2019年05月31日

『日々の聖句』2019年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年5月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(水・祝日)
わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。 (創24・48)

 アブラハムに、息子イサクの嫁を探すようにと命じられた僕が、旅に出た。誰がふさわしいか、さらに相手が承諾するのか否かも分からない、全てが見当もつかない旅。しかし僕が祈りつつ進んだ時、最もふさわしいリベカの家族に出会えたのだ。
 見当もつかない旅をしているのは、私の人生も同じかもしれない。その先で、神が用意していて下さる恵を手にするために。その恵は、旅路を導かれるのは、真に共にいて下さる神だという信仰なのかも。


●2(木・国民の休日)
助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。     (出2・23)

 エジプトの地で、奴隷の労役に苦しみの叫びをあげたイスラエルの民。その声が神に届いた時、出エジプトの奇跡の出来事が始まる。モーセの召命は、神様が民の叫びを聞かれた直後なのだ。
 壮大な救いの御業が起こる出発点は、人々が置かれた不条理を鑑みられたからじゃない。人々の叫び声に神様が心痛まれたということ、憐れんでくださったということ。それは、私の叫ぶ祈りにも、神様は立ち上がってくださるという福音。届かない叫び声は無いのだ。

●3(金・憲法記念日)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。     (エレ26・2)

 神殿に立つエレミヤが、民全体に神の言葉を伝える。その語り出しが、これだ。
 「神の言葉を削らずにすべて語れ! ひと言も減らすな」と言われなければならなかった人々。これは、私にも突き刺さる言葉だ。御言葉から自分の都合の悪い部分を省いて、勝手に骨に抜きして、挙句の果てに一言も聞かない心になっているから。そこが、幸いから迷い出す道なのに。御言葉が消えた道なのに。ああ、御言葉をそのまま聞く耳でいたい。


●4(土・みどりの日)
主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。 (ヨシュ2・11)

 ヨシュアがエリコの町に斥候を送り出す。その彼らをかくまった女ラハブ。異邦人の彼女なのに、なぜそのようにしたのか。それは、神がなさった出エジプトの出来事を知って、そこで神を畏れたからだ。御業を聞いただけで、神が生きて自分にも働かれることを信じたからだ。
 私も神の御業を知り、じかに御言葉さえ聞いている。でもこの女のように神を仰いだ生活をしているだろうか。主よ、私にも今朝、新しく信仰を与えてください。


●5(日・第1主日・こどもの日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月・振替休日)
恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。 (出14・13)

 意気揚々とエジプトを脱出した民の背後に、エジプト軍が迫って来た。人々が泣き叫ぶ中、一人モーセがこれを告げる。 前もって「必ず救いを見る」と聞いた神の約束を信じない人々。その狼狽の中で、ただ一人、神の言葉を信じて立ったのだ。
私も、狼狽する現実が真実のように見えても、〈残った一人の信じる者〉の側でいたいな。人の判断じゃなく、神の言葉にすがっている一人に、私もなりたい。


●7(火)
互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む。(ゼカ8・17)

 イスラエルは、北も南も滅び去った。残された人々に、預言者ゼカリヤが語るのだ「悪の力離れて、主に立ち帰れ」と。そして成すべき具体的なことの一つに、今日の言葉が告げられたのだ。
 まだ心の中で相手への悪口が生まれているだけの時、その私に神は「わたしは憎むぞ」を言っておられる。それを聞いて、ドキッとする。すぐに飛びのいて悪から逃れねば。そうだ、今すぐにだ!


●8(水)
アビメレクとその軍隊の長ピコルはアブラハムに言った。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」 (創21・22)

 アブラハムが寄留したゲラルの地で、王たちが言った言葉だ。アブラハムが神に守られている現実を見て、降参して激白したのだ。異邦人であるのに。
 隣人が私の生活を見ている。そこで何が見えているのかな。「神が居るとは思えない」としか見えない生活をしていたら、神様に申し訳ない。私を通して神の現臨こそ見えて欲しいのに。祈りつつ歩まねば。


●9(木)
水くみ場で水を分ける者らの声にのせて、主の救いを語り告げよ。   (士5・11)

