2019年05月31日

『日々の聖句』2019年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年5月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(水・祝日)
わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。 (創24・48)

 アブラハムに、息子イサクの嫁を探すようにと命じられた僕が、旅に出た。誰がふさわしいか、さらに相手が承諾するのか否かも分からない、全てが見当もつかない旅。しかし僕が祈りつつ進んだ時、最もふさわしいリベカの家族に出会えたのだ。
 見当もつかない旅をしているのは、私の人生も同じかもしれない。その先で、神が用意していて下さる恵を手にするために。その恵は、旅路を導かれるのは、真に共にいて下さる神だという信仰なのかも。


●2(木・国民の休日)
助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。     (出2・23)

 エジプトの地で、奴隷の労役に苦しみの叫びをあげたイスラエルの民。その声が神に届いた時、出エジプトの奇跡の出来事が始まる。モーセの召命は、神様が民の叫びを聞かれた直後なのだ。
 壮大な救いの御業が起こる出発点は、人々が置かれた不条理を鑑みられたからじゃない。人々の叫び声に神様が心痛まれたということ、憐れんでくださったということ。それは、私の叫ぶ祈りにも、神様は立ち上がってくださるという福音。届かない叫び声は無いのだ。

●3(金・憲法記念日)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。     (エレ26・2)

 神殿に立つエレミヤが、民全体に神の言葉を伝える。その語り出しが、これだ。
 「神の言葉を削らずにすべて語れ! ひと言も減らすな」と言われなければならなかった人々。これは、私にも突き刺さる言葉だ。御言葉から自分の都合の悪い部分を省いて、勝手に骨に抜きして、挙句の果てに一言も聞かない心になっているから。そこが、幸いから迷い出す道なのに。御言葉が消えた道なのに。ああ、御言葉をそのまま聞く耳でいたい。


●4(土・みどりの日)
主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。 (ヨシュ2・11)

 ヨシュアがエリコの町に斥候を送り出す。その彼らをかくまった女ラハブ。異邦人の彼女なのに、なぜそのようにしたのか。それは、神がなさった出エジプトの出来事を知って、そこで神を畏れたからだ。御業を聞いただけで、神が生きて自分にも働かれることを信じたからだ。
 私も神の御業を知り、じかに御言葉さえ聞いている。でもこの女のように神を仰いだ生活をしているだろうか。主よ、私にも今朝、新しく信仰を与えてください。


●5(日・第1主日・こどもの日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月・振替休日)
恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。 (出14・13)

 意気揚々とエジプトを脱出した民の背後に、エジプト軍が迫って来た。人々が泣き叫ぶ中、一人モーセがこれを告げる。 前もって「必ず救いを見る」と聞いた神の約束を信じない人々。その狼狽の中で、ただ一人、神の言葉を信じて立ったのだ。
私も、狼狽する現実が真実のように見えても、〈残った一人の信じる者〉の側でいたいな。人の判断じゃなく、神の言葉にすがっている一人に、私もなりたい。


●7(火)
互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む。(ゼカ8・17)

 イスラエルは、北も南も滅び去った。残された人々に、預言者ゼカリヤが語るのだ「悪の力離れて、主に立ち帰れ」と。そして成すべき具体的なことの一つに、今日の言葉が告げられたのだ。
 まだ心の中で相手への悪口が生まれているだけの時、その私に神は「わたしは憎むぞ」を言っておられる。それを聞いて、ドキッとする。すぐに飛びのいて悪から逃れねば。そうだ、今すぐにだ!


●8(水)
アビメレクとその軍隊の長ピコルはアブラハムに言った。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」 (創21・22)

 アブラハムが寄留したゲラルの地で、王たちが言った言葉だ。アブラハムが神に守られている現実を見て、降参して激白したのだ。異邦人であるのに。
 隣人が私の生活を見ている。そこで何が見えているのかな。「神が居るとは思えない」としか見えない生活をしていたら、神様に申し訳ない。私を通して神の現臨こそ見えて欲しいのに。祈りつつ歩まねば。


●9(木)
水くみ場で水を分ける者らの声にのせて、主の救いを語り告げよ。   (士5・11)

