2018年06月03日

説教 『ぜひあなたの家に泊まりたい』

2018年6月3日の礼拝
東京神学大学学部4年 藤森誠

ルカによる福音書19章1〜10節
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 ザアカイは、イエスがどんな人なのかを見に行きました。しかし、群衆に遮られ見ることができなかったため、木の上に登ったのです。木の上は他に誰もいません。素晴らしい見晴らしです。そこに、イエス様が近づいて来られ、立ち止まり、上を見て言われるのです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。

 何とも不思議な呼びかけです。イエス様は初対面の相手にも関わらず、家に泊まりたいと言われる。私だったなら、準備ができていないからと断るでしょう。しかし、ザアカイはその言葉に従い、すぐにイエス様を迎えました。しかも喜んで迎え入れたのです。それによって、「救いがこの家を訪れた」のです。その日、ザアカイの家を訪れたのは誰であったのか。それはイエス様です。つまり、イエス様ご自身が救いなのです。そのイエス様は、失われた者を探して救うために来られたと言われるのです。

 失われた者とは、神様から失われてしまった者です。しかし、それは神様が捨てたということを意味しません。神様の元を離れるのは、いつも私達人間なのです。ザアカイは木に登ったことで、最善の選択をしたつもりが、イエス様から遠ざかるという最悪の選択をしてしまっていたのでした。

 ですがイエス様は、自ら離れて行く私達を探して見つけ、あなたの家に泊まりたいと言われるのです。イエス様を家に泊めるということは、私たちの心の中にお迎えするということです。しかし、これが難しいのです。私の心の思いを含めた全生活が、見られてしまうからです。できれば、イエス様をお迎えしたくない。心に私だけが住む時、そこにあるのは、私の思うままにできる自己中心な私です。しかしそれではいけないと主は語られるのです。

 イエス様が私の心に住む時、私達に悔い改めが起こるのです。日々の生活においても、イエス様を思う時、私達の心のあるじはイエス様となるのです。私が望む道を歩んでいたのを、神様が望まれる道を歩む、それも主と共に歩むのです。ここに救いが起こるのです。しかし、気が付くと、私はこう歩みたいという思いが大きくなり、イエス様の居場所を奪ってしまうことがあります。ですから、私達はこの物語を読むたびにイエス様から問われています。「あなたの心に今も私は留まっているのか。そうでないなら、私はあなたの家に留まらねばならない。それが私の意思であり、神様の願いであるのだ」と。そう、主は願っていてくださるのです。

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2018年6月3日の礼拝

礼拝説教「ぜひあなたの家に泊まりたい」、ルカによる福音書19章1〜10節、藤森誠神学生(東京神学大学学部4年)。讃美歌20、365、249。交読詩編69編17〜22節。
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