2019年08月31日

『日々の聖句』2019年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年8月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(木)
(サタンは言った)「彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」  (ヨブ1・11)

 神に祝福されて裕福だったヨブ。神からも「無垢で正しい人」と太鼓判を押されていた。そこにサタンが挑戦したのだ「彼はご利益で神を慕っているに過ぎない。全てを奪われたら、きびすを返すさ」と。
 「主よ、この挑戦を私には与えないで下さい。自分の信仰の弱さを知っています。あっと言う間に吹き飛ぶ塵のような信仰だと知っていますから。だからあなたにすがりついて生きているだけなのですから」。


●2(金)
(神は言われた)「取って食べるなと命じた木から食べたのか。」   (創3・11)

 禁止された実を食べて神に背いたアダムとエバ。恐ろしくて隠れていた所に、神が来て問われた言葉がこれだ。「駄目だと言ったのに、たった一つの禁止だったのに。それでも背いたのか。食べたのか」と。
 責める言葉というより、悲痛な神の嘆きに聞こえて来る。「どうして私をそこまでないがしろにしたのか。難しくない約束だったのに、その一つさえ守ってくれなかったのか、それがお前なのか」と。堕罪は人間の嘆きである前に、神の嘆きなんだ。


●3(土)
主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。    (ルツ2・12)

 夫と死別したルツが、姑のナオミの故郷に戻って来た。異邦人のルツにとっては、よそ者でしかない土地。それなのにナオミの一族であったボアズは、彼女を温かく迎えたのだ、「ルツよ、あなたは神が翼を広げる親鳥の翼の中に覆われたのだよ、もう安心して良い、祝福があるから」と。
 主の御もとに駆け込むことが、無条件で祝福を戴ける唯一の道。私も導かれて、御翼のもとに入れていただいた異邦人だと思ったら、ホッとして、嬉しくなった。


4(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●5(月)
忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。  (箴16・32)

 書き留められた古よりの格言集としての箴言。 しかしソロモンが書き留めたものとして聞く時、単なる知恵に終わらない。これは、自らの生活を整える決意へと促してくれる。
 忍耐せずに、自分の意見と力で押し切ろうとして、人とぶつかって来た。自分を制することが出来ずに、人を変えようとして争った。そこで隣人を打ち負かそうとして、不和を生んでいた。今、修正せねば。この御言葉を聞いている、今。


●6(火)
主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。   (哀3・31)

 亡国を嘆きつつ、その中で主の憐れみに希望を置く預言者。それは主を、「懲らしめても、いつまでも捨て置かれないお方」として知っているから。
 もしも御父の懲らしめを、反抗したりせずに、頭を垂れて受けられるのだとしたら。それは、御父こそ「あなたを見捨てない。あなたのためなら何でもする」とお心を砕かれる方と知っているから。恵みを受けることも、懲らしめを受けることも、主を見上げることにおいて同じなのだ。


●7(水)
しかし、ノアは主の好意を得た。   (創6・8)

 天地創造の後、地上に人が増え始めたのだが、誰も彼もが悪い事ばかり考える。神はそれをご覧になって、人を創られたことを悔いられるのだ。しかし、そこにたった一人、主の慰めの人がいた。それが無垢な人・ノアだった。
 良いものとして人を創ったのに、その人間が神の心を痛める原因になるなんて。
主よ、私も神を悲しませない一人なりたい。どうすれば良いのですか。あ、きっといつも御心を尋ねて過ごすことかも。そこから外れる時、堕罪の口が開くから。


●8(木)
イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まって一人の人のようになった。  (エズ3・1)

 バビロン捕囚から、ようやく都に帰還できた人々。その時に先ずしたことが、神殿に大集合して礼拝することだった。それも、「一人の人のようになった」と。
 礼拝に集った兄弟姉妹がお互いを想い合ったら一つになれる、というのではない。そこで一人の神の言葉を聴くこと、一人のお方に祈り、一人のお方を賛美すること。そのとき一つになれているのだ。全ての人が「ただ主のみ」の心になっているから。

●9(金)
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 (詩95・7)

