2018年10月31日

『日々の聖句』2018年10月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2018年10月
(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)




●1(月)
聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。      (エフェ4・29)

 「隣人に語れ」と言われる。トラブルに関わらないように黙っていろというのじゃない。無関心で良いと言われているのじゃない。語れと言われている。それも、何を語るのかに気を付けて、そして語れと。
 私の生活は、ついこの逆になる。聞く人を引きずり降ろすことを話してる。その人をギャフンと言わせる言葉を探してた。いつからこんな人間になったんだろう。今日こそ、生まれ変わりたい。


●2(火)
イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。     (ルカ2・51)

 十二歳になったイエス様が、宮詣からナザレの村に帰って行かれた。そこで少年期を両親に仕えて暮らされたのだ。
 信仰の歩みは、宗教的に突飛なものじゃなくて身近にあると気付かされる。それは両親に仕えること。両親を心から敬い、それも無条件に敬って仕えることは、単なる親孝行の話じゃなくてイエス様ご自身の足跡だったんだ。その足跡に、私の足も乗せて歩もう。隣人を愛する最初の一歩は、正にここにあるから。


●3(水)
時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。    (マコ14・41、42)

 ゲッセマネの園で最後の祈りの後、意を決して「時が来た」と立ち上がられたイエス様。主はどこに行かれるのか?それは、ご自分が嘲られ、鞭打たれ、十字架刑で殺されることへと向かうということだ。自分の死へと向かうのに、なぜか力強い。決心の重みがズシリと伝わる。
 主よ、あなたは私の罪まで飲み込んで、身代わりに死なれるために立ち上がられたのですね。そのあなたの背中を見詰めつつ、私はどう生きるのか見詰め直さねば。

●4(木)
さあ、立て。ここから出かけよう。        (ヨハ14・31)

 あれっ! 昨日に続けて今朝も同じ場面。十字架の出来事直前の御言葉だ。主が 「今から起こることは天の父の御心なんだ。その御心の起こる場所に私は行く。さあ立て、あなたたちもその目撃者になれ。証言者となれ」と促されたのだ。
 主は私にも、「立て」と促される。それは安楽な場所へ向かう出発じゃない。たとえ自分の十字架と思える辛い場所でも、そこで御父の御心が成るから。でも2日連続でこのみ言葉なのは、私がよっぽど避けているからかな。主はお見通しかも。


●5(金)
神を愛するとは、神の掟を守ることです。      (1ヨハ5・3)

 人は、御神によって命を預けられた。御父の愛する子として生きている。そうであるなら、と今日の御言葉は続くのだ。生んで下さった方を、あなたも愛せるだろと。愛するなら、御父が言われたことを大事に聞いて守る子どもで在れるねと。
 御父を愛するって、やっぱり生活で目に見える形になるんだ。だからその姿が自分勝手になってる時、私は手に負えない放蕩息子になっている。御父を涙させる子になっている。御免なさい、そして今度こそ天のお父さんの言葉に従いたい。

●6(土)
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。            (ロマ12・12)

 キリスト者の生活の道標が掲げられる。「希望を持ってね、嘆きに生きるんじゃなくて喜ぶんだよ。苦難があるけど、忍耐するんだよ。どの瞬間も祈れ、祈らないと切り抜けられない事ばかりだからね」と。
 キリスト者になったら苦労だらけで辛いのかなと思ったけど、苦労があるのはキリスト者でなくても同じだし、と思い直す。そうしたら、道標を知っているのは凄い事だぞって辿り着いた。ということで結論、キリスト者で良かったと日々踏み出そう。


●7(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月・祝日)
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。     (エフェ4・2)

エフェソ書は「教会はキリストの体。あなたがたはその部分」ということを中心に告げる。その一人ひとりが、一つの体として一致するためにはどう歩むのか。今日の御言葉は、そこに具体的に触れる。
 高ぶるとき、柔和さが消えて怒り出したり、狭い心で人をはかってしまう。そのとき、私は体をむしばんでいる元凶になっている。体全体がその痛みに悲鳴をあげている。ああ、キリストの体に結ばれた者として、愛らしい一部分であり続けたい。


●9(火)
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。     (エフェ1・23)