 イスラエルに王が立てられる前、民を導く士師がいた。その一人デボラが、圧倒的な力を誇る敵を破った時に歌ったのがこれだ。人には勝算の見えない戦いだったのに、神が「行け」と命じて導かれた時、人間の計算を超えた出来事が起こる。そして、そこにこの歌が生まれた。
 私達も困難を乗り越えさせて頂いて今がある。でもそれを語り告げているだろうか。その日々を思い起こして、数えて、賛美したら、そこに希望が生まれるのに。


●10(金)
自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家 (申6・11)

 モーセは、神が与えて下さった一つひとつのものを数え上げてゆく。その中の一つがこれである。そしてその最後に言うのだ「あなたをエジプトの国、奴隷の家かな導き出された主を決して忘れるな」と。
 達成感に包まれる時、誘惑する者の声が囁く「君もなかなかやるじゃないか。一人で頑張ったね」と。自分を褒める言葉も心に沸いて来る。しかしその時こそ、気を付けて己に言わねばならない「否。全ては主のお陰、私は感謝に生きる」と。そこが、脱線の分岐点なのだから。


●11(土)
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。    (イザ53・4)

 預言者イザヤによる『苦難の僕』の一節。この姿に私たちは、十字架へと向かう御子のお姿を見る。
 私のデスクにある十字架には主イエスが架けられている。やつれ切った顔、自重で筋が切れて伸び切った両腕、見る影もない姿。「この処刑は、罪人の私が受けねばならないはずだったのに」と思ったら、己の罪の重さが分かる。身代わりになれれた方の痛みが分かる。それほどまでに愛された愛の深さが見えて来るよう思えた。

●12(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月)
人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。 (ヨブ7・17)
   

 ヨブは苦難の中で、友人から「自業自得だ」と追い詰められる。その中で彼は神に「私の罪など見張らないで、放って置いてくださればいいのに」と訴えた。
 苦難の時、なお神様から離れず、神に問い、神に嘆き、百%神と格闘している。「神様にすがる」って、こういうことなのかもしれない。願い事をする時じゃなく、苦難の時に、信仰はあらわになる。


●14(火)
あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。 (レビ25・2)

 主の命令がモーセに降る。6年の間は畑に種を蒔いて収穫して良いが、7年目は土地を休ませねばならないと。安息命令は人間だけではなく、大地にも及ぶ。
 ああ、いわんや人間をや! 休むことは、私のことを私以上に心配していて下さる神様の命令、御父の願いなんだ。「休みが必要なんだ。息継ぎなしに走り続けるな」と。だから、休む場所は、御前でなきゃ。礼拝以外の場所はないのですね。


●15(水)
主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。  (ヨシュ24・16)

 老人ヨシュアが、民に告別の言葉を語る「主を固く信頼せよ」と。それに応答して人々が答えたのが、これだ。しかしこの時、人々は既に諸々の偶像を拝んでいた。
 「不信仰。背信」って何だろう・・・と改めて思う。それは、単に主を信じない事じゃないのかも。むしろ、自分がしたい事を何でもすること、自分の常識を神としていること、この世に倣うことを優先していることかも。片手間に主も拝むことだ。私の生活にも忍び込む罪。


●16(木)
主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。    (王上11・10)

 二度も現れたというのは、神様が心配で「絶対、絶対だめだからね」と、ソロモンの傍を離れられなかったということ。そこまで手厚く思いを掛けていただいた彼なのに、それでも背信へと走るソロモン。そこに、背信への誘惑の恐ろしさを見る。
 「私なら、そこまで思われたら絶対従う」と思って、すぐ「ソロモンでさえ駄目だったのに、私なら速攻背信だ」と思った。奢らないことが、私を堕罪から守る。


●17(金)
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光りの露。 (イザ26・19)

 この「あなた」とは、主なる神のこと。人々が背信のゆえに平和を失って苦難に在る時、イザヤが回復の希望告げた。暗闇の中に「光の露」が降りるよと語った。
 でもなぜ喜びが見えない現実に、彼は光の露を見ているのだろう。民はまだ償いもしていないし、これから裁きの日が来るのに、既に赦された民のように接している・・・。あ、彼は民を「救われる者達よ」と見ているのかも。「相応しくない者が、そのままで赦されること」が「救い」だから。