 この詩人は、民と一緒に主へと顔を向けて「わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊」と告白して歌う。そこに続く言葉が、これなのだ。
 私も日毎に主に「私の主よ、わが神よ」と祈っている。でもそこに続けるべき御言葉を、心の中でさえ言い忘れていたのかも知れない。祈らねば「私は御言葉に従わないことがたくさんあります。そうやってあなたの御声に背を向けて来ました。でも今日こそ、御言葉に従います」と。信じる心は、信じる歩みと一体なのだから。


●10(土)
神に従う人はその道を守り、手の清い人は更に勇気をもて。  (ヨブ17・9)

 神に「正しい人」と言われたヨブが苦難に遭った。友人は「自業自得じゃないのか」と責めたてる。その言葉に、自分でももがきつつこの言葉を告げたのだ。「人から揺らされても、自分でも揺れても、なお神に従う道を行くしかない」と。
 苦難の日に、「何か悪い事をしたから報いを受けているのだろうか」と、心配に征服されそうになる。その時自らに言わねば「お前は、主に従う道を黙々と行くだけだ」と。「次の一歩に、勇気を持て」と。


●11(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●12(月・山の日)
わたしにふさわしいときに、御手をもって、追い迫る者、敵の手から助け出してください。   (詩31・16)

 この詩人は敵に囲まれ「急いでわたしを救い出してください」(3)とすがる。でもそのあと「わたしにふさわしいときに」と言い換えたのだ。圧倒的に神を信頼しているからこそ、何もかも委ねられるのだ。
 私はいつも「いま助けて」と叫んでる。でもそんな神頼みと、神信頼とは違うものなのかも。私も今日から「私にふさわしいときに。全てを神に委ねますから」と祈ろう。神信頼に一歩でも近づくために。


●13(火)
心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。」  (イザ35・4)
   

 大国アッシリアに責められた時、民は恐れてエジプトに助けを求める。大国の陰に入れば助かると思ったから。そこに告げられたのだ「よろめくな。神を見よ。神こそがあなたたちを救うお方なのだから」と。
 困難に襲われたら、慌てて打開策を立てて、それから祈っている私。なぜ第一に神に顔を向けないのだろう。今朝の御言葉は、そういう私の不信仰に突き刺さる。叱るように、同時に励ますように。


●14(水)
(主は仰せになった)「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。」   (ヨブ40・2)

 苦難の中で不平をもらすヨブ。「神よ、あなたに向かって叫んでいるのに、あなたは冷酷だ」(三〇・二〇以下)と。思いを全部吐き出したヨブに、ついに神が口を開かれた「お前は一体何者なのか」と。その激しい言葉に、今日の言葉も続くのだ。
 私も同じ不平を言う日がある。その時私に向けても同じ御言葉が告げられているのだ。ガツンと言われて、やっと我に返れた。やっと本来の立ち位置に戻れた。


●15(木)
神は驚くべき御声をとどろかせ、わたしたちの知りえない、大きな業を成し遂げられる。  (ヨブ37・5)

 大変な試練を受けて、神への不満さえ漏らし始めたヨブに、友人エリフが答える「あなたは自分が正しいと言うが、神の御業を人間が知り得ようか」と。そして今日の言葉も告げられたのだ。
 友人の言葉は全くの正論だった。でもヨブを立ち帰らせ慰めたのは、直後(三八章)から始まる神の語り掛けだ。人間の正論より、神の御声そのものが人を活かす。私にとっても然り、御言葉のみ!


●16(金)
イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。  (士7・2)

 ミディアン人との戦いを前に、大軍を集めた士師ギデオン。そこに主の言葉が臨んだ。それは、人々がおごらないために、兵を減らせという命令だった。
 神は人間の手を弱くされる。それは「神様、どうぞあなたが成し遂げて下さい。唯あなたにすがります」と心を整えて頂くため。苦難を前にまず整えられるのはその信仰。「ただ主のお陰」と心を向けるため。主よ、私の心も手もお預けします。


●17(土)
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ」 (創1・28)

 天地創造の時、男と女を創造された神様が、人に向けて言われた言葉だ。この一言に、アダムとエバを見て大喜びされる神の笑顔が見えるようだ。御父の胸のときめきまで聞こえて来そうだ。人の親が、生まれてきた赤ちゃんを見て満面の笑みで「大切な我が子、大きくなるんだよ」と抱きしめているように。
人は最初から、神様の宝だったんだ。私の存在の意味は、ここに既にある。祝福された存在という事。だからこそ、その御父の喜びに応答するように生きたい。


