2018年08月31日

『日々の聖句』2018年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)


2018年8月

●1(水)
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。      (ロマ12・1)

 生活の全ての時間で、全身全霊を神の御前に献げてしまうことーそれが真の「礼拝だ」と告げられる。礼拝は、礼拝堂に座っている姿ではないのだ。礼拝は生きる姿に現れる。そしてさらにその生活において、「この世に倣うな」とも加えられる。
 もしも、主日には礼拝堂に行くけれど、その他の日常は御心と違う生活をしたなら。そういう二重生活は、礼拝者にあらずと言われているのだ。日々の生活の中でこそ、礼拝する姿に生きなきゃ!


●2(木)
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。             (コロ3・13)

 相手が悪いと思っても、それが事実でも、「赦せ」と迫る。それは中途半端にじゃなくて、「主があなたがたを赦してくださったように」と続いて告げられていた。
 御言葉を前に、自分がどういう人間かに気付く。「私は、なんと赦せない心を持っている人間か!人を責めるしかしない人間なのか!忍耐できない人間なのか」と。主に赦されたことにあぐらをかいて生きている。この「互いに」とは、こちらこそ隣人を悩ませる存在なのだと気付かせる。


●3(金)
芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。     (マコ4・8)

 イエス様が「忍耐強く種を蒔き続ける父なる神」の譬え話をして下さった。その「種」とは「御言葉」のこと。御言葉を受け入れてゆく人が、どんなに豊かな人生となるかを伝えて下さったのだ。
 それにしても百倍って、すごいな。私にそんなに伸びしろが残っていたというのも驚く。あ!伸びしろがあるのに無駄にしていたのは、私自身なのかも。今日こそ御言葉の種を育ててみよう。聴従によって。


●4(土)
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。   (マタ5・4)

 山上の垂訓でイエス様が話された言葉だ。主の目には、全ての人の中にある悲しみが見えている。その悲しみを見たら駆け寄らないではいられない御父の心も知っておられる。だからただ「神よ」と手を伸ばせば慰められるんだよと言われたのだ。
 そうか、自分の中にある悲しみを正面から受け止め、それを不平に変えないで神の前に持って行けたら、慰めを豊かに得られる人になる。心を神に向ければ、悲しみさえ、天の蔵を開く鍵になる。


●5(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月)
イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。            (ルカ6・12)

 十二人の弟子をお選びになるという大切な御業をなさる前夜のこと。イエス様は時間のすべてを、御父との対話のために使われた。祈って夜を明かされたのだ。
 重大な決断をすべき時に、私ならどうしているだろう。経験者を訪ねて助言を請うか、人を集めて談議するか、アタフタ焦っているだけかも。何よりまず御父のもとに駆け寄って、全てを告げるべきなのに。スタート点が違ってたかも。なんともトンチンカンな生き方をしているなぁ。


●7(火)
なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。      (1コリ6・7)

 信仰者同士で争い訴え合うことを、パウロは悲しむ。そこで、愛することも赦すことも知らないこの世の裁判官に委ねることを、嘆き怒る。そして、不義だと思うことをされても、身に引き受けよと諭す。そこで赦せ、名誉や宝を奪われても争うな、裁くな、むしろ与えろと叫ぶ。
 ふと、十字架に掛けられた主の苦しむ姿がここにある気がした。私もこれを辿って歩めば、平和を生み出せるのですね。


●8(水)
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。              (ヨハ12・36)

 この「光」とは、神の御子イエス様ご自身のこと。だから「光の子となる」とは、私も神の子となれるということ。そのために「光を信じる」とは、何となく信じた気持ではなく、主の言葉の通りに日常生活を歩むこと。本気で、具体的にだ!
 「信じる」って、信じた気になっていることがあるよね。「信じた気になる」ことと、「信じて生きる」こととは、雲泥の差がある。まるで光と闇とが正反対のように。聴従こそ、光の子の歩み方だ。


●9(木)
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。   (ヨハ20・27)

