2018年09月30日

『日々の聖句』2018年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日


(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)


2018年9月

●1(土)
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。    (エフェ4・31)

 自分の心の中にある悪意から、人を傷つける一切のものが溢れ出る。一番愛している家族さえ傷つけ瀕死にさせてしまう。私の心に住み着いた無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりによって。
 人と和解していたと思っても、自分が変わらなきゃ何も始まらない。私の悪意を切り取って、捨てなきゃ何も始まらないんだ。そう思っても、まだ人のせいにする自分がいる。情けない人間の頭が私・・・。


●2(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった。       (マコ1・22)

 主イエスが会堂で語る話しを聞いて、皆が驚いた。それは、他の教えと比べたり、選択可能だったりする人間の教え程度のものではなかったから。神の権威によって、圧倒的に迫る慰めであり、指針であり、励ましであり、掟だったから。
 私も勘違いする時がある。御言葉を「なかなかいい教え」という程度に聞いたり「そのうち従う」とか「これは無理」と自分で選択している時だ。襟を正して「然り」とのみ応答すべき神の言葉なのに。


●4(火)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。    (ヨハ1・14)

 最初に聖書を日本語訳したギュツラフは、この「言」を、何と訳して良いのか苦心した。そして「カシコイモノ」と訳したのだ。「やんごとなき畏きお方、そう日本人に言えば、きっと伝わる」と思って。
 天の父が「あなたを愛する」と言われた言葉が、そのまま畏き方として、人間と同じ肉体となって下さった。それも私たちの間に降って、宿りを得て下さった。
 何度も唱えるように口の中で噛みしめ味わいたい御言葉だ。噛み砕きにくい言葉だけれど、深みが増してくるから。


●5(水)
まず自分の目から丸太を取り除け。         (ルカ6・42)

 「人の罪を裁くな」とイエス様が言われる。それも隣人の罪は目の中のおが屑程度なのに、あなたは目の中に丸太を入れているようなものだぞ、と言われる。そして続けて言われたのがこの御言葉だ。あきれて「お前の大きな罪こそ問題なのに、なぜ自分のことには気付けないんだ。目の前にあるのになぜ見えないんだ」と。
 他人の小さな過ちを見つけては腹を立てて裁いていた。でもそんな私に向かって、主はハッキリ、「偽善者よ」と言われたのだ。今日を、悔い改めの日とせねば。


●6(木)
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。       (コロ3・16)

 いつも感謝する事、互いに教え諭す事、心から神を賛美する事・・・、これらの中心に今日の言葉が据えられている。
 そうか! 感謝も賛美も、心に宿した御言葉への応答として起こるんだ。自分の自然な肉の思いからじゃないんだ。キリストの言葉への応答だから、御言葉が心の内に無いと、感謝も賛美も自己満足になるのかも。熱してもすぐ冷める程度のものになるのかも。互いに諭す言葉だって、キリストの言葉以外は裁きになるしね。


●7(金)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。      (1コリ10・24)

 神の栄光を現わす生き方となるために、人との間でどう生きたら良いのか。その中心が語られている。それは、相手をどう変えてあげたら良いかと考えることじゃなかった。相手を導くことじゃなかった。自分の生きる軸足を、「相手のために」と据えることだった。
 何をするにしても自分に軸足を置いていたかも。だから人とすれ違って、傷つけて、失っていたのかも。イエス様のように「あなたのために」と軸足を据え直したい。


●8(土)
(マリア)「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。  (ルカ1・38)

 天使から御子イエスの受胎を知らされた時、戸惑うマリア。でも神の使いの言葉を受け止めるうちに、自分の常識から神の御心へと向かい出す。そして「神にできないことは何一つない」と聞いた途端、マリアの口から今日の告白が出たのだ。
 マリアの心が、自分のこだわりから神の御心へと転回する時間を、神の側は忍耐して待っていてくださった。私の日々も、いつも神様の側が待っていて下さる。私も今日こそ、マリアのこの告白を言おう。

●9(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。  (マコ1・35)

 イエス様は大事な事をなさろうとする前に、赴く場所があられた。それが御父と二人になれる場・密室の祈りの場だ。
 私は何かに取り組もうとする時、いつもバタバタと自分の思いの中を走り回るだけ。そして自分が立てた計画の後で、やっと「御心のままに」なんて祈っている。これじゃ順序がさかさまだよね。
まず御父の前で自分の思いに沈黙しなきゃ。本当に御心を聞くために。


11(火)
信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。   (ロマ10・17)

