2018年10月07日

説教 『主から推薦される人こそ適格者』

2018年10月7日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 10章12〜18節
わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

 パウロは、あなたを認めるのは気分屋の人間じゃなくて、主ご自身だと言います、18節「主から推薦される人こそ、適格者として(認められた者として)受け入れられるのです」と。確かに、私どもを認めて下さる方はおられます。でも私どもは、「主から推薦状をいただくのに相応しい者か」と問われたら、返答に口籠ってしまいませんか。

 主イエスが、私の推薦状を書いたらどういうことになるのかはすぐに想像がつきます。自分勝手に生きていた青年時代。洗礼を受けたのに、自分が神になって生きていたから、自分中心で平気で過ごしていた。その日々を神様は知っておられて、唾棄してしまいたい罪人が私なんです。だから「主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられる」と聞いても、自分はここにはいないなと気付いて…。でも、それでも、この御言葉に心惹かれるから、ここから離れられず、ずっと黙想を続け、ハッとしたのです。

 「主から推薦される人」とある「推薦」という言葉は、「一緒に立つ、傍に立つ」という意味を持つ言葉です。イエス様が傍に立って下さる私どもは、一体何者であるのか、それは「罪人」です。十字架の上でイエス様は、「自分の命を身代わりに捨てるほどに、大切にしたい人は、あなただよ。あなたこそが私の推薦したい人だから」と。そうやって主は、罪人を推薦して下さったのです。主は十字架の上で、私どもと一緒に立って、そうやって罪人を、ご自分の推薦する人と宣言して下さったのです。主の推薦状は、血で真っ赤に染まっていました。命がけの推薦状なのです。

 私どもには、心に刻みたいことがあります。たとえ人からの誉れがなくても、さらに自分でも自分を褒めようもないと落ち込んでも、私を推薦して下さるお方がおられるということをです。そのお方はイエス様、私どもの救い主なのです。
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2018年10月7日の礼拝

礼拝説教「主から推薦される人こそ適格者」、コリントの信徒への手紙二10章12節〜18節、辻川篤牧師、讃美歌13、303、507。交読詩編37編30〜40節。
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