 この教会に集まっている人間の集まりが、実は完全な神の御子の体そのものだと告げられる。それは、自分で自分のことを小さく貧しい者と思っても、無くてはならない一人ということ。その人がいないと体が痛むほどに大切な一人なんだ。
 自分の貴さって、教会を見たら分かるんだなぁ。教会に集められて良かったぁ。自分がこの世にいる意味が、ここで見つかるから。


●10(水)
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。       (エフェ5・10)

 「光の子として歩みなさい」と告げられたあとにこの御言葉が語られてゆく。だから「光の子として歩む」って「主に喜ばれる歩みかどうか自己吟味する者となる」ことなのだ。自己流に「積極的に生きよう」とか「明るく正しく」とか、勝手に考えることが求められているんじゃない。
 危うく信仰においても自分勝手になってしまうところだった。勝手なのが、御心から離れて闇の子となっていく入口なのに・・・。人のために死なれた主に倣おう。そのことだけに心を使う人になりたい。


●11(木)
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。       (ロマ8・35)

 キリストの、私への愛がどれほど強いかが語られる。まるで疑う者を叱咤するように、激しく畳みかけるように。
 愛されるって、愛される側は忘れやすいよね。どんなに深く愛されても、なぜ忘れちゃうんだろう。加えて「愛されていないから、こんなに苦しみがあるんだ」と勝手に疑う。愛される現実をうつろにするのは、愛されている私自身なんだ。愛されることを知らない者より、もっと愚か者だ。


●12(金)
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。     (マタ11・28)

主イエスの招きの言葉だ。
以前仕事をしていた時、たくさんの教会を回ったけど、多くの教会の玄関先にこの御言葉が掲げられていた。「主が、ご自身へと招く言葉が、きっと道行く人に届く」と信じて。
改めて思うのは、これは日々の生活を旅する私自身にも、まず届いて欲しい招きなんだと。自分の重荷を知っているから。キリスト者もそこで喘いでいるから。


●13(土)
行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。            (2コリ12・10)

 「侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、その時こそ強い」と言う。そこで神の奇跡が起こるからだろうか?大逆転が起こるから?いや違う!
 自分で成す術が全て無くなったら、聖書を読む以外になくなる。御言葉以外にすがるものが無くなる。そこで御言葉を真剣に食べたら、やっとキリストと一つになれるから。そこで神の最善を聞くから。


●14(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


●15(月)
二人の目が開け、イエスだと分かった。     (ルカ24・31)

 エマオ途上で、復活された主イエスとずっと一緒に歩いて、話をして、お言葉を聞いていた弟子たち。それなのにその方が主イエスだとは分からなかった。そんな彼らがやっと目を開かれたのは、賛美と祈りと、そして主のパン裂き(聖餐)の時だった。
 私も目が曇る。主が日々の生活を一緒に歩いて下さるのが見えなくなる。だからこそ、聖餐式を大切にしよう。主がその場所に招いて、私の目も、繰り返し開いて下さるから。「わたしはあなたと今も共にいる」と悟らせて下さるから。


●16(火)
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。     (フィリ3・21)

 主が再臨される日は、滅んでしまった肉の体が、新しい体に変えられる日。悲しみが喜びに変わる日だ。主と同じ復活の体に変えられる日だ。
これは今を支える希望。死に怯える今に届く「新しい命」の知らせだから。だから愛する君よ、洗礼を受けてくれ。あなたと一緒にこの希望を生きたいから。


●17(水)
わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。        (ヨハ14・14)

 イエス様が「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じなさい」と繰り返されてから、願えば私がかなえようと告げられた。イエス様と父なる神は一人なる神ということ、それを「信じる」ことが最初に大事。そうしたらイエス様に願うことは、御父も同時に聞いて下さっていると、安心できるから。
「願って(そして)叶う」ことだけ見ていて「信じて(そして)願う」ことが抜けていたかも。最初が抜けてたから御業が動き出さないんだ。


●18(木)
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。    (マタ5・44、45)

 山上の垂訓で、主は「隣人を愛しなさい」と言われる。どこまでが隣人?と思う私たちに、「あなたの敵だ」と言われる。どこまで愛するの?と思う私たちに「祝福と恵みを祈るまでだ」と言われた。
 執り成しの祈りをしているつもりだった。でもその祈りの中に、私を攻撃し、嫌がらせをする人の顔があるだろうか。いいえ、愛したい人の顔しかないかも。ああ今朝、もう一遍、初めから祈り直しだ。