 信仰は、聖書の御言葉を聞くこと以外では始まらない。それは信じるということが、神様からの語り掛けへの応答だから。神の側からの働きかけが出発点だから。
 そうか! 自分で「神様のことを信じよう」と思うことが信仰の始まりと考えるたびに、信じることが見当はずれになっていたんだ。信仰さえも、身勝手になってしまっていたんだ。自分の思いが出発点だったから。「まず静かに、あなたの言葉を聞かせて下さい」と祈ることから始めたい。

●12(水)
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。      (ルカ7・13)

 一人息子が死んで棺が担ぎ出されるところに出くわしたイエス様。そのやもめの母の涙をご覧になった途端、ご自身の心も激しく痛まれ、近づき、息子を生き返らせなさった。
 イエス様が悲しみに近づかれる時、その悲しみと一緒に悲しみ始められる。泣く者と共に泣かれる。それが神の御心なのだ。「主の臨在」というのは、そういうお方が私の傍にもおられるということ。なんだか圧倒的な安心に包まれた感じがした。


●13(木)
なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。         (マコ14・6)

 ナルドの香油をイエス様に注ぎ切った女。きっと彼女の全財産だったはずの高価な品。それを見た人々が「もったいない、愚かな使い方だ」と非難した。そのとき盾となられたイエス様の言葉がこれだ。
 豊かな香りの部屋で、主は女の心も受け取って下さった。そして、イエス様だけを見詰め、主のためだけに全てを注ぎ切る女の思いを「良いこと」と宣言して下さったのだ。主を想う心と、主が想って下さるお心が重なる。私もこう在りたいな。


●14(金)
神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。    (1コリ14・33)

 教会の中で、一人ひとりの振る舞いを整えようとするパウロ。信仰においても、人は自分の主張だけする愚かさを重ねてしまう。それが悲しい無秩序を生むのに。それに向けて「否」とおっしゃるのは、神ご自身なのだ。
 正しい信仰も、平和も、声高に主張する人の中には生まれないのかも。真摯に聞く者になる者たちの中に、それも神の言葉を聴くことに生きる者の群れに生まれる。私もその一人になりたい。


●15(土)
自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。    (ルカ14・33)

 イエス様は、何事も万全の準備をすることが大事だねという話をされて、結論でこれを語られた。つまり、主の弟子となるには、自分の持ち物、自分のこだわり、自分を優先したいという思いなど、一切捨てることが準備だということ。それは捨てないと必ず失敗するぞ、ということだ。
 持ち物よりも己を捨てることこそ難しい。その準備不足だから、主に従い切れないのかも。断捨離は自分自身にこそ!


●16(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●17(月・祝日)
主の栄光が周りを照らした。          (ルカ2・9)

 降誕の知らせを告げるため、主の天使が羊飼いたちに近付いた。そのとき神の栄光が照り輝き、彼らを包んだのだ。 「救い主が降誕される、あなたのために来られたのだよ」、この知らせこそが神の光そのものだ。そしてこの知らせを携え伝える者が、神の栄光さえも携えるのだ。
私もその知らせを聞いた日に、神の栄光に照らされていた。それを今度は友人に伝える人となる。そこで私もこの光を携える者にされていた。隣人をこの栄光に包むため。2千年続く福音リレーだ。


●18(火)
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。  (ルカ6・36)

 「敵を愛しなさい。何も当てにしないで貸しなさい」というイエス様の話の結論にこれがある。あなたも天の父の子どもなんだからできるよね、と告げられるのだ。
 イエス様の言葉は、単なる命令じゃない。キリスト者はこうあるべしという戒律とか、道徳でさえない。主は私を見詰めて言われるんだ「できるよ、あなたならできるよ。だって、天の父の子どもだから、愛されている子どもとして生きてご覧」と。一歩踏み出す勇気が湧いて来る。


●19(水)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 (コロ1・13)

 御子イエスによる贖いの御業を分かりやすい言葉で伝えてくれる。「あなたは闇の力に支配され、闇の行いに生きて来た。でも御父が救出して、祝福と光の陣営に移して下さったのだ」と。「もう自己中心という闇の支配の外なんだよ」と。
 天の父が脱出劇を成功して下さったんだ。だから、私は助けられた者として、光の陣営の中にいる者らしく、天を見上げて歩いて行こう。闇の陰を引きずるな!