●18(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●19(月)
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」  (創3・9)

 エデンの園で、神様が禁じた木の実を食べたアダムとエバ。背きの結果、神の顔さえ見ることが出来ずに隠れていたとき。神が彼らを呼ばれたのだ。
 背きは、神様との関係を引き裂いてしまう。でも、自分の罪のゆえに顔を上げられないで隠れるしかない人間を、なお神様は探して下さるのだ。求めて下さる、「あなたの傍にいたいのだよ」と。
 神様は私にも、「お前はどこにいるのか」と朝毎に呼び掛けて下さる。その御声に応えるように、日毎に御前に出よう。


●20(火)
主は命じて言われた。「強く、また雄々しくあれ。・・・わたしはいつもあなたと共にいる。」  (申31・23) 

 モーセが地上の命を終えようとする前に後継者ヨシュアを立てた。そのヨシュアに主が命じて言われたのだ「雄々しくあれ」と。更にそのようにあれる根拠は「わたしが共にいる」からということだった。
 私も今日という日に踏み出さねば。たとえ心萎える事が待っていても、雄々しく、だ。それが神の「命令」だから。それも「わたしが共に歩むから」との保証付きなのだから。よろめく膝に力を入れよ!


●21(水)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた。      (創39・23)

 兄弟の策略でエジプトに売られて来たヨセフ。そこで王の宮廷役人に仕えて財産管理まで任される。しかし一転、主人の妻の策略で投獄される。でもそこで監守長の好意を得て、獄中でも平穏だった。
 どんな苦難が襲っても切り抜けて幸いへと転じる。その理由を、今朝ひと言で告げていたのだ「主が共におられ」と。
 今日一人ひとりに同じ主が共におられる。必ず「うまく計らわれる」主が。委ねるか、委ねないかで今日の一日が変わる。


●22(木)
あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れることもない。  (申4・31)

 モーセが民に向かって再度律法を語り直す「申命記」。遺言ともいうべき言葉の中で、偶像礼拝を警告して「あなたの神、主は・・・」と語っているのだ。
 偶像を拝むべからず、とは単なる禁止命令じゃない。「あなたと共におられる神は、あなたを深く愛しているのだから」という促しなのだ。「あなたを想うお方を忘れないで」、という切なる迫りさえ感じた。


●23(金)
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。 (詩51・19)

 この詩には表題として「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と記されていた。
 ダビデは、償いの献げ物をしますと言う。しかしその直後に、律法に適った償いの仕方をやり遂げるより、神は何よりも「悔いる心」を求められる、と告げられる。神関係の核心がここにある。
「悔いる心」が神の御心を動かす、「もう良いよ、赦すから、我が子よ」と。


●24(土)

神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣と全ての家畜を御心に留めた。  (創8・1)

 箱舟の外は大洪水。もはやそこに生きる物はいない。まるで死の世界の中にポツンと箱舟だけが漂っている。もしも神が御心に留めて下さらなかったなら、箱舟は浮いてもいられなかっただろう・・・。
 「私」という「舟」も、「今日」という「大海原」に浮かんで進もうとしている。船子一枚下は、恐れもあるし不安もある。でもそんな私も、神様が御心に留めていただいたなら、ホッとして歩み出せる。いや、嵐になろうとも盤石の出帆なんだ。


●25(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●26(月)
主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから・・・  (士6・16)

 ミディアン人に略奪の限りを尽くされていたイスラエルの民。そのとき主の使いがギデオンに語った「行くがよい。人々を救い出すから」と。その成就の鍵である「あなたと共にいるから」という約束と共に。
 困難に囲まれて心身ともに疲弊する日もある。しかしそこに主が語りかけるのだ「行くべき所を示すから立て。私があなたと共にいるのだから」と。自分の目だけで状況を計るまい。主の目が将来を見ておられるのだから。などか行かざるべき。


●27(火)
あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。 (申4・24)

