2018年09月09日

説教 『秘密を悟る』

2018年9月9日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書13章10〜17節
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、
 決して認めない。
 この民の心は鈍り、
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、悔い改めない。
 わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」


 イエス様が話しておられたアラム言葉で「たとえ話」とは「覆って分からなくする話」です。そこで弟子たちが不思議に思ったのは、話を聞こうと折角集まった群衆に、なぜ分からないような謎の話で話したのかということです。そう戸惑っていたら、他の箇所でもイエス様が「広めるな」と戒められていた場面があるではないですか。でも人々はイエス様の戒めなど聞きやしないで、「この方こそ奇跡の人だ」と触れ回ったのです。そのニュースを聞いて、ある者は自分に奇跡が欲しくって集まって来る。ある者はローマ解放の革命家が現れたと大騒ぎ。でもどれもこれも、自分たちの願望をイエスならやってくれると集まった人たちなのです。そこに至って、とうとう、たとえを用いて話をされることが始まったのです。

 なぜ直接語らず、また沈黙もされないのか? ふと1つ言えることがあるかもと思ったのです。それは、自分勝手にしか聞けない人々を前にして、イエス様の御心には、怒りが生まれたのではなかったということです。怒りは決別を生むけれど、主は違ったからです。「あなたの為に話したのに、あなたの為にして上げたのに、どうして何も分かろうとしてくれないんだ」と、悲しまれたのではないですか。その悲しみを抱えて、なお何とかしてあげたくて人々の元を去れられない。誤解されないように謎に包んで話すからと、そうやってやっぱり熱心に話し続けられたのです。それは「いつかあなたも天の国の秘密を受け取れる日が来る、だから今は包みに覆って渡しておく、それでも良いから受け取ってくれ」と、なお未来に期待して下さったということです。

 私はなかなか実りをつけない悪い木だけれど、イエス様は手を加え続けて下さる農夫なのです。主の方が私どもを信じて、悪い木に掛かりっきりになって下さるのです。そういう涙の農夫なのです。そうやって「天の国の秘密を、あなたも悟るように」とたくさんたとえ話を語って下さったのです。
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2018年9月9日の礼拝

礼拝説教「秘密を悟る」、マタイによる福音書 13章10〜17節、辻川篤牧師。  讃美歌8、260b、239。交読詩編112編1〜10節
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