●18(土)
主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」 (創18・15)

 八十九歳のサラが、主から「来年、男の子を産む」と知らされ、「そんなはずが無い」と神の言葉を嘲笑した。途端に主から「なぜ笑ったのか。主に不可能なことなどない」と叱責される。それでも「笑ってません」と嘘をついて弁明するサラに、主が言われたのがこの言葉だ。
 サラは自分の常識を神の言葉の上に置き、叱責されても弁解する。なぜ「はい」とも「御免なさい」とも言えなかったのか。
そこに自分の姿が重なる。だからこそ今日、信仰を刷新する転換点にしたい。


●19(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師



●20(月)
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。 (エレ20・9)

 主の言葉を伝えたエレミヤに、人々からの嘲笑が浴びせられた。だから二度と伝えるものかと思った彼が、その直後にこの言葉を告白したのだ。
 私も日毎に御言葉を受けている。でもそれを隣人や家族に伝えているだろうか。私の中の御言葉も、伝えられることを願って燃えているのに。口よ、語れ!


●21(火)
(あなたたちは)仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。 (ヨシュ24・15)

モーセの後継者として民を率いたヨシュア。彼は民にコンコンと神様がどんなに守って下さったかを語る。奴隷の家エジプトからの脱出と、その後の荒野の旅路の守りも。そして今、約束の地に辿り着いた時に人々に問うのだ「主に仕えるか、または土着の神に仕えるのか。どちらか一つを選べ」と。
どちらか一つなんだ。どちらも、では駄目なんだ。片足信者じゃ、必ず転ぶから。それもその怪我は重傷になるから。


●22(水)
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。      (イザ29・19)

 背信のゆえに滅んだ後、回復の希望が告げられた。それは人々が悔い改めたゆえの恵みじゃなく、主の憐れみだった。
 喜びに心躍る時がある。でもその時「聖なる方のゆえに、主のゆえに」と、どれだけ心を神に向けているだろうか。主を忘れて万歳と心躍らせるだけかも。「主のゆえに」というのは、自然に心に浮かぶ思いじゃない。全てのことにおいて意識的に心に刻まねば。この一点で、一日が変わる。


●23(木)
主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。 (ナホ1・7)

 専制的な権力によって異国の地ニネベに住む人々は苦しんでいた。その街に向けてナホムが告げたのは、弱く虐げられた人々に向けられた神の強い眼差しだ。守り抜いて下さるという圧倒的な宣言だ。
 神の民以外にまで御手が覆っていることを示す。神の愛は、パウロの異邦人伝道以前から及んでいたんだ。あ、当然かも。だって全ての命は御手の業なんだから、ご自身のものを大事にされるはず。そこに私の友人の命も入っていないはずはない。


●24(金)
お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。 (サム上17・45)

 少年ダビデがペリシテ軍の大男ゴリアトの挑戦を受けた。イスラエル全軍は怯えたのに、少年の勇気はどこから来たのか。
「主の名によって」とは「主が戦う」ということ、ここなのだ。私も大きな困難=ゴリアトに襲いかかられる。その時、ダビデのように主を見るのか否か。そこで結果まで違って来るんだ。勝利か敗走か、と。


●25(土)
あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。 (申6・15)

 「主は熱情の神」って、どういうことかなと思って聖書を開いたら、主を捨てて異教の神々に走ったなら、主の怒りは燃え上がるということだった。
 激しく愛することって、激しく求めるということ。「恵みの全てをあなたにあげたい」という真剣さ。逆に「あなたを想う私を裏切らないで」ということ。主は私を祝福によって独占したいんだ。なんて素晴らしい独占なんだ! その傍から、どうして離れて良いだろうか。留まって生きたい。


●26(日・第4主日)

主日礼拝説教

         ナグネ牧師(日本基督教団韓国派遣宣教者、長老会神学大学校助教授、聖学院大学総合研究所客員教授)



●27(月)
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。        (ハバ2・3)

 南王国滅亡の時代に立った預言者ハバクク。神の義しい裁きのために押し寄せる敵軍の迫りを見て「裁きのためとはいえ、敵が容赦なく剣を抜いても良いのでしょうか」と嘆く。その彼に、主の言葉が届いたのだ。「もう一つの幻がある、神に従う者は生きるから」と。希望の預言だった。
 罪と過ちに、自らを見て「悔いと嘆き」があり、同時に御言葉を見て「救いと希望」を見る。その全てに神が関わっていて下さるのですね。嗚呼それが信仰生活!