 偶像を拝むことへの警告としてモーセが民に語る言葉の一部分だ。
なんとも激しい言葉。たじろいでしまいそうにさえなる。しかし、モーセは律法を言い渡す時、躊躇せずにコレを言うのだ。それは、「あなたを、心焦がれるほど愛している神がおられる。だからよそ見しないでくれよ」と伝えたいから。
「私はこんなに愛されている」と分かったら、初めて「少しでも応えたい、火傷するほど熱い愛に」と歩み出せるのですね。


●28(水)
恵みのとき、定められたときが来ました。    (詩102・14)

 この節の前をみると、詩人は貧しくされ、心挫けて祈っていることが分かる。その祈りの中ですがるようにこの言葉を言ったのだ。つまり「今が恵みの時じゃないですか! もうその時が来ているんです、どうか憐れんで立ち上がって下さい!」と。
 何て大胆な求め方なのか、と思った。人の側から「あなたが立ち上がる時は今ですよ」と断言するのだから。あ、それほど信じ切っているのかも。「救って下さい」じゃなく「救って下さらないはずはない」と。堅い信仰は大胆な信頼を生むんだ。


●29(木)
主がイサクに現れて言われた。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。」     (創26・2)

 大飢饉にみまわれたイサクたち。そういう時、隣人たちは誰もが豊かなエジプトに庇護を求めて来た。しかし主は、「あなたが頼る場所は、私が用意するから」と告げられたのだ。イサクは、大勢が行く道とは違う道を進むことになる。
 飢餓という絶体絶命の時でさえ、彼は御言葉へと舵を切った。私は、聖書から聞く御言葉と、大勢が行く常識と、どちらを取るだろう。特に困難の日に・・・。

●30(金)
わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。 (エレ24・7)

 ユダ王国がバビロンに滅ぼされた後、捕囚の地にいる人々に示された主の言葉。
 亡国は、人々が神をないがしろにしたから。「この世に生きるには、世にも倣わねば。単なる付き合いだからから構わない」と生きたから。でも、そんな〈中途半端信者〉に、なお神が「私はあなたの主だ、それがどういう意味が知ってくれ。まっすぐに私だけを信じる信仰に生きてくれ。その心をあげるから」と迫った。信仰を失わないのも、主の憐れみのお陰なのだ。


●31(土)
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。(イザ2・4)

 イザヤが、王国滅亡の後の回復を預言する。それは、もはや剣を持たない日が来るという平和の告知。その日には、人々が大河のように神の御前になだれ込んで、全ての人が主の光の中に歩む日々だ、と加えて告げられていた。
なぜ人は争い、なぜ人は武器を持つのか。自分が神となるからなんだ。その争いで、私も苦しみに捕らえられるのに。
「私のバビロン捕囚」から解放されるのも、ただ主の下に立つことのみ。だからさあ明日、礼拝に帰ろう。


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2019年08月25日

2019年8月25日の礼拝

礼拝説教「完全な道」、詩編101編1〜8節、辻川篤牧師。讃美歌18、312、527。交読詩編121・1〜8。 
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2019年08月19日

『日々の聖句』2019年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年9月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●2(月)
口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。(箴10・19)

 ソロモンの格言集としてまとめられた中の一節。
 日本でも「口は禍の元」とか「沈黙は金」とかいう。誰もが分かっているのに、どうして要らない一言を口から出すのだろう。一言メールしたり手紙を送ったりしてしまうんだろ。そこで人を傷つけているのに。きっと、その言葉を作りだす元のところ、つまり私の中、つまり私の心の中に悪が住み着いているから。あ、だから、これは罪の問題なんだ。処世術の話じゃない。


●3(火)
まことに憐れみ深いあなたは、彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。  (ネヘ9・19)

 バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還できた民。そこで自らの背きの罪を告白し、同時に主の憐れみをたたえた。
 神の慈愛にいつ気付けるのか、ちょっと分かったかも。それは恵みに満ちた日々じゃない。逆に、過ちと罪に落ち込み、それが神への背きの姿だったと気付かされて悔いる心に、なお自分が見捨てられていないことに気付けた時。正にそこで神の愛が分かる。罪人なのに、なお赦され愛されていることこそ、主の憐れみだから。


●4(水)
「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」 (創24・27)      