●19(金)
(イエスは言われた)わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。   (ルカ22・27)

 「あなたがたは仕える者になりなさい。あなたがたにとっては、私が給仕役だからね」と言われた言葉が、今日のみ言葉だ。私も仕える者でありたい、偉そうに人の上に立つのは嫌いだなと、素直に思う。
 でもふと思う、私は本当にイエス様に給仕をしてもらうことを喜んでいるだろうか。横に立たせるだけで、構わせないで、自分だけで勝手な生活をしてるかも。給仕の手は、み言葉で差し出される。その手をうっとうしがっていないだろうか。


●20(土)
神にできないことは何一つない。       (ルカ1・37)

 マリアが天使ガブリエルの受胎告知を聞いて戸惑い「常識では身籠ることなんてないのに」と訝った言葉に「神はおできになるんだよ。それが神なんだ」と告げられた。
 私たちも、「私のこの現実の苦難に、いくら神様でも関われない」とか「神様の恵みは、心の平安とか宗教的なことで、現実生活は常識的に考えないと」と思っている。そういう思いに今朝、御言葉が宣告したのだ「神の支配は、お前の小さな常識の世界さえ覆っている。お前は神の全能を現実生活の中で知るのだぞ」と。


●21(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。    (ロマ八・九)

 肉の思いに従って自己中心に歩いて来た者に、大転換が起こった。受洗者は聖霊に満たされ、かつ導かれて歩む者となったんだ。そうパウロは告げた。
 私もそのはずだったのに・・・尚人生に迷いが起こるのはなぜ?きっと肉の思いを自分で育て始めているから。霊の支配下なのに見当外れな事をするから自己分裂するんだ。まず肉の思いの芽を摘み取れ。


●23(火)
四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望しない。        (2コリ4・8)

 私たちは土の器。しかしそこにキリストの栄光という宝を入れて戴いている。パウロはそう宣言した後、だから四方から苦しめられても行き詰らないんだと告げた。
 今までちょっと勘違いしていたかも。神様が私を強めて下さるから行き詰らないのだと思っていた。でも私は粗末な土の器のまま。ただ、内に入れて戴いたキリストのお陰で失望しないんだ。だから一瞬も、内なるキリストから目を離すまい。その瞬間に行き詰まりが入り込んで来るから。


●24(水)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。     (2テモ1・7)

 神様は、力も思慮分別も私たちにくださった。大いに力づけられる言葉を、パウロはテモテに語った。
 私たちも御言葉を聞いて、勇気が湧いて来る。立ち上がろうって思えて来る。
でも・・・ちょっと待てよ。その力も分別も自分の願いを実現させるために与えられるんじゃないらしい。それは福音を伝える苦労を引き受けるためのもの。改めて決意しよう、立ち上がって伝えよう、と。


●25(木)
誇る者は主を誇れ    (1コリ1・31)

 キリスト者は、自分が神の子となるために、結局何にもできなかったんだと知っている。善い行いをしたいと思っていた、でもしていることは利己的で、自分中心で、御言葉の命令からかけ離れたお粗末さ。
 でもキリスト者は、一つのことを知っている。そんな私なのに、キリストが十字架で死なれたおかげで、百%あなたによって私が神の子とされたという不思議を。罪人が神の子とされた奇跡の恩寵を。
 だから改めて誇ろう、ただキリストを。私を救って下さった救い主を。ハレルヤ


●26(金)
心は燃えても、肉体は弱い。         (マタ26・41)

 十字架の直前にゲッセマネの園で祈られる主。でもその横で弟子は眠ってしまっていた。その情けない弟子たちを見た主は、そこで叱るのでもなく、「肉体は弱い」と人間の弱さに寄り添われたのだ。
 主の憐れみの深さが、この御言葉から滲みだす。しかし寄り添われただけではなかったことも、すぐに知る。同時に「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われていたからだ。今日の御言葉は、弱さを抱えた私たちが立つべきところも示されているんだ、「祈るんだよ」と。