●28(火)
神は言われた。「地には草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」 (創1・11)

 天地創造の場面。混沌の中に、光と闇が分けられ、天と地が分けられ、地には植物が満ちて行く。世界が生まれた!
 全てのものが神との関りの中で命を得ていく。その壮大な関りよ! その壮大な関りの中に、私の小さな命も入られているんだ。私の中にも、神の天地創造がある。それは、私も神に結ばれて、世界の全ての命と繋がっているということだ。


●29(水)
「わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。」 (出19・5)

 エジプト脱出の後、モーセと人々はシナイ山の麓に着いた。そこで神がモーセに語りかけたのだ。この直後、モーセは山に登り「契約」の中身である十戒を賜る。
 神様はいつも「こっちの道を行け、迷い道に入るな、こっちの道が祝福に満ちる所へ行く道だから」と示される。そういう道標が「契約」なんだ。それもカーナビのように、迷っても、道を外れても、立ち帰る道を示してくれる、「こっちだよ」と。


●30(木・昇天日)
生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主  (ルツ2・10)

 異郷の地で夫と死別し、二人の息子たちも死に、嫁のルツだけを連れて失意のうちに帰京したナオミ。その嫁ルツが、ナオミの親戚で地主のボアズから厚意を得、食べ物も満ち足りて行く。その不思議な成り行きを見ていたナオミが、背後に主の御業を感得して言った言葉がこれだ。
 全ての出来事の背後に、主の生きた御手がある。私の生活にも、主の慈しみが惜しみなく注がれているんだ。その目があれば、苦難の日も希望の光が見える。


●31(金)
「わたしは主である。」 (出6・2)

 モーセが主の命令通り、ファラオに「民を去らせよ」と言うと、逆に民の労役は重くなった。民がモーセに不満を言い、モーセが主に訴えた時、主から「必ず救い出すから」との答えが伝えられる。その冒頭に、この宣言があったのだ。
 「わたしは主である。」これは何にも増して確実な、約束成就への基。その御声は、今朝私にも届いているのだ「わたしはあなたの主だ」と。その一言を胸に、波のように襲い来る心配事があっても、恐れず今日の一日へと踏み出そう。いざ。

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2019年05月26日

2019年5月26日の礼拝

礼拝説教「聖霊に満たされることを願って」創世記11章1〜9節、使徒言行録2章1〜13節、ナグネ牧師(日本基督教団韓国派遣宣教者、長老会神学大学校助教授。)讃美歌7、496、2編195。交読詩編34編2〜11節。
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2019年05月22日

『日々の聖句』2019年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年6月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。      (士6・15)

 人々はミディアン人によって略奪され、嘆きは天に届いた。そのとき主がギデオンに「あなたが民を救い出せ」と告げた。それに彼が「私は一番貧弱者で、一番若輩なのに、なぜ私ですか」と答えたのだ。
 なぜ神様はいつも、相応しく思えない者を選ばれるのだろうと思いあぐねて、ふと思った。彼の業のどこを見ても。彼が自分で成し遂げたとは見えないからかも。能力に依らず、神の霊によって成すためだ。


●2(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
わが子よ、彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。     (箴1・15)

 知恵の書の箴言が「わが子よ、父の諭しに聞き従え」と語る。その中の一つが、ならず者の道に踏み込むなということだ。
 「そんなこと分かっているよ」と思っているつもりで、いつの間にかその道に入り込んでいる気がする。大体ならず者って何? と聖書を見たら、罪もない隣人を苦しめて奪う者で、舌と行いで傷つける者だった。あれっ、それってやっぱりボクのことだと気付いて慌てる。慌てたら、まだ救いがあるのかも。飛び退いて立ち帰れるから。


●4(火)
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。  (イザ9・1)