 アブラハムの僕が、主人の息子イサクの嫁探しの旅に出た。それは干し草の中から針を捜すようなもの。でも条件に合う人に出会えた時、祈った言葉がこれだ。
 到底無理と思える問題も、御心ならば成し遂げられる。ならば、「困難を乗り越えられた」と思う時は「ここに御心があった」という信仰と「ああ感謝」という祈りが起こる時なんだ。達成感に浸っている場合じゃない。「自分にご褒美」なんて見当違い。今頃気付いて恥ずかしや。


●5(木)
主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。  (詩3・4)

 この「それでも」ってどういうことか。ダビデが息子に命を狙われ、さらに周りの者から「お前に神の救いなどあるものか」と言われても、「それでも」ということだ。
 主への信頼は、絶体絶命の時にこそ問われるんだ。絶望の淵に立った時に、信仰の在る無しが露呈するのだ。ああ御霊よ、私にも、この詩人ダビデのような一言を唇にのぼらせて下さい。「主よ、あなただけ」というすがる信仰を与え給え。


●6(金)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。     (ゼカ4・6)

 バビロン捕囚の苦しみの後、都への帰還が主の使いによって告知される。それは、人々の力によるのでもなく、政治的な勝利でもない。主は、「わが霊によって」と告げられたのだ。
 全ての苦労が報われたように思う日が、私にも来るかも。努力が実ったように思え、風が私に吹いて来たなんて思う日も来るかも。しかしその時にこそ祈ろう「ただ主のお陰。主の霊がこんな私にも働いてくださったんだ。畏れと感謝のみ」と。


●7(土)
人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。  (申8・5)   

 出エジプト後の荒野の旅を振り返って、モーセが御旨を伝える。あの日々は、あなた方を主の民に育てる訓練の時、神が御自分の子として育てた日々だったのだと。
 神への全き信頼者となること、真の信仰者となることを願うのは、私自身よりも、御父なんだ。「試練が厳しい」と思う日に、一番そばにいてくれるのも天の御父なのですね。「さあもう一度私の言葉に従って御覧」との励ましが聞こえます。


●8(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●9(月)
主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。(ヨナ1・14)

 御心に背いて船で逃げ出し、大嵐に遭ったヨナ。そこで観念したヨナが「私を海に放り込め」と言うが、船員達は何とか自力で陸に戻ろうとする。行き詰る攻防の末、ヨナを海に投げ入れる直前で、神に向かって叫んだ船員たちの言葉だ。
 目を離せないノンフィクションドラマを見ているようだ。しかしその現実の遣り取りの中に、神が居られる。そうだ、私の現実も同じなんだ。今日という一日の中心に神が居られる。「御心のままに」と祈って始めよう。私の嵐を乗り切るために。


●10(火)
モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」  (民12・13)

 モーセを非難し、「自分だって神の言葉を直接取り次げる」と豪語したミリアム。途端に重い皮膚病になった。神に打たれたからだ。その彼女のために、非難されたモーセが、執り成して叫んだのだ。
 一二章ではモーセを「謙遜な人であった」とも記していた。モーセの叫びを聞いて、謙遜の意味が初めて分かった気がする。それは末席に座ったり、控え目な態度等じゃなく、自分を非難する人さえ愛せること。弱い人でなく強い人なんだ。


●11(水)
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」   (創1・26)

 天地創造の時、神が人間をどのようなご計画で創られたかが記されている。
 人は神と阿吽の関係に創られた。それは御心を完全に知ることが出来る存在ということ。加えて、世界の調和を保持する神の働きを、人間の使命として委ねても下さった。私は神の大切な存在、神に信頼された存在なんだ。相応しく歩みたい。そうさ、御心と阿吽の呼吸で。


●12(木)
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。  (エゼ11・19)

 預言者エゼキエルが、捕囚の民の中で語る。捕囚後の希望についてだ。それは、神に背いた頑なな石の心から、神が、悔い改めと柔らかな肉の心を与えてくださること。柔らかな心で、まっすぐに神を喜んで歩めるようになるよという知らせだ。
 悔い改めも主に従う心も、自己責任だと思っていた。でも、神様から戴けることに身を任せれば良いんだ。なんて至れり尽くせりなんだろう。ふと、がんじがらめの信仰理解から解放された気がした。


