2018年07月01日

説教 『そして主の兄弟、姉妹になる』

2018年7月1日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章46〜50節
イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 母マリアが、長男イエスに会いたいと訪ねて来ました。その母マリアに対して、イエス様が「わたしの母とは誰か」と言われたのです。イエスの家族であるのは、血肉の繋がりじゃなくて、お腹を痛めたマリアであろうと、ある日ある時、新しい家族に入るということなんです。その新しい家族に入っていく正面玄関が、50節の「天の父の御心を行う」ということです。だからマリアも、弟達も、別々の家庭で育った弟子達でさえ、さらに全く他人だった群衆さえも、イエス様の家族となれるということです。イエス様に心血を注いで守って頂ける一員に、私どもも成れるということです。

 それにして、そんなに嬉しい神の家族なのに、どうして最初から母マリアが入っていなかったのか。恐らくマリアにとっては、この時までその家の入口を知ならなかったからではないでしょうか。その母マリアをイエス様がご覧になって、伝われとばかりに話し出されました「わたしの天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である」と。「ここから入って欲しい」と切ないほどの思いでイエス様は、マリアたちを見詰めておられたのです。「わたしの母とは誰か」と言って、悲しみ深い所におられたのは、それを聞いたマリアというより、それを言わざるを得なかったイエス様なのではないですか。マリア達は、このあといつからかイエス様と旅をするように、人生が変わって行ったようです。身の回りのお世話をする人の中に入って、イエス様の言葉を聞くようになって行く。そこでも何度も御心を行うことに失敗して、きっと自分中心の思いと言葉が出てしまう事になったかもしれない。どうして自分を尊重してくれないのと嘆きつつ、それでも一行の後をトボトボと付いて行く、傍を離れられずに、ただひたすら付いて行く歩みを重ねたのだと思うのです。そういう歩みの中でマリアは、天の父の御心を聞こうと祈るイエス様の姿に四六時中触れて、自分の中にも、祈りつつ御心を行う歩みが生まれていたのではないでしょうか。その時マリアは、イエス様の歩み方と同じになり、主の家族の歩みになっていたのだと思います。

 私どもも、御言葉に従って歩みたいと願う一人ひとりなのに、その歩みに転んでしまう。それでもやっぱり、イエス様の傍からは離れられなくて、トボトボと、一番後ろだけど、遅れながらだけど、イエス様のあとをついていく信仰の生活を続ける。なお、御言葉を欲っして、天の父の御心を行う人になりたいと歩みを重ねる人生に、イエス様から、声を掛けていただけるのです「あなたは、私の兄弟、姉妹になったね」と。トボトボと歩む私どもを慈しみつつ、「もう私の家族だよ」と呼んで下さるのです。
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2018年7月1日の礼拝

礼拝説教「そして主の兄弟、姉妹になる」、マタイによる福音書12章46〜50節、辻川篤牧師。讃美歌22、195、365。交読詩編52編3〜9節。
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