 南北イスラエルの滅亡が迫る。その中にあってイザヤは希望を告げた。それは、かつてのダビデ王の時のような恵みの日々の到来。平和の君が来るよ、と語られていた。それが大いなる光だぞ、と。
 きっと人々は、その光をリアルに思い浮かべられただろう。あのダビデ王の時が来ると思い浮かべられたから。それと同じように、いやそれ以上に私もリアルに平和の君を思い浮かべられる。それはイエス様を知っているから。私の大いなる光だから。


●5(水)
年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。 (創21・2)

九〇歳のサラがついに息子を産んだ。「とても無理」と思えて、期待することさえ出来なかったのに。しかしその希望の領域に、神はサラを連れ出されたのだ。
「それは、神が約束されていた時期であった」と加えられた一言にドキッとした。神の計画には、成就する時があるのだ。その時まで、たとえ人間が諦めようとも、そこを貫いて突き進む。ああ私に、失望の中で信じる信仰をください。


●6(木)
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。(出20・7)

 「十戒」の中の第三戒である。
 当時の人々は、気安く「神かけて誓う」とか「主の名によって嘘偽りなどない」とか「ああ神様、なんてこったい」と口癖のように言っていたらしい。貴い御名が、形ばかりで口に上っていたらしい。
 改めて「みだりに唱えるな」とは何か、と思う。「神に真向かえ」ということかも。「主よ」と御名を呼ぶところに、既に神様が臨在されているのだから。私に耳を傾けて、「何だい?」と御心も向けてくださっているのだから。その御前に立つのだから。


●7(金)
人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。      (箴5・21)

 安全な人生の道がある。その道では、人はもう迷って悩み悲しむことはない。幸いへの道がある。それは、必ず最高の人生となる道だ。なぜって、その道は主なる神が「すべて計っておられる」道だから。
 あとは、その道を踏み行くか否かだけ。それなのに、その選択を私は何度間違って来たことか。自分で「こっちの道がよさそう」と踏み出して、迷子になって来た。
主の〈御言葉の道〉を踏み続けたい。その道に留まろう。そうさ、主の道に。


●8(土)
(民は)主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみをご覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。    (出4・31)

 エジプトで苦しむ民に遣わされるモーセ。初めは、誰も自分の言葉など信じないと悩んでいたが・・・。神に預かった言葉を語った時、民は神の言葉だと信じた。
 私も家族や友人の中に遣わされている。でもその場で、「私に何が語れるのか」と怖じる。しかし今朝「御言葉がある。そのまま語れば神の御業が起こる」と気付けた。「それに賭ければ良いんだ」と。

●9(日・第2主日・聖霊降臨日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。」   (士16・28)

 主によって与えられた怪力。その秘密をうかつにも知られてしまって、力を失ったサムソン。敵に捕らえられ笑い者にされていた時、彼は悔いて、すがり直して、そして祈った。ただ主の臨在を祈った。そこに、再び怪力が戻って来るのだ。
 ボクには怪力はないけど、主のおかげで一歩を踏み出せる。それなのに一日に何度、主を忘れることか。サムソンの祈りは、私の朝毎の祈り、夜毎の祈りだ。


●11(火)
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。  (イザ30・21)

 主に背いた南ユダ王国の民。バビロンから敵の声が迫った時も、主が「静かにしていれば救われる」と言われるのに、なお背いてエジプトと同盟して逃れようと画策する始末。とうとう行き詰って震えるしかない民に、この言葉が届いた。
 それは、なお救う、との主の御旨。震えるお前のゆえに導き出さないではいられない、との御心。罪人の背中を支える御手がある。それが、主の御手。破格の恩寵。


●12(水)
イスラエルの人々は、主に問うた。        (士20・27)

 ならず者の民による非道な仕打ちに、制裁を加えんとして立ち上がったイスラエルの軍団。しかし連敗に次ぐ連敗で4万人の兵を失う。途方に暮れて主の前で泣き崩れる人々。退却こそ最善策と思われた時に、彼らは主に決断を委ねた。
 泣く時、おじる時、逃げ出したくなるとき、それでも主に祈る。逃げ出してしまうのではなくて、浮足立ったままでも良いから主に祈る。そこで御心を聴く者こそ、主に従う強者だから。委ねることは、本当の強さなんだな。


