2019年01月20日

説教 『すべてをイエスによって』

2019年1月20日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
コロサイの信徒への手紙3章12〜17節
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。


  キリスト者には倫理道徳的に高い基準の生き方が求められていると言ってもいいでしょう。確かにそのように思わせる勧めがこの箇所にも記されています。このような生き方に対して「息苦しい」とか「つまらない」というイメージを持つ人も居るかもしれません。なぜ、キリスト者が聖い生活をしなければならないのか、その根拠がここに記されていると思います。「ですから」(1節、12節)に手掛かりがありそうです。「キリストと共に復活させられ」(1節)―新しい価値観・生活観で生き始めた―、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」(12節)の「ですから」、ここに記されている「コ」は目指すべきであると同時に当然の結果でもあるのです。旧約聖書でイスラエルが選ばれたようにキリスト者が選ばれたのは特権を得るためではなく、神に仕え、神の栄光を表わすためでした。世から聖別(切り離)され、神との関係を持つようにされたのも神に献げられた者として神に用いて頂くためでした。「愛されている」のも、互いに愛し合うことにより、わたしたちを通してイエスを「皆が知るようになる」(ヨハネ13章35節)ためです。このような恵みの中に置かれているということは、自分の救いのためだけでなく、神の働きのために、神の器として用いて頂くためなのです。「世の知らざるもの、我知るなり」とされるのですから、世とは違う生き方になるのは当然ではないでしょうか。代表的なのが礼拝です。キリスト者は、16節に記されている感謝・キリストの言葉を宿す・教え・ほめたたえるのです。そして、「すべてをイエスの名よって行」(17節)うのです。この勧めに重荷を感じるかもしれません。しかし、「イエスの名」を負うとは、イエスの代理人とされ、神の所有となり、保護の許に置かれ、神を知ることですから、責任と共に実行するための恵みも注がれます。選ばれ、聖別され、愛された者として歩み続けましょう。
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2019年1月20日の礼拝

〇礼拝説教「すべてをイエスによって」、コロサイの信徒への手紙3章12〜17節、西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)。讃美歌4、262、332。交読詩編111編1〜10節。
◇午後1時から、第14回「賛美の集い」が礼拝堂で行われます。どなたでも、ご参加ください。無料です。
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