2018年12月02日

説教 『見よ、わたしの僕を』

2018年12月2日(アドヴェント第1主日)の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
イザヤ書42章1〜4節
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

 私どもの心を苛む敵は、やはり人間、それも隣人であることが多いんだと思います。それもです。人と人とが責め合う時には、いつも自分の側に正義があると思い込んでいる。だから、相手という敵を倒せば全てが良くなると思い込んでしまうことが起こるのです。そういう私どもに、1節「見よ、わたしの僕を」と語りかけます。自分の悩みや、自分で組み立てた救われ方を見るのではなく、「見よ、わたしの僕を」と言われるのです。そしてこの御言葉が、御子の降誕を待ち望む教会歴の中で読まれて来たということは、「わたしの僕」とは、御子なるイエス様のことであると読んで良いのです。

 その救い主イエスとはどういうお方なのか。2節、「彼は叫ばず、呼ばわらず」と。「敵をやっつけて下さい」という者に、御子は「そんなことに私は全く関わるつもりはない」と沈黙しておられる。

 さらにこのお方は、3節、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこと」もないお方だと言われます。人は病や苦難の中で、心だって傷つき、信仰だって倒れませんか。いとも簡単に信じることが消えかかる灯心です。でも御子は、折れそうになった弱々しい葦の枝を、風前の灯火となって消えそうな灯心の私どもを、見ていて下さると告げられているのです。それはそこで「お前の信仰は、そんなことでは駄目だ」と責めるためではない。主イエスが黙って見ておられるのは、折れそうになりながらも、まだ折れ切ってはいない私どもの小さな、小さな信仰です。神を信頼し切れないような私どもの信仰だけれど、まだ信じたくて、まだプスプスと小さな灯心が残っているような私どもの信仰を見ていて下さるのです。そして御子は、あなたの敵と思い込んでいる隣人と互いに手を取らせて、「愛し合う兄弟姉妹として、互いに重荷を負って歩いていく決心をしてくれないか」と語り掛け、「責め合うのではなく、愛し合ってくれないか。あなたの中には、まだその灯心が残っているのだから」と招いて下さるのです。
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2018年12月2日の礼拝

〇この日は降臨節(アドヴェント、待降節)第1主日です。礼拝説教「見よ、わたしの僕を」、イザヤ書42章1〜4節、辻川篤牧師。讃美歌97、301、240。交読詩編25編1〜14節。
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