●13(木)
わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。   (士10・10)
   

 人々は主なる神を礼拝していながら、もう片足をバアルの神、アシュトドの神、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテ人の神々に仕えていた。その姿はまるで片足信者。その姿が、「神を捨てた」と告げられていたのだ。
 ドキッとした。礼拝しつつも、「己」を神とする自己中心は、神を捨てているのだ。キリスト者こそ、警鐘を鳴らされている。

●14(金)
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。  (詩133・1)

 この詩人として、ダビデが都に上る時に詠んだ歌として聞くなら、その胸の高鳴りまでもが聞こえて来そうに思える。礼拝に集うということを、何よりも喜ぶ彼がいる。一緒に神の前に出られることが、最大の恵みと数えている彼がいる。
 私も、その喜びが分かる。礼拝堂に、あの人この人、久しぶりに来られた人、困難を乗り越えて集っている人の顔がある時、「なんという喜び」と心が震えて来るから。その場、その時に優るものはない。


●15(土)
イスラエルの人々よ、あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる。       (イザ27・12)

 都が破滅する預言に、すぐ続けるようにして語りかけられる回復の預言。神の民は再び集められる。そしてエルサレムで礼拝する日が来るのだ、と。
 主は、何度も私たちを顧みてくださる。それも「全員を集める」というような十把一絡げの方法じゃなく、「あなたを、そしてあなたを」というように「ひとりひとり」なのだ。さらに、地に伏すあなたを「拾い」あげるようにして集めて下さるのだ。その一人に、私も入っているのですね!


●16(日・第3主日)

主日礼拝説教

        西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
(ウジヤ)は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。   (代下26・16)

 主を畏れ敬う王で、南ユダの王たちの中では稀有なウジヤ王だったのに・・・。主によって繁栄していることを忘れて思い上がった時、神をないがしろにしたのだ。
 ああ、ウジヤよ、お前もかと思う。人が罪の現実に転落するのは、逆境ではなく順境の時にこそ。敬神家であっても神を捨てる。祝福の土台を捨てることなのに。
私にいつも大小の逆境が続くは、かえって神の憐れみなのかも。きっとそうだ。


●18(火)
あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。   (申31・6)

 120歳になったモーセが、荒野で民を率いる後継者・ヨシュアを任命するとき、人々の前で発した言葉だ。それはヨシュアの人柄や能力を披歴したのではない。彼の前に立つ方を披歴したのだ。共に歩み、見放すことはない方・主なる神を。
 私たちも、ただ主によって導かれる群れ。群れが一つとなって一心に主のほうを見上げれば、困難に遭っても恐れることなく、迷いもない。「ただ主」これのみ。


●19(水)
「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」        (エレ33・3)

 エレミヤが、バビロンによる南ユダ王国滅亡を預言した時、王は怒って彼を投獄した。その獄中の彼へと、主が語り掛けたのだ。国が滅びたのちに約束されるエルサレム復興を。裁きの後に、なお希望も備えられていることを。
 どん底と思える獄中。何もかも失敗してしまったと思える場所に、主の言葉が差し込んで来る。鉄格子も壁も何かはせん。「我を呼べ」と御声は突入して来る。


●20(木)
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」      (出14・16)

 出エジプトの後すぐ、人々の背後にエジプト軍が迫って来た。行く手を葦の海が阻む。その絶体絶命に、もう死ぬしかないと叫ぶ民。しかし主はその絶体絶命で、「進め」とモーセに命じられたのだ。
 人の目に見える困難による絶体絶命は、神の目には全く違って見えているんだ。それは、御業が起こる場所としてご覧になっているということ。そこに届く「成せ」との御言葉に従えば、その先に、恵みの御業を受け取る日が待っているのだ。


●21(金)
彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。   (ミカ5・6)

 南北王国が亡びてゆく。その只中で回復の希望を神から戴いて語る預言者ミカ。救い主の到来と、残された人々に神を慕う者がいることを。その人々は、もはや人間に頼らず、神にのみ頼るのだ、と。
現実にどうやって人に頼らず、見えない神に頼るのかと呟いて、ハッとした。それって、御言葉を神の言葉と聞かない人の呟きだと気付いたから。神を頼ることは御言葉に頼ること、それもすぐ傍に神の言葉は届いている。従う私になりたい。


