを責めることはない、とまで語り掛けて下さっていた。
 だから「山が移り・・・」という御言葉は「どんなことがあっても」と告げる最上級表現。「私にはあなたを慈しむ心しかない」とまで宣言して下さっているのだ。私を包むのは、ただ神の慈しみのみだ!


●22(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●23(月・秋分の日)
地は主の慈しみに満ちている。    (詩33・5)

 詩人は畳みかけるように「主を賛美せよ、ほめ歌をうたえ、喜べ」と促す。その根拠が、この御言葉なのだ。世界は主の慈しみに満ちているからだ、と。
 私は慈しみに満ちている世を生きていたんだ。本当は、目の前には、苦しみと悩みへと漕ぎ出すような日々があるのじゃない。主の慈しみの御目があまねく注がれている世界を歩んでいるんだ。そうさ! 足元の暗がりばかリ見ないで、天を見上げるんだ。さあ、心を高く上げて、主が慈しまれた一日へと踏み出そう。


●24(火)
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」   (サム上3・10)

 夜、少年サムエルに主が呼びかけられた。親しく名前を呼んで対話を始めようと、二度、三度、そして四度までも。そこにサムエルの召命が起こったのだ。
 懸命に関りを求めて、諦めないで呼び続けて下さるのは、主の側なんだ。二人の間に、恵みを届ける関係を生みたいと願ってくださるから。神様のことを知った私も、呼び掛けられ、求められた一人なんだ。神に大切にされた一人なのですね。


●25(水)
主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。   (代下20・20)

 南ユダのヨシャファト王の時代、周辺諸国から攻め込まれた。そのとき王は、一心に主を求めて歩み、民にもそれを命じた。それが今日の御言葉である。それは勝利へと続く道の在りかでもあった。
 人は自分で勝利方程式を立てて、それを神に実現してと祈ったりする。でも「あれ、それって違うんだ」と気付いた。「これは神の戦い。だから私は僕としてどう戦えば良いですか」と御心を問う事こそすべき事。それが主に信頼する姿なんだ。


●26(木)
泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。     (詩30・6)

 詩人は、敵の手に落ちることから救われ、魂が陰府から引き上げられたことを感謝してこの詩を歌った。彼は、苦しくて泣き崩れる夜を知っている詩人。しかし同時に、必ず神が嘆きの底から引き上げて辛い日々を過ぎ去らせて下さることも知っている詩人だ。
 きっとその信仰体験があるなら、次の試練に襲われた時、涙の夜の只中にあってさえ、この詩を歌える。明けない夜はないことを、信仰の目で見られるから。


●27(金)
神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。    (詩139・23)

 詩人は神に「心の中を隅々まで知り尽くして欲しい」と願う。悩みも迷いも不信仰も吟味されてしまうのに。
 ちょっと恐いなと思った。妬みや不平や批判も、全部お見通しにされるから。隠したい不信仰さえ見つけられるのだから。でも、それだから知ってもらわないといけないのかも。そこで歩む道を修正できるから。病原が見つかったら、やっと治療に入れるように。私も精密検査してほしい。


●28(土)
神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。   (ヨブ30・20)

 神様に「無垢で正しい人」と評価されたヨブなのに、突然苦難に襲われた。全財産と健康も失って、神に叫ぶヨブ。
 自分の苦しみを神は知っておられるのに、回復してくれないと苛立つヨブ。こんなに祈っているのにと、情けなくなる。さらに、それなのになお御前を離れない。彼は全てを失っても、神様だけは失わないでいられるんだ。僕もその選択をしたい。


●29(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子協力牧師
(相模原教会協力牧師)



●30(月)
主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。(詩16・8)

 この詩編をダビデの詩だと読むなら、言葉の一つひとつが躍動して来る。どんなに主を愛しているのか、どれほど喜んでいるか、信頼しているかが伝わって来る。
 その根拠は、主は共にいてくださるという実感なんだ。
 ふと、イエス様の降誕を思った。「その名は、インマヌエルと呼ばれる(神は我々と共におられる)」と。私も「主は右にいます」ことを知っている。インマヌエルの主に結ばれる洗礼を受けたのだから。さあ顔を上げて「わたしも揺らぐことなし」と言わん。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:25| 『日々の聖句』

2019年09月22日

2019年9月22日の礼拝

礼拝説教「新しい歌を」、詩編96編1〜13節、辻川篤牧師。讃美歌22、85、2編167。交読詩編142編2〜8節。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ

2019年09月15日

説教 『生きるために死ぬ』

2019年9月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙2章15〜21節
わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

 宗教改革者ルターはガラテヤ書を「私の妻」と呼び、この手紙から力を得て、改革の働きを進めたと言われています。宗教改革の三原則の一つである「信仰義認」となったのが今朝の箇所でありました。「義(正しい)」とは「曲がっておらず真っ直ぐ、基準に沿っている」という意味です。「基準」は神で、ユダヤ人に神から与えられた律法を行うことが基準である神に受け入れられることと彼らは信じていました。パウロもその一人でした。しかし、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ロマ7章19節)自分の罪深さを知らされ、罪の克服に対する無力さを認め、神が遣わされた神の子イエスに「信仰」(神への信頼、自身を神に委ねること、神に従順を尽くすこと)をもって近づいた時、彼は「義とされ」ました。罪と罰から救われ、神との正しい関係に入れられ、神と共に生きられるようにされたのです。「生きる」のは、「神に対して生きる」(19節)、つまり神に向かって、また神のために生きる者とされたのです。この新しい生き方をする前に、古い生き方に死ななければなりませんでした。それをパウロは「キリストと共に十字架につけられている」(19節)と表現しました。この表現は洗礼により罪の赦しとキリストとの交わりを意味する(ロマ6章)と同時に、キリストと苦難を共にする(コロサイ1章24節)を含みます。異邦人信者の中には、キリストにおける律法からの自由を主張しても、キリストと共に十字架を担うことを拒否する者がいました。しかし、キリストと共に生きるとは、主が通られたすべての喜びも苦しみも共有することなのです。主は私たちのパートナー“partner”(苦楽を共にする人)なのです。「キリストに対する信仰により義とされる」にはこういう生き方も含まれているのです。十字架は確かに悲惨です。しかし、その中に栄光が隠されているのです。こういう生き方には大きな喜びが伴ってもいるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:36| 主日説教要約