 甦らされたイエス様が、復活を信じられずにいたトマスに言われた言葉。「あなたの手を伸ばし、私の脇に入れなさい」と十字架の御傷を見せながらだった。トマスが疑う心いっぱいで口走った「手を入れなきゃ信じられるものか」と叫んだ言葉を、まるで包み込むようにして「手を入れたらいいから、だからどうか信じない者になるな、私を信じるのだよ」と言われたのだ。
 その招きに、私も毎朝耳を傾けよう。私も毎日、弱さの塊になるから。主の招きが毎日必要だから。


●10(金)
わたしはこの福音を人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。        (ガラ1・12)

 パウロは自分のことを、単なる伝令者だと告げる。キリストが「さあ伝えよ」とトップダウンで知らせて下さったことを、そのまま喜びの知らせと受け取って、「あなたにもそれを知って欲しい」と語ったのだ。
 私たちキリスト者も、主が知らせて下さった福音を、「私」という「管」を通らせて運ぶのだ。大切な隣人に。ああ私も、通りの良いホースとして生きたい。


●11(土・祝日)
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。     (エフェ3・19)

み言葉は、主の愛の広さ長さ、高さ深さを知って、あなたも愛されているって気付けと招く。あなたは特別な愛で満たされる存在なんだよと告げる。
自分の命よりあなたの方が大事だと、命を捨てた方が一人いた。それがイエス様。それを知ったら、独りであくせくしてたけど、心のこわばりが解けた気がした。


●12(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●13(月)
主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。       (ロマ5・1)

 もはや神様から罪を数え上げられて責められるのでもなく、裁かれるのでもない。これから先は平和な関係だけだよと宣言されるのだと言う。
自分で償い終えたからでも、精進したからでもないのに。それをパウロはこの直前で「ただ信仰によって」と告げていた。
 「信じる」って精神論じゃなかった。イエス様の死が私のせいで、私のためだと受け入れたら、とんでもない実りが届くんだ。神との間の平和という最高の実りが。


●14(火)
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。   (1コリ2・5)

 エリートの筆頭だったパウロがキリストを宣べ伝えるのに、神はこんなに偉大で力ある方だと雄弁に弁論したのではないと言う。理路整然と論証したのではない。
むしろその逆に、十字架で死なれた方の出来事を伝えただけ。その方の死を伝えただけ。あなたのための死だったと伝えただけ。それが、あなたが愛された証の出来事だったと伝えただけだった。そこに、神の御力が働くからだったのですね。


●15(水)
言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。                 (マタ10・19、20)

 弟子たちを派遣する前に、主が「狼の群れに羊を送り込む」と困難を予告される。その時この言葉を添えられたのだ。
 家族の中で、地域や会社で伝道する時に、人の目が気になる。なんと言って語ればいいのか分からないから。でもその時、私も神の霊を内に宿した神の器となっていることを思い出そう。だから祈ったら安心して、小さな声でもいいから語り出そう。


●16(木)
人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。        (ルカ6・37)

これはルカの「平地の説教」(マタイは山上の説教)だ。イエス様の教えの核心だ。でもそう知りつつ見事に聞き流す私。それどころか「これはあの人に言われているのだ」と、人を裁きながら聞いてしまう。そうやって主の言葉を足蹴にしてしまう。そんな姿が罪人そのもの。いやそれさえ、あの人のせいでこうなったと言ってしまう。
聖霊よ、とことん罪人の私に、真の悔いる心を与えて下さい。憐れんで下さい。


●17(金)
子よ、あなたの罪は赦される。         (マコ2・5)

 今はもう自分で立つことも出来ないほど重体となっていた中風の男。その友人たちが、イエス様のおられた家の屋根から床に乗せて吊り下ろした時、主が男に言われたのがこの罪の赦しの宣言だった。
そこでアレッと思った「なぜ癒されるではなく、赦されるだったのか」と。
 重病の時、誰もがご利益宗教になってしまう。神を治療のための僕にしてしまう。そのねじれた関係を、まっすぐにされたのが主だったのだ、「赦されて、神の子として生きることが第一の幸だから」と。


●18(土)
主がお入り用なのです。            (マコ11・3)

