2019年02月28日

『日々の聖句』2019年2月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年2月
(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)




●1(金)
わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。 (申13・1)

 モーセが多くの律法を授与する時に、どのように守るべきか釘をさした、「自分勝手に掟の中身を変えるな」と。
 私も自分の都合の良いように御言葉の内容を曲げてしまうことがある。「隣人を愛せ」との金言も「あの人が私に愛されるに相応しい人になったら」と心の中で一言加えている。神の言葉を骨抜きにする罪なのに。私も神を悩ませた背きの民と同じになる故、このクサビは私への言葉だ。


●2(土)
主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。(民14・43)

 「主はお前と共におられない」、衝撃的な宣告を受けた人々は、この後戦いに惨敗する。最初にカナンの土地に入る時、主の計画に不平を言い、抵抗し逆らって、自分勝手に歩み出した結果であった。どんなに勢いよく進んでも、主が共におられない歩みは一瞬で行き詰るのに。
 旧約聖書には「あ、ここにも私の姿がある。そこにも」と思える人間の愚かさに満ちている。だからこそここで自分を見つめ直せる。「立ち帰らねば」とも気付ける。


●3(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。  (出13・22)

 エジプトを脱出した民が、荒れ野の逃亡の旅で心も萎えて来る。その思いを誰よりも心配して下さったのは神ご自身だ。だから昼も夜も彼らの傍を離れない。それどころか彼らの先を進んで道を示し、最後尾を守っても下さった。
 ああ、私の今日という旅路にも、たとえ心萎える時があっても、神ご自身がお心を傾けて先頭を進んでいて下さる。私を離れずにいて下さる。だから心を強くして進み行こう、いざ出発せん。


●5(火)
イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(創22・7)

 神からアブラハムが「息子イサクを献げ物にせよ」と試みられた時、イサクが唐突に言った言葉がこれだ。彼は息子の言葉をどういう思いで聞いたのだろうか。胸に突き刺さる問いではなかったのだろうか。
 「この道は御心なのか」と心配になることがある。常識では「絶対無理、嫌だ」と思える所へ向かう道だから。傍から「それでいいのか」と胸に刺さる声も聞こえるから。御心を歩む厳しさを改めて思う。

●6(水)
財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。(申8・13〜14)

 「満腹、満足だ」と思う時が一番危ないと、聖書は警告する。人生を振り返って「私も随分頑張って来たな」と安心する時が一番危ない。それは神を忘れて歩みだす道に入る瞬間だからと警告する。
 「ああ幸せ」と思う言葉に替えて「ああ主のお陰」といつも言おう。「苦労して来たなぁ」と思う心に替えて「ずっと神様に支え続けられたなぁ」と常に言おう。離反への淵は私の中で口を開いているから。


●7(木)
主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。   (詩18・2)

 ダビデ王が、すべての敵から救い出された時、主を仰いで賛美した。
 彼は「やれやれ艱難を通り抜けた」と苦難を見て一息ついたのじゃない。「憎い奴らめ、ざまを見ろ」と敵を見たのでもない。「自分も頑張った」と己を見たのでもない。自分や敵を見る目を180度天に向き変えたのだ。そこで分かるのだ。主がいかに力強く救い出して下さるお方かということ、神がいかに近くに居て下さったかということが。私も、己の内側や人を見るのでなく、目を転じて主こそ仰がん。

●8(金)
男と女に創造された。(創1・27)

 神が人を創られた時、一人だけ創って「完成だ」とはなさらなかった。つまり人間は、その存在の初めから独りで存在するものではないのだ。互いに助け合う者を必要とする存在とされたのだ。独りでは生きられない存在となさったのだ。
 私の横に隣人がいるということは、当たり前の在り方なんだな。そこで愛し合い、助け合い、想い合い、執り成し合ってこそ人は人と成るのだから。独りで生きなくて良い。傍に助け合う隣人を、神がすでに創っておられるのだから。