●27(土)
わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。    (ヨハ6・35)

 イエス様が、ご自分を「天から降って来た生きたパンだ」と言われる。「私を食べろ」と言われる。イエスを食べろと聞いた群衆は驚いただろう。さらに、食事を貰うこと、健康が守られることを求めて集まった群衆だから、願いが満たされないことに失望しただろう。
 しかし十字架を通して聞いたら、さらに戴く聖餐のパンを通して見たら分かる「真に私の命のパンはあなたです。私にも日々ください。真実に生きるために」と。


●28(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。      (1コリ15・53)

 私は必ず死ぬ。しかし主イエスが再臨される終わりの日が来たら、天よりの合図のラッパが鳴るんだ。そして私も甦らされて、新しい体で永遠に生きるんだ。パウロは兄弟姉妹に、それを伝えたいんだと語った。
 今朝私も思う。私もそれが聞きたかった知らせなんだと。さらにそれが、私の愛する人たちに聞かせてあげたかった知らせなんだと。「復活の希望があるよ」とね。


●30(火)
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。  (ルカ12・15)

 お金をむさぼることを戒めるイエス様。
 でもふと思った。「私は、守銭奴ではないから、貪欲ではないよね。この御言葉については、私はセーフだ」と。
 しかしこれと一緒に、「神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われていたことにドキリとした。お金は「神様のために豊かに使う預かり物」なのに、「自分のために使う物」と考えていたから。そこが人間の貪欲の始まりなのに。お金も「御心のままに使うことが出来ますように」という祈り無しでは、手にできない。


●31(水)
神は、・・・あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。      (2コリ9・8)

 神の恵みが与えられるのは、神の願いと御計画のためにだ。それは私が、恵みの賜物を預かって、あらゆる善い業を周りに溢れさせるためにだ。大きな、また小さな善き業をするためだ。決して自分の目的達成のためじゃない。
 ああ、私は盗人だったかも。預けられた恵みを、自分の目的のために勝手に使ってしまう「恵みドロボー」だったかも。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:35| 『日々の聖句』

2018年10月28日

説教 『あなたによって祝福に入る』

2018年10月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
創世記12章1〜4節
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。


 アブラムは神様から「あなたが祝福の源になる。地上のすべての人があなたによって祝福に入る」と聞いた時、「自分は相応しくない」と思わなかったのでしょうか。彼はこの後、神様を信じることにも不甲斐ない姿をさらすのにです。

 確かに神様と関わらなくても、人の模範になるような博愛に生きておられる方はたくさんおられます。でもなんです。神を知らないけど立派な博愛の方と、失敗ばかりのアブラムと決定的に違うことがある。それは、アブラムは全てのことを、将来までも一切神様に委ねたということです。その1点なんです。自分の持っている才能とか技術とか経験とかを、自分がコントロールして、ここに用いようとか、この人に役立てようかと考えて動くのは、この世の生き方です。でも神様と出会ったら、全ての配分を決めるのも、行き先を決めるのも、神に譲るということ、神に明け渡すしかありません。そしてそのように、神様に自分の全てを渡してしまった人、それがアブラムであったのです。その神の御手の中でアブラムは自分らしく歩んだのです。それは、失敗することにおいてもです。自分らしく歩いて、だから自分の弱さも出て失敗してしまう。でも、それらも全て神様に委ねて歩いたのです。失敗のどん底で、彼は神様に顔を上げ続けたのです。

 そして神様は、そうやって神に委ねるしかない者に、「そういう君によって、すべての隣人は祝福に入れられるのだよ」と、ご自分の祝福を届けさせることを託されたのです。罪人丸出しのあなたなのに、そのあなたと神様が一緒に歩んで下さるゆえに、行く先が満されていく。そんなあなたの信仰生活を隣人が見たらです。そこでのみ隣人に伝わることがある、「神は生きておられる、罪人と共にいて下さる」ということです。そこで隣人にも神の祝福が届くのです。隣人にも、神を生きたお方として見上げることが始まるからです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:02| 主日説教要約

2018年10月28日の礼拝

礼拝説教「あなたによって祝福に入る」、創世記12章1節〜4節。辻川篤牧師、讃美歌16、86、285。交読詩編148編1〜6節。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