 この御言葉って、「主が私を奉仕に用いようとしておられる」という程度に聞いてしまう。でもこれは、他人のロバを「代価なしに貸せと申し出よ」と、主が弟子に命じた場面なのだ。そして、弟子が断られて当然と思う場面で、主が語れと命じられた通りに「主がお入り用なのです」と語った時、主の御心が前進したのだ。
人は自分の常識に縛られる。でも主の促しの通りにしたら、そこに主の御計画が進むのだ。御業をストップさせる私の常識を後ろにして、今日を歩んでみよう。


●19(日・第3主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●20(月)
惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。    (2コリ9・6)

 これは、献げものの話だ。「お金」というあまりにもこの世的で、生々しい現実の話題だ。しかし御言葉は、そこに単刀直入に分け入る。「喜んで惜しまずに与える人を、神は喜ばれるのだ」と。
 信仰は心の宗教だ、と思いがちになる。しかし信仰は、現実の生々しい場所にこそ関わる。信仰者が、その現実の中で生きるからだ。仙人じゃないだもん。
全てにおいて惜しまず人に与える者でありたい。私もクリスチャンだから。


●21(火)
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。             (1コリ1・9)

 コリントの人々への手紙の冒頭で、感謝したいとパウロが伝える。そこで「本当に嬉しい」と叫んだのは、「神があなたがたを捉えた。神があなたをご自分の家族として招き入れて下さった」ということだった。
 「神が○○して下さった」との喜びは、自分のことじゃなくて隣人の救い。隣人の受洗にこそ、神の御業を見るから。私の“あの人”も早くその場に立って欲しいな。

●22(水)
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。     (ルカ3・4)

洗礼者ヨハネが「自分勝手に歩む人生の道を、整え直せ。それは自己中心に曲がった道だから。あなたが唯一たどるべき道は、主の御言葉に従うという道だ。それはまっすぐ神に通じる道だから」と語る。そして、それが「悔い改めだ」と。
「悔い改め」って、心の中だけで「ああ悪かった」と悔いる思いじゃなかったんだ。聖書の告げる悔い改めは、現実の生きる道を変えるという行為。次の一歩をどう生きるかという行為なのだ。生き方の表面に現れて、見えるものなのだ。


●23(木)
(愛は)自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。        (1コリ13・5)

 「愛」とは何かが具体的に語られていく。愛は、生き方の表に噴出して、形となるのだ。実りを持つのだ。
 「愛しているかどうか」は、形に出ると聞いてハッとする。親子でも夫婦でも、その実りが見えない時があるから。かえって相手を苦しめていることもある。それでも自分は愛を持っていると思っている時もある。でも今朝それは勘違いだと言われた。御言葉は私の姿を映し出す鏡だ!「愛する」人となるのは、努力がいるみたい。


●24(金)
励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。   (2コリ13・11)

コリントの人々にたくさん語ってきたパウロ。その言葉の束を、これをもって結ぶ。「励まし合うんだよ」と。
励まし合うって、単に「頑張ってね」と応援することじゃない。それでは二人の間にまだ距離があるから。“励ます”人になるのは、相手の思いをひたすら聴くこと。その二人の間では、不思議にも、自分も“励まされる”必要があることに気付ける。そこでは思いが一つになれていて “励まし合えて”いる。そこに主も共におられるのだと、パウロは加えて言っていた。


●25(土)
愛は隣人に悪を行いません。        (ロマ13・10)

 パウロが、全律法は「隣人を自分のように愛しなさい」に要約されると告げた。それに続けてこの言葉を語ったのだ。
 アッと思った。自分に無かったものに気付いたから。それは「愛」だったから。愛が無いから一番近い隣人にも、友人にも、家族にも、ああ家族にまで、悪を行ってしまう。悪口、そしり、争い、不和・・・。その行いの発信源が、愛の無さだったんだ。
愛がなければ、人を苦しめる人間になる。そんなのいやだ。主よ、こんな私を憐れんで、愛することを学ばせてください。


●26(日・第4主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●27(月)
その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。    (マタ1・23)

 天使が、降誕を夫ヨセフに伝える。その時にイエス様が“誰であるのか”を宣言した。「この方は、神があなたがたと共にいて下さることを実現された方である」と。
 いつも願っていたのは「神様、どうか私と今一緒に居て下さい。どうか守って、どうか支えて」ということ。今日から改めてその祈りの時に叫ぼう、この慕わしいお方のお名前を、「イエス様!」と。そうしたら祈りの聞き手が、急に近くに迫るから。