●13(金)
主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。       (詩103・10)

 この直後に「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」と続く。これは赦しと恵みの宣言だ。
 この御言葉を、私たちも礼拝のたびに聞いて来た。「ざんけの祈り」のあとの「赦しの言葉」として聞いて来た。来る週ごとに、繰り返し悔い改めを吐き出し、赦しと恵みを吸い込む。まるで呼吸のように。ああこれが、信仰者の人生なんだ。


●14(土)
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。  (王上19・12)

 エリアが命を狙われて荒野に逃げる。行倒れた場所で、激しい風が起こって山が砕け、地震が起こり、火が噴き出した。でもその驚天動地の中に、どこにも主なる神はおられない。その全ての後に、ささやく声が聞こえて来た。主の御声だった。
 苦難に喘いで、「早く助けて、何とかして、もう駄目です」と騒々しい祈りの中に、主の御声は届いて来ないんだ。主張する口を閉じて、ただ聴く者となって御言葉に聞くなら、生ける神の言葉として届いて来る。私も一瞬で良いから静まろう。

●15(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎協力牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●16(月・敬老の日)
知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。      (詩19・13)

 重い背きの罪から清められ、主に喜ばれたいと願う詩人。その祈りは、自分の罪を探して思い起こし、気付き、悔い改めるだけにとどまらなかった。自分が知らずに犯した過ちと罪があると、わきまえていたから。ここに達する人が、真に驕りから離れた信仰者と言えるんだろう。
 私の祈りに欠けがあったと気付かされる。今朝この詩人の祈りを、私も加えて祈ろう。今夜も明日も、口癖の祈りのように祈ろう。それが私にも必要だから。


●17(火)
主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。   (出4・14) 

 神がモーセに使命を与えて「民をエジプトから導き出して欲しい」と言われる。でも言い訳だらけで断るモーセ。何度も否んで「誰か他の人にさせてください」と言った時、ついに神の怒りが爆発したのだ。
 神が一個人に怒りをぶつけるなんて、めったに見ないお姿。その怒りは、神が求める奉仕を、言い訳だらけで断った故にだった。僕も神をイラつかせている時があるかも、いやある。あの奉仕を脇に置いた時。あれは神様からの懇願だったのに。


●18(水)
復讐してはならない。   (レビ19・18)

 主がモーセに「これを民に告げよ」と掟を言い渡された。レビ記はすべて、その言葉で満ちている。その中の一つが今朝の御言葉だ。この直後に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と続いていた。
 気付くと、相手を打ち負かそうとして頭はカッカと燃え、言葉の武器を取って、心は怒りで満たされる。唇が震えている。それが復讐する者の姿なんだ。しかしそれは、愛することをしない者の姿なんだ。私は、なんて愛の無い者。私は罪を抱えて歩いていた。主よ、憐れみ給え。


●19(木)
バラムは主の御使いに言った「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」   (民22・34)

 イスラエルの民が出エジプトの後、荒野を旅する途上で、モアブの平野の異邦人バラムに神が語りかけた。このとき彼はひれ伏して言った言葉がこれだ。
 異邦人でさえ、主から「行け」と言われれば行き「止まれ」と言われれば引き返す。それなのにキリスト者であるボクの歩みは、どうにも自分勝手過ぎないか。今日こそ「御意は何ですか」と問うて、聞いた御言葉のままを実際に歩んでみるぞ。


●20(金)
「できなかったのだ」などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。     (箴24・12)

 力を出し惜しみして、人を助けようとしなかった人に、「お前の心を見抜いているぞ」と主が言われる。「そのお前の行いに応じて報いも来るぞ」と加えて言われる。
 ヒヤッとした。「できなかった」と、隣人の苦難の横を通り過ぎている自分に気付いたから。「祈っている」と言いながら、訪ねもせず、慰めの葉書一つも出さなかった。「できなかった」とは、結局自分に向けての言い訳。それは罪。それを神は調べられるのだ。そんな自分から今日変わりたい。


●21(土)
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らない。   (イザ54・10)

 この直前には、私はあなたの罪と過ちを背負った苦難のしもべだ、と告げる主の言葉がある。あなたの罪だけど、私が償うと語られたのだ。もはやあなたを責めることはない、とまで語り掛けて下さっていた。
 だから「山が移り・・・」という御言葉は「どんなことがあっても」と告げる最上級表現。「私にはあなたを慈しむ心しかない」とまで宣言して下さっているのだ。私を包むのは、ただ神の慈しみのみだ!