●20(木)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。        (マコ4・39)

 舟の上で、大嵐に悩む弟子たち。こんな困難はどうにもならない、と恐れる者たちの前で、主は嵐に一喝された「黙れ。沈まれ」と。
 愛弟子たちのために、何でもして下さるイエス様。自然をさえ従え、全てを支配されるイエス様。それを知って嬉しくなる。でも・・・。同時にこのすぐ後に言われた言葉が心に突き刺さった「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。私の不信の嵐にこそ「黙れ、静まれ」と言われた気がした。

●21(金)
わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。   (エフェ4・7)

 「教会」は「キリストの体」として「一つ」だから、一つになるように生きよと言われた直後に「しかし、わたしたち一人一人に」と続くのだ。一つであるということは、皆が同じであるということじゃなく、バラバラの個性だけれど結び合わされるということ。そのバラバラの個性を、神からの賜物として生かせということなんだ。
 個性が賜物となる。それはただ主が用いて下さる時にだけ。その受け身の用いられ方で、私も教会も、豊かになれるんだ。


●22(土)
わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。   (1コリ4・3)

 コリントの教会の人たちから「使徒としてふさわしくない」と批判されたパウロが「人間に裁かれようとも問題ない」と断言して、「自分でさえも自分で裁かない」と続けた。「毅然と立つ彼。人の口にあることで動じないんだ」と思ったけど、その先がまだあった「裁くのは主である」と。
 一番の義なる裁判官の前に自分を立たせたパウロ。正も偽りも見通す神が裁判官。毅然とした姿だと感じたのは、その神の前に立ったからなんだ。人の口が気にならない場所は、そこ以外に無いんだ。


●23(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●24(月・祝日)
(マリア)「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」         (ルカ1・47)

 幼子イエスを宿したマリアに、従姉のエリザベトが「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸い」と告げた言葉に応答して“マリアの賛歌”が始まる。これはその冒頭の言葉だ。
 常識と懸け離れた受胎の出来事の中で、戸惑いを通って、しかしそれを「主の御業だね」と数え合う姉妹たちの何と豊かな姿だろう。一緒に現実の中で神を仰いでいる。一緒に賛美して、祈っている。

●25(火)
(イエス)「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」        (マコ1・15)

 マルコ福音書の冒頭に、この主の第一声が置かれている。そしてこの御言葉が、福音書全体を貫いて、通奏低音のように響いているのだ「さあ早く、今こそ、悔い改めるんだ。神に向きなおれ、立ち帰っておいで。福音を信じるんだよ」と。
 私の人生の初めから、イエス様は語りかけていて下さっている。人生の通奏低音のようにずっと響いている御言葉が、これなんだ。激しくも、温かくも、切なくも響いている。私を捉えて離さない御言葉だ。


●26(水)
動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。           (1コリ15・58)

 パウロが「あなたは罪と死の支配下にいない。キリストによってもう勝利を手にしたんだ」と宣言して「こういうわけだから・・・」と語り出したのが今朝の御言葉だ。「安心して、ただ主のため、キリストのためにと歩いたら、万事が益となる」と告げた。そしてその最後には「そのどの苦労も無駄にならないからね」と加えた。
 人生が無駄にならないと、今日聞けて安心した。それって私も還暦になったからかな。人生の後半も、「ただ主のため」だ。


●27(木)
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと決めていた            (1コリ2・2)

 当時の一流私塾の首席だったパウロ。誰よりも知恵に満ちていた彼なのに。最も愚かに見える犯罪人の印・十字架刑で死んだイエスが救い主なんだと語り続けた。それ以外語るまいと決心さえして。
 「イエス様が救い主だ」と説得する言葉を探してきた私。でも説得や学びで信仰は生まれない。人が救い主を信じるのは、神の力のみ。それが最も顕れたのが十字架の死なんだ。私が伝える十字架の言葉に神が働かれると信じて愚直に語ろう。


●28(金)
ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。           (ルカ7・7)

百人の兵士の部隊長が、部下の病の癒しをイエス様に願い出た。しかも遠くから「お目通りする事さえ相応しくない私ですが、“治れ”と命じて下さい。あなたの命令に何もかもが服従しますから。権威を持つあなたの一言を」と申し出たのだ。
私には、これほどの信頼があるのだろうか。主の一言がどれほど力があるのか信じているだろうか。御言葉によってたくさん“一言”を戴いてきたのに聞き流した。御業が見えないのは、聞き流すからかも。


●29(土)
御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。       (2テモ4・2)

 「信仰によるまことの子」と、パウロが信頼したテモテ。その彼に「折が悪い時がある。でもそのど真ん中で御言葉を語れ」と告げた。「誰も聞こうとしない時にも、なお語れ、それがあなたの務めだよ」とも。
 私は神様から恵みを貰うことばかり考えて、アレもコレも欲しいと言うだけかも。神様に「私の子よ」と言ってもらえているほどなのに、しなくてはならない務めは棚上げ。ふと、私って調子いいキリスト者だなと思えた。ひどく申し訳なく思えた。


●30(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



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2018年9月30日の礼拝

礼拝説教「初めに言があった」、ヨハネによる福音書1章1節〜5節、秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)、讃美歌23、276、326。交読詩編111編。
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