●28(火)
神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。       (ルカ8・39)

 墓場が住みかだった「悪霊に取りつかれた男」。しかしイエス様に出会って、汚れた霊は追い出された。感謝した男が「お供したい」としきりに願った時に、主はこの言葉を言われたのだ「あなたは、あなたの家に帰れ。そこで御業を語れ」と。
 それぞれの人に遣わされる場所がある。それは家族の中。信仰生活って、教会で実らせるんだと思っていたけど、家庭でこそ実らせるのですね。主は、そこで口を開けと願っておられる。勇気が欲しい。


●29(水)
もし、からし種一粒ほどの信仰があれば…。  (マタ17・20)

 弟子たちが「どうして私たちには悪霊を追い出せなかったのですか、あなたのようになぜ出来なかったのですか」とイエス様に問うたとき、主が答えられた一言だ。「鍵は信仰だよ」と。
 「信仰がないからだ」と言わたようで、ドキッとする。でも本気で信じたら、私も隣人に恵みを届ける人になれるのかと気付いたら、嬉しいドキリとなった。
 でもなぁ・・・、自分で「本気」と思っている信仰は、イエス様の「一粒でいいから」と言われた信仰に達しているんだろうか。


●30(木)
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。  (1ヨハ4・16)

 畳みかけるように「神様イコール愛なのだ」と告げて来る。
 アッ、神=愛なら、神様に共にいて欲しいと願う時、私が愛する人になればいいんだと思った。神と共に生きたいと願ってもどうしたら良いのと悩むことは、もうない。私が隣人を愛する業に生きたら、神がそこに生きて働いているのだから。神を遠ざけるのも、共に生きるのも、私の側の問題が大きいんだなぁ。

●31(金)
ですから、だれも人間を誇ってはなりません。  (1コリ3・21)

 「ですから、」って、何だからと言っているのかな?と聖書を遡ってみたら、「世の知恵に頼って生きることはまったく愚かなこと。ですから」ということだった。
 考えてみたらこの世の知恵って、自分で自分をのし上げようとすることに用いる。そこが、罪を塗り重ねる場なのに。そういう人間になろうとするなと、御言葉は促す。そして更に、自分で自分を誇ろうとする必要はないと悟ることへと促す。だって、神様が私を誇って下さるのだから。その喜びの下に入ればいいのだから、と。

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2018年08月26日

2018年8月26日の礼拝

礼拝説教「御子イエス・キリスト」、コロサイの信徒への手紙1章9〜23節、西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)。讃美歌30、511、164。交読詩編62編2〜13節。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ

2018年08月21日

『日々の聖句』2018年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日


(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)


2018年9月

●1(土)
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。    (エフェ4・31)

 自分の心の中にある悪意から、人を傷つける一切のものが溢れ出る。一番愛している家族さえ傷つけ瀕死にさせてしまう。私の心に住み着いた無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりによって。
 人と和解していたと思っても、自分が変わらなきゃ何も始まらない。私の悪意を切り取って、捨てなきゃ何も始まらないんだ。そう思っても、まだ人のせいにする自分がいる。情けない人間の頭が私・・・。


●2(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった。       (マコ1・22)

 主イエスが会堂で語る話しを聞いて、皆が驚いた。それは、他の教えと比べたり、選択可能だったりする人間の教え程度のものではなかったから。神の権威によって、圧倒的に迫る慰めであり、指針であり、励ましであり、掟だったから。
 私も勘違いする時がある。御言葉を「なかなかいい教え」という程度に聞いたり「そのうち従う」とか「これは無理」と自分で選択している時だ。襟を正して「然り」とのみ応答すべき神の言葉なのに。


●4(火)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。    (ヨハ1・14)

 最初に聖書を日本語訳したギュツラフは、この「言」を、何と訳して良いのか苦心した。そして「カシコイモノ」と訳したのだ。「やんごとなき畏きお方、そう日本人に言えば、きっと伝わる」と思って。
 天の父が「あなたを愛する」と言われた言葉が、そのまま畏き方として、人間と同じ肉体となって下さった。それも私たちの間に降って、宿りを得て下さった。
 何度も唱えるように口の中で噛みしめ味わいたい御言葉だ。噛み砕きにくい言葉だけれど、深みが増してくるから。