●9(土)
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。   (創1・3)

 天地創造の初め、世界は神の「言葉」によって成った。まず混沌と闇の中に、「光あれ」と。そして神はその結果の一つひとつを見て、「良し」と言われるのだ。
 世界の全ては、神の想いがこもった「言葉」によって出来ているんだ。木も花も、動物たちも、私の傍にいる隣人の一人ひとりも、全ては神が「生まれ出るんだ。さあ生き生きと在れ。私が存在して欲しいと願う一つ、また一人よ」と願って下さっている存在なのだ。嗚呼その神の願いによって私という存在も生まれたのですね!


●10(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●11(月・祝日)
「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。」 (申4・2)

 モーセが、遺言を残すかのように「掟と法を忠実に行いなさい」と語り出す。それに続いて、その「忠実」が何であるのかを明確に示したのが今朝の一言だ。「律法に一言も加えず、一言も減らすな」と。
 御言葉に従うキリスト者にも今朝の言葉が響く。「赦せと言われるけど、あの人だけは無理と、勝手に減らすな。その御言葉はいつか従いますと、条件を加えるな」と。ただ「然り」と、黙々と歩みたい。


●12(火)
(サタンは言った)「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」(ヨブ1・9) 

 サタンは人間の一番弱いところを突いて来る「お前は自分の願い(病気を治してとか、試験に合格させてとか)を叶えてくれるから神を拝むのだろ」と。「祈っていても財産を失ったり、病気が治らなかったら、不平と不満で信仰を捨てるさ」と。
 私と神様との関係も、今朝もう一度問われる。「私はなぜ神様を慕うのか」と。「神が、私の主であるゆえにと、そこにちゃんと立っているか」と。サタンは今朝、私に挑戦して来ているのだ。


●13(水)
いかに幸いなことか・・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。    (詩1・1〜2)
   

 「幸いの在り処」を、詩人はズバリと告げる、「御言葉を昼も夜も口ずさみ、これを愛する人の処に在る」と。
 私は御言葉を、知ってはいる。でも四六時中、口ずさんでいるだろうか。御言葉で心が一杯になっているだろうか。いや、この世のアレコレだけで心が一杯になっているのかも知れない。そのアレコレに御言葉を関わらせてもいない。その時、幸いは指の間からスルリとこぼれ落ちているのに。


●14(木)
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 (創2・24)

 「ついに、これこそ私の骨の骨、肉の肉」と、自分の初めての、また唯一のパートナーとなったエバを前にして喜ぶアダム。この女と助け合って支え合って生きて行けるということを喜んだのだ。
 人って、何よりもの喜びは、お金や地位じゃない。支え合える助け手が傍に居ることなんだ。親友でも、家族でも、あらゆる隣人がそういう関係になったらどんなに良いだろう。夫婦はその最も大切なしるしなのかも。互いに仲良くしなきゃね。


●15(金)
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。 (ヨナ2・8)

 神に逆らって逃げ出した果てに、嵐の海に投げ出され、大魚に腹に飲み込まれたヨナ。そこで神に顔を向け直した時、背きの者の祈りさえ御許に届いたのだ。
 神に反逆したにもかかわらず、そんな者の祈りさえ聞いていただける。無視され見捨てられて当然の関係なのに。人間同士なら、そんなこと在り得ないのに・・・。
 神様は決して関係を切りはしない。それこそが神の最大の奇跡、恩寵なのかも。


●16(土)
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。(ゼファ3・15)

 国が滅び、人々の中に恐れがとぐろを巻いていた。ジットリ絡みつくような闇があった。そこに神は、ゼファニアを通して「主があなたたちの只中にいるのだ。だからもう恐れるな」と宣言されたのだ。
 どんなに闇が深くとも、たった一点の光があれば、闇は退けられる。その一点が、主なのだ。私と共にいて下さる王なる主なのだ。踏み出す一歩の足元も、明るく照らされた。恐れず行かん。