●22(土)
心の中で兄弟を憎んではならない。       (レビ19・17)

 主が民に勧告される、「聖なる者となれ」と。そのために「父母を敬え」「偶像を仰ぐな」「隣人を虐げるな」等と言われ、「兄弟を憎むな」とも命じられたのだ。
 人を憎んではならないとは、仲良く暮らすための勧めという程度の話じゃない。人を憎むことは、聖くなろうとする歩みを離れ、自分を汚す道を進むことなんだ。神の御心の外の荒涼とした世界に踏み込むことなんだ。あ、だからそこは悩みと苦しみが渦巻いていたんだ。憎しみは、捨てるべき心のゴミ。必ず自分で捨てねば。


●23(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。      (コへ3・20)

 全ての人にやって来る「死」。コへレトの言葉はその現実に真向かわせる。それも、終末の彼岸にある希望に目を向けさせるのではなく、現実の此岸を見詰めさせる。そして言いたいのだ「今を生きよ」と。
 「どうせ塵になるのだから・・・」と生きることじゃない。厭世家になるのでもなく、単に楽天家になるのでもなく、「しっかり今日という日を生きよ」と語りかけているのだ。よし、瞬間瞬間を大切に生きようぞ! それが貴き御旨だから。


●25(火)
母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。  (詩22・11)

 苦難が近づき、助けてくれる人もいないという状況の中で、詩人が声をあげた。それは、「あなたは、私の神様なのだから」という祈りだった。
 決して「神がおられるなら助けて」というような不安な祈りじゃない。むしろ助けが来ることは分かり切っているという祈りだ。生まれる前から神に守られていることを信じる者の声だ。詩人は「助けて下さらないはずが無い」と言っているのだ。危機の時に、不安に揺れない祈りがある。
これは、信仰告白そのものだなぁ。


●26(水)
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。       (ヨエ3・1)

 南ユダ王国の滅亡を預言するヨエル。神への背きが止まらないゆえに、ついに裁かれる日が来るのだ。しかしその預言は悲しみだけで終わらない。回復の日が、その後に来ると告げられるから。親しく主の霊を受け、再び神を礼拝する「主と我」の日々が来るからと。それが希望だよと。
 御霊なる神よ。今日、私にも豊かに注ぎ給え。そのとき私も生き生きと生き出せるから。神の子として歩み出せるから。


●27(木)
主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。   (詩3・5)

 詩人には、予想だにしなかった苦難が襲いかかっている。信頼した者に裏切られて命さえ狙われている。「お前に神の救いなどあるものか」と責める者が迫る。その只中で詩人は、「それでも」と声を上げた。「主よ、あなたはわたしの盾」と。そして今朝のこの信頼の言葉を告げたのだ。
 私も、声を主に向けよう。自分の中で呟くのではなく、また人に向けて吠えるのでもなく、主に向かおう。それも、嘆きの言葉に乗せて、信頼の言葉も一緒に。


●28(金)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 (詩23・1)

 詩編全150編の中で、これは最も多くの信仰者に愛され、暗唱された詩ではないだろうか。
 これは決して安泰の中にある人が書いた詩ではない。敵が周りを囲んでいて、死の陰の谷を歩まされるような時に「わたしには何も欠けることがない」と告白したのだ。「主がわたしの羊飼いでいてくださるからだ」と。そこに、苦難の中にある信仰者の琴線に触れた理由があるのだろう。
私も苦難の淵で、最期の病床で、静かに口ずさんでいたい御言葉だ。


●28(土)
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。   (エレ29・13〜14)

 バビロンに捕囚として連れて行かれた人々に、エレミヤを通して「その地で生きよ」と伝えられる。「これは災いの計画でなく、将来と希望を与えるものだ」と。しかし主が、その地での人々の苦難をも思って加えられたのが今朝の御言葉だ。
 主は単に耐えろと言われるのではない。「私も一緒にいるから」と励まし、「あなたの苦しみに日こそ、私と会えるから」と。苦難こそ神を叫び求める日なのだから。


●30(日・第5主日)

主日礼拝説教

        秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 11:15| 『日々の聖句』