2018年07月08日

説教 『善い業を始め、成し遂げる方』

2018年7月8日 創立70周年記念礼拝説教
相模原教会牧師 辻川篤
フィリピの信徒への手紙1章3〜6節
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

 戦後まもなく、相模原の地に引き上げて来た人たちがいました。すぐに「相模原教会」として教団に届け出がなさます。1948年のことです。その日の喜びを書き残した原稿がありました。「我は、汝らのうちに善き業を始めたまひし者のキリスト・イエスの日まで之を全うし給ふべきことを確信します。(フィリ1章6節)相模原教会も神によって始められ、神によって保たれるのであります」と。教会の将来に、神の御業が続くことを見詰めておられたのです。

 その感謝の中で、しかしでした。教会員がそれぞれの故郷に帰り、礼拝は途絶えてしまうのです。

 もしも教会が、人間が始めようと言って始められたものであったのなら、この時点で空中分解していたでしょう。でも時を同じくして、米軍補給廠で聖書研究会を始めていたのです。そして「相模原の地に出て、正式に教会として伝道を始めるのだ」と教団に「相模原教会設立」を申し出た時にでした。すでに「相模原教会」という名称が登録されていたことを知ります。それらは全く別の群れなんです。それなら名前も、別のものにしたほうが良いと、この世の常識なら考えませんか。でも彼らの思いは違ったのです。それは彼らもきっと、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、その業を成し遂げてくださる」との信仰に立っていたのかも、と思えてなりません。だから、相模原教会を始めて下さったのが神であられるのなら、なお教会を保ち完成させて下さるに違いない、自分たちはその途上に立つのだと、そう信じた。そして「相模原教会」の名前を引き継いだのです。初代牧師を迎え、献堂もされ、神が始められた善い業は、また一つの通過点を、喜びをもって通ったのであります。

 私どもが、教会の創立70周年を振り返るなら分かることがある。それは、神のなさる善い業は、連綿と続くということです。それは、私どもの人生においても同じなんです。神様が「命あれ」と願われたから、この命があるのです。どんな命も神様にとっては、善い業の結晶なんです。だからこそ、その業を保って下さるのも神ご自身なのです。小さな御業を与え続け、苦難を乗り越えさせて下さる。何よりも一緒に祈り一緒に人生を戦ってくれる兄姉を与えられる。私どもはいつも、神の善い御業に囲まれて生きているのです。それは、日ごとに「御業」を数える人生となり、言い換えるなら「恵み」を数える生活となるのです。それは「自力」によらず、神の御心が成就することを希望して歩む人生となるでしょう。そういう信仰生活が、もう恵みではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 19:03| 主日説教要約

2018年7月8日の礼拝

この日の礼拝は、相模原教会創立70周年を記念して行われます。特にこの日は、創設期の神の御業と、兄姉の願いと祈りにも触れたいと思います。礼拝説教「善い業を始め、成し遂げる方」、フィリピの信徒への手紙1章3〜6節、辻川篤牧師。讃美歌225、262〈十字架のもとぞ〉聖歌隊、210。交読詩編119編129〜136節。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ

2018年07月01日

説教 『そして主の兄弟、姉妹になる』

2018年7月1日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章46〜50節
イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 母マリアが、長男イエスに会いたいと訪ねて来ました。その母マリアに対して、イエス様が「わたしの母とは誰か」と言われたのです。イエスの家族であるのは、血肉の繋がりじゃなくて、お腹を痛めたマリアであろうと、ある日ある時、新しい家族に入るということなんです。その新しい家族に入っていく正面玄関が、50節の「天の父の御心を行う」ということです。だからマリアも、弟達も、別々の家庭で育った弟子達でさえ、さらに全く他人だった群衆さえも、イエス様の家族となれるということです。イエス様に心血を注いで守って頂ける一員に、私どもも成れるということです。

 それにして、そんなに嬉しい神の家族なのに、どうして最初から母マリアが入っていなかったのか。恐らくマリアにとっては、この時までその家の入口を知ならなかったからではないでしょうか。その母マリアをイエス様がご覧になって、伝われとばかりに話し出されました「わたしの天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である」と。「ここから入って欲しい」と切ないほどの思いでイエス様は、マリアたちを見詰めておられたのです。「わたしの母とは誰か」と言って、悲しみ深い所におられたのは、それを聞いたマリアというより、それを言わざるを得なかったイエス様なのではないですか。マリア達は、このあといつからかイエス様と旅をするように、人生が変わって行ったようです。身の回りのお世話をする人の中に入って、イエス様の言葉を聞くようになって行く。そこでも何度も御心を行うことに失敗して、きっと自分中心の思いと言葉が出てしまう事になったかもしれない。どうして自分を尊重してくれないのと嘆きつつ、それでも一行の後をトボトボと付いて行く、傍を離れられずに、ただひたすら付いて行く歩みを重ねたのだと思うのです。そういう歩みの中でマリアは、天の父の御心を聞こうと祈るイエス様の姿に四六時中触れて、自分の中にも、祈りつつ御心を行う歩みが生まれていたのではないでしょうか。その時マリアは、イエス様の歩み方と同じになり、主の家族の歩みになっていたのだと思います。

 私どもも、御言葉に従って歩みたいと願う一人ひとりなのに、その歩みに転んでしまう。それでもやっぱり、イエス様の傍からは離れられなくて、トボトボと、一番後ろだけど、遅れながらだけど、イエス様のあとをついていく信仰の生活を続ける。なお、御言葉を欲っして、天の父の御心を行う人になりたいと歩みを重ねる人生に、イエス様から、声を掛けていただけるのです「あなたは、私の兄弟、姉妹になったね」と。トボトボと歩む私どもを慈しみつつ、「もう私の家族だよ」と呼んで下さるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:56| 主日説教要約