2019年08月04日

説教 『自分自身を使い果たしもしよう』

2019年8月4日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 12章11〜18節
わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。


 パウロは懸命に尽くして、コリントに教会が生まれた。それなのに、激しい批判が起こり出したのです。教会に偽教師たちが入り込んで来て、偽の悪口を言い広め始めたからです。その言葉に、コリントの信徒たちが簡単に揺さぶられ、あっさりと彼に背を向けたのです。

 しかしなぜそうまでされて、パウロは労苦を背負えたのでしょう。それが分かるのは、15節、「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう」と言い切っていた、この言葉ではないですか。この「使い果たす」とは受け身の動詞ですから、「あなたが救いを得るためなら、私はあなたに使い果たされて、無くなってしまっても構わない」と言っていたということです。パウロのコリントの人々への思いは、「狂うほどに、あなたに自分の全てを献げ尽くしたい」でした。それは、私どもの身代わりに死んで下さったイエス様そのものの姿であります。イエス様は、嘲られて名誉も使い果たし、鞭打たれて力も使い果たし、十字架刑にされて命も捨てられた。血潮の一滴までも、あなたのため、罪人を救うためにと使い果たされたのです。そして、パウロたちキリスト者は、この十字架で死なれたキリストを知っていたゆえに、キリストと同じになりたいと生き始めたのではないですか。18節の「わたしたちは…同じ模範に倣って歩んだ」とある「模範」とは「足跡」という意味です。つまり主の足跡に、自分の足を重ねるように歩いたのです。大きく愛された人は、大胆に愛する人になれるからです。

 主はご自身を、私どものために使い果たされました。そして今度は私どもが、主の足跡の上に一歩踏み出す人となるのです。まず一歩を歩み出すことに、挑戦するのです。私どもが「自分自身を使い果たしもしよう」と、舵を切る番です。そこには必ず、福音が実る世界が広がるのですから。
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2019年8月4日の礼拝

礼拝説教「自分自身を使い果たしもしよう」、コリントの信徒への手紙二 12章11〜18節、辻川篤牧師。讃美歌16、291、332。交読詩編97編7〜12節。第1主日ですので、礼拝の中で聖餐式が執行されます。
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