●17(日・第1主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●18(月)
「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。(創35・2)

 ヤコブが神様から「ベテルに行って礼拝しなさい」と言われた時、家族と出発しようとする。その時に言った言葉だ。「みんな一緒に祝福を受けたい。そのために真の神へと、身も心も『着替えなさい』」と。
 家族の中で自分一人だけ祝福されていれば良いとは、そもそも神の願いではない。私も家族に、「さあ、真の神を仰ぐ姿に着替えようよ」と招くように促されている。家族の救いは、神の願いなんだ。

●19(火)
すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。(詩18・31)

 詩人は、神の道は完全だ、と告げる。さらに主のみ言葉は、その完全な道を示すのだと告げて、今日の言葉が続くのだ。
 単に、大樹に身を寄せれば安心、守ってもらえるというような事じゃない。「御もとに身を寄せる」とは、御言葉によって示さる神の道を歩むなら、その人を主ご自身が盾となって守らないはずがあろうかということなんだ。これは、主にのみ頼って生きたダビデの詩として聞けと言われる詩。その意味がよく分かる気がした。


●20(水)
柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。(箴15・1)

 神に願って知恵を得たソロモン王の箴言。知恵の言葉に満ちている書簡。
 私も知っている、憤りとか怒りとかが間にある関係は、どんなに暗いかを。その怒りを生むか鎮めるかは私の言葉にかかっているんだ。そうだとしたら、相手との関係が晴れ晴れする一日になるのか、曇りや大嵐になるのかは、私次第じゃない?
 そんな良い事、もっと早く教えてよ〜。 でも舌を制するのが一番難しいかも。それが知恵ある人だと言えるらしいから。


●21(木)
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。(詩2・1)

 今朝のみ言葉は「なにゆえ主に逆らうのか」という叱責につながる。大声を上げて自己主張する。それは主に逆らう姿じゃないのかと告げるのだ。そして2編の最後で「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて」と辿り着く。
 むなしい者になりたくない。騒ぎ立てる者になりたくない。それは、神に逆らう者なのだから。ただ「主の御心を私にも成してください」と祈ろう。主のみ跡に従おう。信仰を、今朝新しく私に与え給え。


●22(金)
あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らなければならない。(出12・24)

 「このこと」とは何か? 何を子々孫々守らねばならないのか。それは、エジプトの地で奴隷になっていたのを、神が御手をもって救い出して下さった救いの経験を語り継ぐこと。感謝を絶えさせない事だ。
 私も「御手によって助けられた」という経験がある。出エジプトより小さいけど、確かな出来事だった。でもそれを語り継いでいるか。もし神様への感謝を語り出せたら、私を囲む世界も神を知るんだ。


●23(土)
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」(創3・13)

 人が幸いでいるために必要なものは全部揃えられていたエデンの園。不足は何一つなかったのに、エバは「決してするな」と神に言われた唯一つの約束を破ったのだ。そのとき神様が言われた第一声がこれだ。
 私には、神の叱責ではなく、悲しみの声に聞こえる。情けなくて嘆く声に聞こえる。私も何度神様を嘆かせて来ただろうかと、シュンとする。でも同時に、どれほど気に掛けて頂いていたのかと、その熱い御思いが改めて迫って来るように思えた。


●24(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●25(月)
いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。 (詩13・2)

 敵に囲まれ、内乱にも遭ったダビデ王。そういう彼が詠んだ詩として読めと、聖書は告げる。解決は主からのみ来ると、主にすがり続ける者の祈りがこれである。
 危機に及んだ時、私もまず神へと顔を向けよう。自分でアレコレと奔走し、万策尽きてやっと神様に「助けて」と求めるのでなく、いつも何よりもまず「主よ助けて。私はどうすれば良いのですか」と祈ろう。すがる姿に、もう信仰は現れているんだ。


●26(火)
天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって。(詩8・2〜3)