●22(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●23(月・秋分の日)
地は主の慈しみに満ちている。    (詩33・5)

 詩人は畳みかけるように「主を賛美せよ、ほめ歌をうたえ、喜べ」と促す。その根拠が、この御言葉なのだ。世界は主の慈しみに満ちているからだ、と。
 私は慈しみに満ちている世を生きていたんだ。本当は、目の前には、苦しみと悩みへと漕ぎ出すような日々があるのじゃない。主の慈しみの御目があまねく注がれている世界を歩んでいるんだ。そうさ! 足元の暗がりばかリ見ないで、天を見上げるんだ。さあ、心を高く上げて、主が慈しまれた一日へと踏み出そう。


●24(火)
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」   (サム上3・10)

 夜、少年サムエルに主が呼びかけられた。親しく名前を呼んで対話を始めようと、二度、三度、そして四度までも。そこにサムエルの召命が起こったのだ。
 懸命に関りを求めて、諦めないで呼び続けて下さるのは、主の側なんだ。二人の間に、恵みを届ける関係を生みたいと願ってくださるから。神様のことを知った私も、呼び掛けられ、求められた一人なんだ。神に大切にされた一人なのですね。


●25(水)
主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。   (代下20・20)

 南ユダのヨシャファト王の時代、周辺諸国から攻め込まれた。そのとき王は、一心に主を求めて歩み、民にもそれを命じた。それが今日の御言葉である。それは勝利へと続く道の在りかでもあった。
 人は自分で勝利方程式を立てて、それを神に実現してと祈ったりする。でも「あれ、それって違うんだ」と気付いた。「これは神の戦い。だから私は僕としてどう戦えば良いですか」と御心を問う事こそすべき事。それが主に信頼する姿なんだ。


●26(木)
泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。     (詩30・6)

 詩人は、敵の手に落ちることから救われ、魂が陰府から引き上げられたことを感謝してこの詩を歌った。彼は、苦しくて泣き崩れる夜を知っている詩人。しかし同時に、必ず神が嘆きの底から引き上げて辛い日々を過ぎ去らせて下さることも知っている詩人だ。
 きっとその信仰体験があるなら、次の試練に襲われた時、涙の夜の只中にあってさえ、この詩を歌える。明けない夜はないことを、信仰の目で見られるから。


●27(金)
神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。    (詩139・23)

 詩人は神に「心の中を隅々まで知り尽くして欲しい」と願う。悩みも迷いも不信仰も吟味されてしまうのに。
 ちょっと恐いなと思った。妬みや不平や批判も、全部お見通しにされるから。隠したい不信仰さえ見つけられるのだから。でも、それだから知ってもらわないといけないのかも。そこで歩む道を修正できるから。病原が見つかったら、やっと治療に入れるように。私も精密検査してほしい。


●28(土)
神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。   (ヨブ30・20)

 神様に「無垢で正しい人」と評価されたヨブなのに、突然苦難に襲われた。全財産と健康も失って、神に叫ぶヨブ。
 自分の苦しみを神は知っておられるのに、回復してくれないと苛立つヨブ。こんなに祈っているのにと、情けなくなる。さらに、それなのになお御前を離れない。彼は全てを失っても、神様だけは失わないでいられるんだ。僕もその選択をしたい。


●29(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子協力牧師
(相模原教会協力牧師)



●30(月)
主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。(詩16・8)

 この詩編をダビデの詩だと読むなら、言葉の一つひとつが躍動して来る。どんなに主を愛しているのか、どれほど喜んでいるか、信頼しているかが伝わって来る。
 その根拠は、主は共にいてくださるという実感なんだ。
 ふと、イエス様の降誕を思った。「その名は、インマヌエルと呼ばれる(神は我々と共におられる)」と。私も「主は右にいます」ことを知っている。インマヌエルの主に結ばれる洗礼を受けたのだから。さあ顔を上げて「わたしも揺らぐことなし」と言わん。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:25| 『日々の聖句』