 イスラエルに王が立てられる前、民を導く士師がいた。その一人デボラが、圧倒的な力を誇る敵を破った時に歌ったのがこれだ。人には勝算の見えない戦いだったのに、神が「行け」と命じて導かれた時、人間の計算を超えた出来事が起こる。そして、そこにこの歌が生まれた。
 私達も困難を乗り越えさせて頂いて今がある。でもそれを語り告げているだろうか。その日々を思い起こして、数えて、賛美したら、そこに希望が生まれるのに。


●10(金)
自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家 (申6・11)

 モーセは、神が与えて下さった一つひとつのものを数え上げてゆく。その中の一つがこれである。そしてその最後に言うのだ「あなたをエジプトの国、奴隷の家かな導き出された主を決して忘れるな」と。
 達成感に包まれる時、誘惑する者の声が囁く「君もなかなかやるじゃないか。一人で頑張ったね」と。自分を褒める言葉も心に沸いて来る。しかしその時こそ、気を付けて己に言わねばならない「否。全ては主のお陰、私は感謝に生きる」と。そこが、脱線の分岐点なのだから。


●11(土)
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。    (イザ53・4)

 預言者イザヤによる『苦難の僕』の一節。この姿に私たちは、十字架へと向かう御子のお姿を見る。
 私のデスクにある十字架には主イエスが架けられている。やつれ切った顔、自重で筋が切れて伸び切った両腕、見る影もない姿。「この処刑は、罪人の私が受けねばならないはずだったのに」と思ったら、己の罪の重さが分かる。身代わりになれれた方の痛みが分かる。それほどまでに愛された愛の深さが見えて来るよう思えた。

●12(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月)
人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。 (ヨブ7・17)
   

 ヨブは苦難の中で、友人から「自業自得だ」と追い詰められる。その中で彼は神に「私の罪など見張らないで、放って置いてくださればいいのに」と訴えた。
 苦難の時、なお神様から離れず、神に問い、神に嘆き、百%神と格闘している。「神様にすがる」って、こういうことなのかもしれない。願い事をする時じゃなく、苦難の時に、信仰はあらわになる。


●14(火)
あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。 (レビ25・2)

 主の命令がモーセに降る。6年の間は畑に種を蒔いて収穫して良いが、7年目は土地を休ませねばならないと。安息命令は人間だけではなく、大地にも及ぶ。
 ああ、いわんや人間をや! 休むことは、私のことを私以上に心配していて下さる神様の命令、御父の願いなんだ。「休みが必要なんだ。息継ぎなしに走り続けるな」と。だから、休む場所は、御前でなきゃ。礼拝以外の場所はないのですね。


●15(水)
主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。  (ヨシュ24・16)

 老人ヨシュアが、民に告別の言葉を語る「主を固く信頼せよ」と。それに応答して人々が答えたのが、これだ。しかしこの時、人々は既に諸々の偶像を拝んでいた。
 「不信仰。背信」って何だろう・・・と改めて思う。それは、単に主を信じない事じゃないのかも。むしろ、自分がしたい事を何でもすること、自分の常識を神としていること、この世に倣うことを優先していることかも。片手間に主も拝むことだ。私の生活にも忍び込む罪。


●16(木)
主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。    (王上11・10)

 二度も現れたというのは、神様が心配で「絶対、絶対だめだからね」と、ソロモンの傍を離れられなかったということ。そこまで手厚く思いを掛けていただいた彼なのに、それでも背信へと走るソロモン。そこに、背信への誘惑の恐ろしさを見る。
 「私なら、そこまで思われたら絶対従う」と思って、すぐ「ソロモンでさえ駄目だったのに、私なら速攻背信だ」と思った。奢らないことが、私を堕罪から守る。


●17(金)
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光りの露。 (イザ26・19)

 この「あなた」とは、主なる神のこと。人々が背信のゆえに平和を失って苦難に在る時、イザヤが回復の希望告げた。暗闇の中に「光の露」が降りるよと語った。
 でもなぜ喜びが見えない現実に、彼は光の露を見ているのだろう。民はまだ償いもしていないし、これから裁きの日が来るのに、既に赦された民のように接している・・・。あ、彼は民を「救われる者達よ」と見ているのかも。「相応しくない者が、そのままで赦されること」が「救い」だから。


●18(土)
主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」 (創18・15)