 周りに満ちている神の御業を、詩人は心から賛美したいと胸躍らせている。でも彼は自分のことを知っている。それは、きっと戴いている恵みの御業を自分は数え上げ切れないだろうということを。ただ無条件で、気付かずに、戴くだけで生きているんだと。それを、自分は「乳飲み子」だと言ったのた。喜んで告白したのだ。
 私も「神様の乳飲み子」。今日を生きるための全てのものは、もう神が揃えていて下さる。安心してハイハイしよう。


●27(水)
見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。(イザ49・16)

 神様は「あなたを忘れることは決してない」と言われる。それはご自身の手の平に私の名を入れ墨して下さるほどに。決して消えないよう刻み込むようにだ。
 たとえ私が神様を見失っても、たとえ私が放蕩して離れても、神は手の平にある私の名を繰り返し呼んで下さるのだ。
 私は神様にどれほど愛されているか、少し分かった気がする。ご自分の手の平を傷つけてさえ、痛みさえも厭われない。あ、十字架の上の御子が心に浮かんだ。


●28(木)
隣人に関して偽証してはならない。  (出20・16)

 神ご自身が、モーセを通して与えた十の掟がある。今朝のみ言葉は、その『十戒』の中の第9戒だ。あらゆる嘘を言ってはならないと約束させる。それは、隣人との幸いな関係を一瞬で崩すからだ。さらに、神からの信頼も失うことになるからだ。
 巷で「嘘も方便。親切な嘘がある」と大人びた人が言っているのを聞いた。でも神様は、そこに付け込むサタンを見抜いている。いつしか自己中心的に拡げられていく嘘がからみついて来ると知っておられる。そこから逃れよと言っておられるのだ。

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2019年02月24日

説教『この方の豊かさの中から』

2019年2月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヨハネによる福音書1章15〜17節
「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。


 「この方の(イエス様)満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」16節。この「恵み」って何だと思われますか?直訳は「恵みの/代わりに/恵みを/受けた」です。つまり恵みは、古いものから新しいものに一新されたということです。律法を厳守した人がご褒美のように与えられる恵みが、古い恵みです。でも誰もが、神様が「こう生きよ」と言われているのに、「はいはい」と生返事で、自分の都合に合わせて御言葉を削ったり、変えたりして、やりたい放題で生きて来た。そんな人間を、神様が怒られないはずがないではないですか。それは私どもにぶつけられねばならないはずだった。それなのに神様は、事もあろうか、ご自分の御子に全部ぶつけられたのですよね。その怒りの激しさゆえに、御子イエス様は、神の怒りに打たれて死なねばならなかったのです。それが十字架の出来事だったのではないですか。そしてそこで人は、初めて、自力ではどうやっても手にできなかった、救いの恵み受け取ったのです。
 そこから、そこからだけ、あらゆる恵みも流れ込みます。神様からの恵みを受け取ることを阻む壁が、もう取り払われたからです。十字架の恵みを信じたら、誰でも、イエス様からの具体的な恵みの受取人ともされるのです。
 誰の人生にも長い日々の中には苦しみがあり、悩みだっていっぱいある。病がある。「どうして私が、私だけが」と思う理不尽なこともあるでしょう。さらに繰り返してしまう自分の罪がある。そういう人々に、今朝御言葉は告げるのです「あなたは呻くだろう、それは分かる。しかしあなたよ、辛いという言葉が、キリスト者の最後の言葉ではない。あなたも主イエスの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けたから。あなたは、新しい恵みの受取人なのだよ。だからあなたの最後の言葉は、『苦しみはある、しかし私は、新しい恵みの中にいる』と言って良いのだ」と。
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2019年2月24日の礼拝

右向き三角1礼拝説教「この方の豊かさの中から」、ヨハネによる福音書1章15〜17節、辻川篤牧師。讃美歌12、501、332。交読詩編103編1〜13節。
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