●5(水)
まず自分の目から丸太を取り除け。         (ルカ6・42)

 「人の罪を裁くな」とイエス様が言われる。それも隣人の罪は目の中のおが屑程度なのに、あなたは目の中に丸太を入れているようなものだぞ、と言われる。そして続けて言われたのがこの御言葉だ。あきれて「お前の大きな罪こそ問題なのに、なぜ自分のことには気付けないんだ。目の前にあるのになぜ見えないんだ」と。
 他人の小さな過ちを見つけては腹を立てて裁いていた。でもそんな私に向かって、主はハッキリ、「偽善者よ」と言われたのだ。今日を、悔い改めの日とせねば。


●6(木)
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。       (コロ3・16)

 いつも感謝する事、互いに教え諭す事、心から神を賛美する事・・・、これらの中心に今日の言葉が据えられている。
 そうか! 感謝も賛美も、心に宿した御言葉への応答として起こるんだ。自分の自然な肉の思いからじゃないんだ。キリストの言葉への応答だから、御言葉が心の内に無いと、感謝も賛美も自己満足になるのかも。熱してもすぐ冷める程度のものになるのかも。互いに諭す言葉だって、キリストの言葉以外は裁きになるしね。


●7(金)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。      (1コリ10・24)

 神の栄光を現わす生き方となるために、人との間でどう生きたら良いのか。その中心が語られている。それは、相手をどう変えてあげたら良いかと考えることじゃなかった。相手を導くことじゃなかった。自分の生きる軸足を、「相手のために」と据えることだった。
 何をするにしても自分に軸足を置いていたかも。だから人とすれ違って、傷つけて、失っていたのかも。イエス様のように「あなたのために」と軸足を据え直したい。


●8(土)
(マリア)「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。  (ルカ1・38)

 天使から御子イエスの受胎を知らされた時、戸惑うマリア。でも神の使いの言葉を受け止めるうちに、自分の常識から神の御心へと向かい出す。そして「神にできないことは何一つない」と聞いた途端、マリアの口から今日の告白が出たのだ。
 マリアの心が、自分のこだわりから神の御心へと転回する時間を、神の側は忍耐して待っていてくださった。私の日々も、いつも神様の側が待っていて下さる。私も今日こそ、マリアのこの告白を言おう。

●9(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。  (マコ1・35)

 イエス様は大事な事をなさろうとする前に、赴く場所があられた。それが御父と二人になれる場・密室の祈りの場だ。
 私は何かに取り組もうとする時、いつもバタバタと自分の思いの中を走り回るだけ。そして自分が立てた計画の後で、やっと「御心のままに」なんて祈っている。これじゃ順序がさかさまだよね。
まず御父の前で自分の思いに沈黙しなきゃ。本当に御心を聞くために。


11(火)
信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。   (ロマ10・17)

 信仰は、聖書の御言葉を聞くこと以外では始まらない。それは信じるということが、神様からの語り掛けへの応答だから。神の側からの働きかけが出発点だから。
 そうか! 自分で「神様のことを信じよう」と思うことが信仰の始まりと考えるたびに、信じることが見当はずれになっていたんだ。信仰さえも、身勝手になってしまっていたんだ。自分の思いが出発点だったから。「まず静かに、あなたの言葉を聞かせて下さい」と祈ることから始めたい。

●12(水)
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。      (ルカ7・13)

 一人息子が死んで棺が担ぎ出されるところに出くわしたイエス様。そのやもめの母の涙をご覧になった途端、ご自身の心も激しく痛まれ、近づき、息子を生き返らせなさった。
 イエス様が悲しみに近づかれる時、その悲しみと一緒に悲しみ始められる。泣く者と共に泣かれる。それが神の御心なのだ。「主の臨在」というのは、そういうお方が私の傍にもおられるということ。なんだか圧倒的な安心に包まれた感じがした。


●13(木)
なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。         (マコ14・6)