 八十九歳のサラが、主から「来年、男の子を産む」と知らされ、「そんなはずが無い」と神の言葉を嘲笑した。途端に主から「なぜ笑ったのか。主に不可能なことなどない」と叱責される。それでも「笑ってません」と嘘をついて弁明するサラに、主が言われたのがこの言葉だ。
 サラは自分の常識を神の言葉の上に置き、叱責されても弁解する。なぜ「はい」とも「御免なさい」とも言えなかったのか。
そこに自分の姿が重なる。だからこそ今日、信仰を刷新する転換点にしたい。


●19(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師



●20(月)
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。 (エレ20・9)

 主の言葉を伝えたエレミヤに、人々からの嘲笑が浴びせられた。だから二度と伝えるものかと思った彼が、その直後にこの言葉を告白したのだ。
 私も日毎に御言葉を受けている。でもそれを隣人や家族に伝えているだろうか。私の中の御言葉も、伝えられることを願って燃えているのに。口よ、語れ!


●21(火)
(あなたたちは)仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。 (ヨシュ24・15)

モーセの後継者として民を率いたヨシュア。彼は民にコンコンと神様がどんなに守って下さったかを語る。奴隷の家エジプトからの脱出と、その後の荒野の旅路の守りも。そして今、約束の地に辿り着いた時に人々に問うのだ「主に仕えるか、または土着の神に仕えるのか。どちらか一つを選べ」と。
どちらか一つなんだ。どちらも、では駄目なんだ。片足信者じゃ、必ず転ぶから。それもその怪我は重傷になるから。


●22(水)
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。      (イザ29・19)

 背信のゆえに滅んだ後、回復の希望が告げられた。それは人々が悔い改めたゆえの恵みじゃなく、主の憐れみだった。
 喜びに心躍る時がある。でもその時「聖なる方のゆえに、主のゆえに」と、どれだけ心を神に向けているだろうか。主を忘れて万歳と心躍らせるだけかも。「主のゆえに」というのは、自然に心に浮かぶ思いじゃない。全てのことにおいて意識的に心に刻まねば。この一点で、一日が変わる。


●23(木)
主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。 (ナホ1・7)

 専制的な権力によって異国の地ニネベに住む人々は苦しんでいた。その街に向けてナホムが告げたのは、弱く虐げられた人々に向けられた神の強い眼差しだ。守り抜いて下さるという圧倒的な宣言だ。
 神の民以外にまで御手が覆っていることを示す。神の愛は、パウロの異邦人伝道以前から及んでいたんだ。あ、当然かも。だって全ての命は御手の業なんだから、ご自身のものを大事にされるはず。そこに私の友人の命も入っていないはずはない。


●24(金)
お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。 (サム上17・45)

 少年ダビデがペリシテ軍の大男ゴリアトの挑戦を受けた。イスラエル全軍は怯えたのに、少年の勇気はどこから来たのか。
「主の名によって」とは「主が戦う」ということ、ここなのだ。私も大きな困難=ゴリアトに襲いかかられる。その時、ダビデのように主を見るのか否か。そこで結果まで違って来るんだ。勝利か敗走か、と。


●25(土)
あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。 (申6・15)

 「主は熱情の神」って、どういうことかなと思って聖書を開いたら、主を捨てて異教の神々に走ったなら、主の怒りは燃え上がるということだった。
 激しく愛することって、激しく求めるということ。「恵みの全てをあなたにあげたい」という真剣さ。逆に「あなたを想う私を裏切らないで」ということ。主は私を祝福によって独占したいんだ。なんて素晴らしい独占なんだ! その傍から、どうして離れて良いだろうか。留まって生きたい。


●26(日・第4主日)

主日礼拝説教

         ナグネ牧師(日本基督教団韓国派遣宣教者、長老会神学大学校助教授、聖学院大学総合研究所客員教授)



●27(月)
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。        (ハバ2・3)

 南王国滅亡の時代に立った預言者ハバクク。神の義しい裁きのために押し寄せる敵軍の迫りを見て「裁きのためとはいえ、敵が容赦なく剣を抜いても良いのでしょうか」と嘆く。その彼に、主の言葉が届いたのだ。「もう一つの幻がある、神に従う者は生きるから」と。希望の預言だった。
 罪と過ちに、自らを見て「悔いと嘆き」があり、同時に御言葉を見て「救いと希望」を見る。その全てに神が関わっていて下さるのですね。嗚呼それが信仰生活!


