2019年06月02日

説教 『弱いときにこそ強い』

2019年6月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 12章1〜10節
わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。


 主は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と告げます。それを受け取ったパウロも、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と応答しました。この「弱さを誇る」とは、単純に「自分が何も出来ない時に、神様の御力がよく分かるから、弱さも大事だよね」というような事ではありません。また「自分が謙遜になるために、弱さが与えられる」というような教育目的な話しでも無い。だって苦難も病も、そして罪の重荷も、あらゆる弱さは、否応なしに襲って来るものではないのですか。ならば、弱さの中にある恵みって何なのでしょうか。

 イスラエルの民がエジプトで奴隷となって呻きの声をあげた時、神様は「わたしの民の苦しみをつぶさに見、その痛みを知った。それゆえわたしは、降っていく」(出3章)と言われました。神様は、人の叫びを見聞きしたら、居ても立ってもいられず、人々の中に「降っていく」と言われたのです。新約の時代も、私どもの現実に神様は腰をかがめて近寄って下さった。それが、神の独り子の十字架の出来事だったのではないですか。十字架、何という惨めさ極み。何という低い場所、神の御子はそこに降って下さったのです。

 人間の目は、いつも上昇することに価値があると見ています。でも神様の目は真逆です、下へ向けられているんです。下へ、下へと向かう、そこに立っている私どもに届こうとして下さるゆえにです。だから、「主の恵み」とは、「神が弱くなって下さった」ということです。「主の力」とは、神が天の座を蹴って駆け降る、神の下へ向かう力のことです。だから信仰においても健康においても、弱り切って呻く所でこそ、私どもは十字架のイエス様に出会うのです。そこで聴くのは決して責める言葉ではない、「それでも神はあなたを愛している」という祝福なのです。そのことを、主は示して「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言われたのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:10| 主日説教要約

2019年6月2日の礼拝

礼拝説教「弱いときにこそ強いから」コリントの信徒への手紙二 12章1〜10節、辻川篤牧師。讃美歌8、158、286。交読詩編105編12〜24節。
◇第一主日ですので、礼拝の中で聖餐式が執行されます。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