 ナルドの香油をイエス様に注ぎ切った女。きっと彼女の全財産だったはずの高価な品。それを見た人々が「もったいない、愚かな使い方だ」と非難した。そのとき盾となられたイエス様の言葉がこれだ。
 豊かな香りの部屋で、主は女の心も受け取って下さった。そして、イエス様だけを見詰め、主のためだけに全てを注ぎ切る女の思いを「良いこと」と宣言して下さったのだ。主を想う心と、主が想って下さるお心が重なる。私もこう在りたいな。


●14(金)
神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。    (1コリ14・33)

 教会の中で、一人ひとりの振る舞いを整えようとするパウロ。信仰においても、人は自分の主張だけする愚かさを重ねてしまう。それが悲しい無秩序を生むのに。それに向けて「否」とおっしゃるのは、神ご自身なのだ。
 正しい信仰も、平和も、声高に主張する人の中には生まれないのかも。真摯に聞く者になる者たちの中に、それも神の言葉を聴くことに生きる者の群れに生まれる。私もその一人になりたい。


●15(土)
自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。    (ルカ14・33)

 イエス様は、何事も万全の準備をすることが大事だねという話をされて、結論でこれを語られた。つまり、主の弟子となるには、自分の持ち物、自分のこだわり、自分を優先したいという思いなど、一切捨てることが準備だということ。それは捨てないと必ず失敗するぞ、ということだ。
 持ち物よりも己を捨てることこそ難しい。その準備不足だから、主に従い切れないのかも。断捨離は自分自身にこそ!


●16(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●17(月・祝日)
主の栄光が周りを照らした。          (ルカ2・9)

 降誕の知らせを告げるため、主の天使が羊飼いたちに近付いた。そのとき神の栄光が照り輝き、彼らを包んだのだ。 「救い主が降誕される、あなたのために来られたのだよ」、この知らせこそが神の光そのものだ。そしてこの知らせを携え伝える者が、神の栄光さえも携えるのだ。
私もその知らせを聞いた日に、神の栄光に照らされていた。それを今度は友人に伝える人となる。そこで私もこの光を携える者にされていた。隣人をこの栄光に包むため。2千年続く福音リレーだ。


●18(火)
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。  (ルカ6・36)

 「敵を愛しなさい。何も当てにしないで貸しなさい」というイエス様の話の結論にこれがある。あなたも天の父の子どもなんだからできるよね、と告げられるのだ。
 イエス様の言葉は、単なる命令じゃない。キリスト者はこうあるべしという戒律とか、道徳でさえない。主は私を見詰めて言われるんだ「できるよ、あなたならできるよ。だって、天の父の子どもだから、愛されている子どもとして生きてご覧」と。一歩踏み出す勇気が湧いて来る。


●19(水)
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 (コロ1・13)

 御子イエスによる贖いの御業を分かりやすい言葉で伝えてくれる。「あなたは闇の力に支配され、闇の行いに生きて来た。でも御父が救出して、祝福と光の陣営に移して下さったのだ」と。「もう自己中心という闇の支配の外なんだよ」と。
 天の父が脱出劇を成功して下さったんだ。だから、私は助けられた者として、光の陣営の中にいる者らしく、天を見上げて歩いて行こう。闇の陰を引きずるな!


●20(木)
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。        (マコ4・39)

 舟の上で、大嵐に悩む弟子たち。こんな困難はどうにもならない、と恐れる者たちの前で、主は嵐に一喝された「黙れ。沈まれ」と。
 愛弟子たちのために、何でもして下さるイエス様。自然をさえ従え、全てを支配されるイエス様。それを知って嬉しくなる。でも・・・。同時にこのすぐ後に言われた言葉が心に突き刺さった「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。私の不信の嵐にこそ「黙れ、静まれ」と言われた気がした。

●21(金)
わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。   (エフェ4・7)

 「教会」は「キリストの体」として「一つ」だから、一つになるように生きよと言われた直後に「しかし、わたしたち一人一人に」と続くのだ。一つであるということは、皆が同じであるということじゃなく、バラバラの個性だけれど結び合わされるということ。そのバラバラの個性を、神からの賜物として生かせということなんだ。
 個性が賜物となる。それはただ主が用いて下さる時にだけ。その受け身の用いられ方で、私も教会も、豊かになれるんだ。