●28(火)
神は言われた。「地には草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」 (創1・11)

 天地創造の場面。混沌の中に、光と闇が分けられ、天と地が分けられ、地には植物が満ちて行く。世界が生まれた!
 全てのものが神との関りの中で命を得ていく。その壮大な関りよ! その壮大な関りの中に、私の小さな命も入られているんだ。私の中にも、神の天地創造がある。それは、私も神に結ばれて、世界の全ての命と繋がっているということだ。


●29(水)
「わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。」 (出19・5)

 エジプト脱出の後、モーセと人々はシナイ山の麓に着いた。そこで神がモーセに語りかけたのだ。この直後、モーセは山に登り「契約」の中身である十戒を賜る。
 神様はいつも「こっちの道を行け、迷い道に入るな、こっちの道が祝福に満ちる所へ行く道だから」と示される。そういう道標が「契約」なんだ。それもカーナビのように、迷っても、道を外れても、立ち帰る道を示してくれる、「こっちだよ」と。


●30(木・昇天日)
生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主  (ルツ2・10)

 異郷の地で夫と死別し、二人の息子たちも死に、嫁のルツだけを連れて失意のうちに帰京したナオミ。その嫁ルツが、ナオミの親戚で地主のボアズから厚意を得、食べ物も満ち足りて行く。その不思議な成り行きを見ていたナオミが、背後に主の御業を感得して言った言葉がこれだ。
 全ての出来事の背後に、主の生きた御手がある。私の生活にも、主の慈しみが惜しみなく注がれているんだ。その目があれば、苦難の日も希望の光が見える。


●31(金)
「わたしは主である。」 (出6・2)

 モーセが主の命令通り、ファラオに「民を去らせよ」と言うと、逆に民の労役は重くなった。民がモーセに不満を言い、モーセが主に訴えた時、主から「必ず救い出すから」との答えが伝えられる。その冒頭に、この宣言があったのだ。
 「わたしは主である。」これは何にも増して確実な、約束成就への基。その御声は、今朝私にも届いているのだ「わたしはあなたの主だ」と。その一言を胸に、波のように襲い来る心配事があっても、恐れず今日の一日へと踏み出そう。いざ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 10:50| 『日々の聖句』

2019年05月26日

説教 『聖霊に満たされることを願って』

2019年5月26日の礼拝
日本基督教団韓国派遣宣教者、長老会神学大学校助教授 ナグネ牧師

創世記11章1〜9節
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

使徒言行録2章1〜13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。


 私達は言葉を用います。相手との意思疎通も言葉無しにはできません。しかし、その言葉を用いて争いが起こります。誤解が生じます。なぜでしょうか。それは愛が欠けているからです。バベルの塔の物語はなぜお互いが良く理解できなくなったのかを教えてくれます。それは人が他人よりも、神よりも優位に立とうとしたからです。常に自分が正しく、相手は間違っていると考えています。だからお互いを理解できません。

 しかし、聖霊が降った時、人々は異なる言葉で語りました。それは相手に理解できる言葉、愛の言葉でした。それが聖霊の働きです。だから神の霊が必要なのです。この聖霊の言葉を聞いた人々は天下のあらゆる国の人々でした。その人たちが揃って、「私たちの言葉」と告白できるほどの言葉でした。聖霊に満たされた人は自分を捨て、相手の言葉を探し求めます。それは相手を思いやる心、愛の心です。人間の自己神化を打ち砕くのが聖霊の力です。

 霊に満たされた人々は、言葉は異なっても、同じことを語りました。それは、イエス・キリストの証言です。イエスがキリストであると語る人々の集まりが教会であり、海外宣教は初めの教会からの御業でした。宣教とは自分の外に出ていく愛の行為です。聖霊に満たされると福音を伝えたくなる。伝えずにはいられなくなる。霊に満たされる時、愛に満たされます。愛することは、人間の努力ではできません。神の力が必要です。だから愛の霊である聖霊を求めて生きていくのです。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 主日説教要約

2019年5月26日の礼拝

礼拝説教「聖霊に満たされることを願って」創世記11章1〜9節、使徒言行録2章1〜13節、ナグネ牧師(日本基督教団韓国派遣宣教者、長老会神学大学校助教授。)讃美歌7、496、2編195。交読詩編34編2〜11節。
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