●22(土)
わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。   (1コリ4・3)

 コリントの教会の人たちから「使徒としてふさわしくない」と批判されたパウロが「人間に裁かれようとも問題ない」と断言して、「自分でさえも自分で裁かない」と続けた。「毅然と立つ彼。人の口にあることで動じないんだ」と思ったけど、その先がまだあった「裁くのは主である」と。
 一番の義なる裁判官の前に自分を立たせたパウロ。正も偽りも見通す神が裁判官。毅然とした姿だと感じたのは、その神の前に立ったからなんだ。人の口が気にならない場所は、そこ以外に無いんだ。


●23(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●24(月・祝日)
(マリア)「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」         (ルカ1・47)

 幼子イエスを宿したマリアに、従姉のエリザベトが「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸い」と告げた言葉に応答して“マリアの賛歌”が始まる。これはその冒頭の言葉だ。
 常識と懸け離れた受胎の出来事の中で、戸惑いを通って、しかしそれを「主の御業だね」と数え合う姉妹たちの何と豊かな姿だろう。一緒に現実の中で神を仰いでいる。一緒に賛美して、祈っている。

●25(火)
(イエス)「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」        (マコ1・15)

 マルコ福音書の冒頭に、この主の第一声が置かれている。そしてこの御言葉が、福音書全体を貫いて、通奏低音のように響いているのだ「さあ早く、今こそ、悔い改めるんだ。神に向きなおれ、立ち帰っておいで。福音を信じるんだよ」と。
 私の人生の初めから、イエス様は語りかけていて下さっている。人生の通奏低音のようにずっと響いている御言葉が、これなんだ。激しくも、温かくも、切なくも響いている。私を捉えて離さない御言葉だ。


●26(水)
動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。           (1コリ15・58)

 パウロが「あなたは罪と死の支配下にいない。キリストによってもう勝利を手にしたんだ」と宣言して「こういうわけだから・・・」と語り出したのが今朝の御言葉だ。「安心して、ただ主のため、キリストのためにと歩いたら、万事が益となる」と告げた。そしてその最後には「そのどの苦労も無駄にならないからね」と加えた。
 人生が無駄にならないと、今日聞けて安心した。それって私も還暦になったからかな。人生の後半も、「ただ主のため」だ。


●27(木)
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと決めていた            (1コリ2・2)

 当時の一流私塾の首席だったパウロ。誰よりも知恵に満ちていた彼なのに。最も愚かに見える犯罪人の印・十字架刑で死んだイエスが救い主なんだと語り続けた。それ以外語るまいと決心さえして。
 「イエス様が救い主だ」と説得する言葉を探してきた私。でも説得や学びで信仰は生まれない。人が救い主を信じるのは、神の力のみ。それが最も顕れたのが十字架の死なんだ。私が伝える十字架の言葉に神が働かれると信じて愚直に語ろう。


●28(金)
ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。           (ルカ7・7)

百人の兵士の部隊長が、部下の病の癒しをイエス様に願い出た。しかも遠くから「お目通りする事さえ相応しくない私ですが、“治れ”と命じて下さい。あなたの命令に何もかもが服従しますから。権威を持つあなたの一言を」と申し出たのだ。
私には、これほどの信頼があるのだろうか。主の一言がどれほど力があるのか信じているだろうか。御言葉によってたくさん“一言”を戴いてきたのに聞き流した。御業が見えないのは、聞き流すからかも。


●29(土)
御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。       (2テモ4・2)

 「信仰によるまことの子」と、パウロが信頼したテモテ。その彼に「折が悪い時がある。でもそのど真ん中で御言葉を語れ」と告げた。「誰も聞こうとしない時にも、なお語れ、それがあなたの務めだよ」とも。
 私は神様から恵みを貰うことばかり考えて、アレもコレも欲しいと言うだけかも。神様に「私の子よ」と言ってもらえているほどなのに、しなくてはならない務めは棚上げ。ふと、私って調子いいキリスト者だなと思えた。ひどく申し訳なく思えた。


●30(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



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